[1]
掌に乗せた文庫本を閉じて、腕時計に目を向ける。初めてのアルバイト代で買った電波時計は、今日も正確に時を刻んでいる。
七月十四日、木曜日、時刻は十四時三分十三秒。
『常陸君が僕の留守中に来るかもしれない。その場合はよろしく頼むよ』
宗像さんがそう言って出て行ってから、三十分ほどが経過していた。
人が来る、という意識を持ち続けている時間は、どうにも好きになれない。もっと端的に言うなら、嫌いだ。いつ炸裂するかわからない爆弾を渡されている気分である。
まあ、仮に常陸さんが来なくても、宗像さんが帰ってくるのは確定しているのだ。『そもそも来るかもわからない』に比べれば、些かマシと言える。
そして、わたしを承認してくれる誰かをただ待ち続けてきた時間に比べ
れば、遥かにマシであった。
『貴方の目的は、何ですか?』
その問いかけに対し、口を開こうとした宗像さんを――わたしは『やっぱり、言わないでください』と遮ったのだった。
宗像さんの目的は、わたしが答えなければいけない。
宗像さんが確信を持って、わたしを殺人者だと指摘してくれたように。
それが、礼儀という気がしたから。
だが、殺人者を身近に置いておく理由など、簡単に見つかるものではなかった。結局、わたしはこうして、変わらず事務所で時間を浪費している。
それにしても……あの時のことを思い返すと顔が熱くなる。
長年焦がれた言葉に興奮し、浮かれ、思うがままに心情を吐露した。ああ、まったく……こういうことになるから、丁寧に、慎重にを心がけてきたというのに。後悔は、先に立たない。
そのまま遠いところに心が行きそうになった時、ドアを叩く音がした。
コンコンというより、ドンドンというオノマトペが相応しいノック音。顔を上げそちらに目を遣ると、常陸さんはすでにノブを引き開け、こちらに歩みを進めていた。わたしが『どうぞ』の『ど』の音も出していないうちに。
せめて挨拶は後手を取らないよう、
「こんにちは」
と言い頭を下げる。常陸さんは片手を挙げながら「よう、真名ちゃん」と陽気に言うと、向かい側のソファに腰を下ろした。
相変わらず、スタイリッシュなパンツスーツ姿で、長い脚をソファとガラステーブルの間に開き、腕を膝の上にゆうゆうと乗せる。もしここで胸ポケットから煙草を取り出し、わたしがそれに火でも点けたら、変わった極道映画のワンシーンになるかもしれない。女若頭と女子高生の補佐役。……ちょっとおもしろそうな気がしてきた。自分が制服姿でないのが惜しまれる。
「平日なのに
常陸さんはそう言いながら、自然な動作でテーブルに置かれた御茶菓子(今日は
「定期試験期間中なので、午前中で終わりです」
わたしはわたしで、常陸さんの分のお茶を用意しながら答える。煎餅ならば聞くまでもなく緑茶でいいだろう。宗像さんがテーブルにお茶セットを用意していってくれたので、粉緑茶をカップに入れ、電気ケトルでお湯を注ぐだけである。
どうぞ、と湯気の立つそれを差し出すと、常陸さんは「さんきゅー」と言って取っ手を握り、息を二、三度と吹きかける。
……自分で淹れておいてなんだが、本格的に夏が到来しようとしている七月中旬に、熱い飲み物しか用意できないのはどうなのだろう。後で宗像さんに相談してみようか。今後の自分のためにも、冷たい飲み物の選択肢は欲しいところだ。暑い中でこそ熱いものをとも言うが、飲み物で修養をしようとは思わない。
「ふーん、定期試験ねえ。懐かしい響きだな」
「懐かしい、というほどの年齢なんですか?」
思わずそう訊くと、常陸さんはクツクツと苦笑した。
「真名ちゃんからあたしがいくつに見えてるかわからんが、あたしと真名ちゃんとの間には十年近い開きがあるんだぜ。十年っていったら十歳が二十歳になっちまう長さだぜ」
「八十歳が九十歳になる長さ、というと大したことなさそうに聞こえますけどね」
「あれ、確かにそうだな。何でだろうな」
常陸さんは一瞬思案顔を見せたが、即座に「まあいいや」と言って再び煎餅に手を伸ばした。
「あたしなんていまだにテストの夢見るぜ。日程勘違いして、一夜漬けの科目が無駄になる夢。まったく、トラウマ体験を量産するようなもんを教育システムに取り入れるなっつーの。
つーか、『期間中』ってことは、明日もテストなんじゃねーの? 家で勉強しなくていいのか?」
「普段してますから」
「……マンガ以外で初めて聞いたぜ、そのセリフ……え、なんだ、余裕の学年一位ってヤツか? 『誰でもいいから、早くわたしを脅かす存在に育ってくれないかしら』って感じか?」
「まさか」
学年全体の位置で言えば、中の上がいいところだろう。朱星女子のレベルはそれほど低くない。しかし、これ以上順位を伸ばす理由説明が自分の中にない。人間は必要に迫られない限り、興味のないことにあくせくとはしないものだ。わたしの勉強へのモチベーションはそんなものである。
「ま、こちらとしては真名ちゃんがいてくれたほうがありがたいからいいんだけどな。……あれ、そういや宗像は? 何でいねーの?」
本気で気づいていなかったのか否かは聞いても仕方のないことかと思い、質問にだけ答える。
「お昼を取りに出ています」
「昼飯ねえ。それにしちゃ、ちょいと遅い時間だな」
それは、確かに。本日分のテストを終え、家に帰り、お昼を取り、着替え、事務所に着いたのは一時三十分ごろ。宗像さんは、わたしとほぼ入れ替わりで出て行ったのだった。
「人と約束があるっていうのに席を外してるなんて、ルーズな奴だよ。何時の約束だと思ってんだか」
……何時の約束だったのだろう。そう言えば、それを宗像さんに聞いていなかった。自分のルーズさを指摘されたようで気恥ずかしくなる。
「何時にお会いする予定だったんですか?」
「ん? 十時きっかり」
「……午前のですよね?」
この確認に、当然じゃんと笑いながら答える常陸さん。控えめに言っても四時間の遅刻である。どう考えてもルーズなのは常陸さんだ。
快活に笑いながら、常陸さんは言う。
「いやー、最近徹夜続きだったこともあって、すっかり寝坊しちまってさ。起きたら時計の針は一時を指してんのに外が明るいんだから驚いたのなんの。この世の終わりかと思ったぜ。日蝕に驚いてた時代の人間の気持ちがわかったぜ。んで、寝癖直すのもそこそこに、押っ取り刀で自分のマンションから直でこっちに来たってわけだ」
「仕事先のほうは大丈夫なんですか?」
「怒られるのがイヤだから連絡してねー」
「…………」
爽やかに言われてしまい、文字通りに絶句。
こういうことをしてはいけない、の見本市みたいなことをしている人だった。ここまで来ると、『むしろ自分がそういう生き方をするにはどうすればよいだろう』という人生論にまで発展できそうである。警察の世界は過酷だと思っていたが、存外に色々と寛容なのかもしれない。
つまり約束をすっぽかされた宗像さんの今日を要約すると、
『午前十時に約束→常陸さんが来ない→来るかもしれないから昼食も取りに行けない→時間が過ぎる→わたしが来たので交代で外へ』
という流れらしい。
あれ、ということは……。
「もともと、わたしは今日いない予定だったんですか?」
そういえば、先ほど常陸さんが『いてくれたほうがありがたい』と言っていたことに思い至る。
「ああ。今日の事件に関しては、真名ちゃんが必要かどうかわかんなかったからな」
必要かどうかわからない? どういう意味なのだろう。
「どういう……」
それに続く言葉は、喉の奥に引っ込んだ。
ドアが再び叩かれたのだ。
先ほどとの違いは、応答する猶予が与えられたこと。
今度は、相手が誰なのかはわかっている。「どうぞ」という返事をするのも妙な気がして、「はい」と応える。向こう側に声が届いたかどうかは分からないが、少しの間の後、ドアは開かれた。
開けたのは当然、この事務所の主にして黒ずくめの探偵――宗像九郎。
「あれ、来ていたのかい常陸君。何度か携帯に連絡したんだが……」
「ああ、白良さんに怒られるのがイヤだから、電源切って家に置いてきた」
見本市にまた一つサンプルが提出された。宗像さんは「何の話だい?」と首を傾げている。
さて、どこから説明し、何から訊くべきだろうか。
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