[5]


 三十分ほどで着いた警察本部庁舎は、何も知らなければ高級ホテルに見えたことだろう。

 立て直されたばかりという、縦に伸びた直方体のそれは、まだ白い外壁を白いまま残し、窓ガラスはそれ自体が光を放っているかのように眩い光を振りまいていた。何階建てか数えるのが億劫なくらいには大きく、何部屋あるのかなど見当もつかない。


 車は吸い込まれるようにして地下の駐車場に入り、薄暗い照明の下で止まった。


「常陸さん、わたしは中で、どういう立ち位置でいればいいですか?」


 私服とはいえ、黒ずくめの男性とパンツスーツの女性に挟まれて警察組織内部を歩くのは、想像してみても違和感しかない。前回と同様にワゴンで待機、では流石に悲しみを覚えるので、自分からは口にしない。そのくらいの抵抗は許されるだろう。


「あー、どうしようかな。声を掛けてくる奴もそうそういないと思うが、設定は作っといた方がいいか。

 えーと、補導された高校生ってのはマズいだろうし、痴漢された被害者と犯人つーのは真名ちゃんが可哀想だし」


「その場合、可哀想なのは僕だという説がある。

 私服だし、当たり前のようにしていればいいんじゃないかな。案外、他人は気にしないものだよ。見知らぬ人が職場にいたところで『他の誰かの知り合いだろう』とか、『どこかの部署の新人かな』とか、都合のいいように人間は解釈をするからね。

 そもそも、社会というのは『全員が定められたルールを守る』という前提を持って成立しているんだ。率先して逸脱していく人間がいるとはまず考えない。そんな存在を認め、生活の前提にしまったら、社会で生きることはできない」


「社会、ねえ。こういう商売してるとまともな奴のほうが少ないっつー印象があるんだが」


「常陸君、棚上げという言葉を知っているかい?」


「知識は持ってるよ。理解してるかは別にしてな」


 部分だけ切り取れば少しかっこいいセリフだった。

 やはりこの二人は、仲がいい。本人たち、というか常陸さんは絶対に否定するだろうけれど。


 結局、「なるようになるんじゃん?」という常陸さんの一言で、なんの弁解も用意せずに徒手空拳で進むことになった。常陸さんを先頭に、「職員用」と掲示がされている入り口を通る。常陸さんは守衛らしき人に「ちわーす」と声をかけ、宗像さんは軽く一礼をし、わたしはそれにくっついて進んだ。

 入ってすぐの所にあるエレベーターに乗り込む。途中、警察官らしき人も乗り降りしたが、何の声もかからなかった。一市民として、警察のセキュリティが心配になるくらいである。


「いつもあたしが昼寝に使ってる部屋があるから、まずはそこに行こうぜ。その後は白良さんに見つからねーようにしながら、空木と面と向かえるように段取りだな」


 エレベーターを降り、歩きながらそう言う常陸さんを、宗像さんが呆れ声で諭す。


「ねえ、常陸君。『白良さんと相対する』のは不可避の強制イベントなんだ。そうであるならば、自分から探して、誠心誠意謝るのが正解じゃないかい? そんな怒りを蓄積させる暴挙に出ずにさ。僕からすると自殺志願に見える」


「何言ってんだよ。『怒りが蓄積する』なんて俗説だ。人間の怒りのピークは六秒前後らしいぜ。ということは時間が過ぎれば過ぎるほど、白良さんの怒りは風化していくはず、だ、し……」


 先頭で陽気に自論を述べていた常陸さんだったが、廊下の角を曲がったところでフリーズした。最後尾のわたしの位置からでは見えないが、常陸さんが誰を見つけてしまったのかは容易に想像がついた。笑うかどには福来ると言うが、この角(かど)にいるのは鬼だろう。


 案の定、角の向こうにいたのは、白良さんだった。

 白良征一郎。常陸さんの直属の上司にして、白ずくめの名俳優。

 なのだが、今日のスタイルは落ち着いた紺色の、言うならば、『普通のスーツ』だった。

 手袋もつけていないし、ロイド眼鏡も掛けていない。もちろん、手にステッキもない。

 前回見たアレは、あくまで事件用の衣装、ということか。確かに、あの服装でそこら中をうろうろしていたら、新たな都市伝説が生まれる可能性が高い。それは冒さなくていいリスクである。


 ……そもそも、解決の舞台にあの服装は必要なのか、という話は置いておこう。わたしの知らない、何か深い理由があるのかもしれない。

 白良さんの表情は真顔。文字通りに、真に迫った顔だった。自分が怒られるわけでもないが、当事者だったら相当に堪えるだろう。常陸さんの顔が、青く染まる。


「お早い出勤だな、未練」


 前回も聞いた、低く、よく通る声。トーンは弱者に死刑を宣告する王様のそれと同質だった。


「あ、あははは、えーと、おはよう、ございます? 白良さん」


 常陸さんは白良さんに頭が上がらない、とは宗像さんから聞いていたことだし、前回の事件の際もその片鱗が見えていたが、本当に先ほどまでのヤンチャぶりが嘘のようである。

 白良さんはジッと常陸さんを眺めている。反省の度合いを値踏みしている、というわけでは多分ない。どうやって処分をしようか思案している、わけでも恐らくない。もう白良さんの中で常陸さんの処遇は決まっていて、その憐れな部下の未来を頭に描き、丁寧に咀嚼しているのだろう。

 永遠を思わせる十秒ほどが過ぎた時、白良さんは視線を常陸さんから外すと、表情を幾分か和らげ、こちらに声を掛けた。


「やあ、九郎、真名嬢。部下が失礼をした。部屋はすでにおさえてある。詳しい話はそちらでしよう。…………未練」


「はい!」


 直立不動のいい返事だった。高校球児のようだった。


「九郎との同席は紅野こうのに頼んである。自分の席にいるはずだ。事前に伝えた手筈通りに動くように伝達しろ。速やかに、行け」


「了解しました!」


 全力で走り去る常陸さんを見送ると、白良さんは一つため息を吐いた。


「本当にすまないね。貴兄らにも予定があっただろうに」


「僕は構わないですよ」


「わたしも、アルバイトの時間内ですから」


「そう言ってもらえると助かる。とりあえず歩こう。ここでは些か目立つのでな」

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