[2]


 六月も終わりが見え始めた土曜日の午後。わたしは六回目の出勤のために歩を進めていた。

 なお『五回出勤した』と言っても、解決した事件は一つもない。

 理由は簡単だ。事件が起きない。

 事件が起きなければ、解決もない。

 勤務時間にしていたことと言えば、お茶を飲みながらゲームをしたり、本を読んだり、短い雑談をしたり……。

 今朝がた学校に行く前、久しぶりに顔を合わせた父親からの「アルバイトは順調か?」という問い掛けに、言葉が詰まってしまった。今の状況を書面でまとめて報告したら、マイルドな援助交際と勘違いされかねない。

 もはや見慣れたアーケードに入り、店舗を横目に進んでいく。土曜日ということもあり、友だち連れや家族連れが目立った。人生を謳歌している、わたしとは無縁な人たち。

 採用試験が終わってから、そんな人たちを、無関係な他者を見たところで心がさざめくことはほとんどなくなっていた。

 代わりに、暗い思いが、自分を支配しそうになる。


 どこかの誰かが、どこかの誰かを殺してくれないかと。


 ……まったく、どうしてわたしはこうも、自分のエゴに従順なのか。死ねばいいのに。

 そんなことを考えながら歩いていると、事務所が見えてきた。注意深く、前後左右を目視する。ここで朱星女子の生徒に、殊に同窓生に目撃され、


『あの真名さんが、よくわからない建物に入っていったよ』


 などと情報共有されては、わたしの評判は底を貫いて決壊することだろう。ただでさえ今の学校生活はギリギリの綱渡り状態なのだ。底にいる人間は人間で、気を使って生きる必要がある。

 階段入口の張り紙は、とうに剥がされていた。上にあるのが探偵事務所だと知っている人間はほとんどいないだろう。看板を出しているわけでも、窓に「宗像探偵事務所」とマーキングフィルムをしているわけでもない。

 当たり前だ。浮気調査や迷い猫の探索を依頼されても処置できないのだから、広告など出せない。……いや、迷い猫の依頼であればぜひにも受けてもらいたいのだが、まさか迷い猫と殺人限定の依頼募集をかけるわけにもいかないだろう。

 急ぎ階段を駆け上がって、金属扉を叩く。宗像さんにインターフォンという文明の利器が設置されていない理由を聞いたところ、


『あの電子音が苦手でね』


 と言われ、


『わかります』


 と納得してしまったので、文句は言えない。

 が、この扉を叩く、という行為はいまだに慣れない。どうしても、ノックの前に一呼吸も二呼吸も入れてしまう。

 叩くのは三回。気持ち強めに。鈍い金属音が薄暗い廊下に反響する。すると、宗像さんの「どうぞ」という声が僅かに中から聞こえて……こなかった。

 返ってきたのは「あいよ」というフランクな、女性の声だった。


「…………」


 来客だろうか。それにしては軽い返事だ。まるで自宅に訪ねてきた友人を迎えるかのようなトーンだった。

 一瞬躊躇したものの、開けないわけにもいかないのでゆっくりとノブを回し、引く。

 中を窺いながら入室すると、宗像さんの姿は見えず、代わりにいたのは一人の女性だった。

 年の頃は宗像さんと同じく二十代半ばほどか。しなやかそうな体躯にピッタリとしたグレーのパンツスーツを身に着けている。

 三人掛けのソファを三人分たっぷり使って寝そべり、『不思議の国のアリス』のチェシャ猫のようにニヤニヤと笑っていた。伸ばしているのではなく、伸びてしまった、という感じの髪の合間から覗き出た目が、多分の好奇心を含んでこちらに向けられている。待っていたぜ、という風に。

 切れるカードもなく、わたしが「こんにちは」と無難に頭を下げると、女性は、体を起こしながら、「おう」と、泰然自若にそれを受け入れた。そして手招きに応じたわたしが正面に座るなり、不敵な笑顔と共に言うのだった。


「初めましてだな。あたしは常陸未練みれん。国のお巡りさんだ。宗像九郎へ仕事を斡旋する係をしている。よろしくな、真名ひいらぎちゃん」


 ハスキーな、こちらの体に響いてくるような声で語られた内容に、わたしは、安堵した。

 ああ、良かった。思った通りの人だった。


「初めまして、真名ひいらぎです。朱星女子高校の一年生です。よろしくお願いします、常陸未練さん」


 わたしの返答に、常陸さんは、思いがけない、という風に眉を上げ、先ほどよりも幾分声を高くした。


「……あれ、この場面では『警察官、ですか?』とか『警察が探偵に仕事を頼むってどういうことですか?』とか、『そもそもどうしてわたしの名前を知ってるんですか?』とか、あたしのセリフの後に、『常陸未練と名乗る女性は不敵に笑った』みたいなミステリーっぽいエクリチュールが入るとか、そんなのを期待をしてたんだが……」


「宗像さんの探偵術、というか〈力〉は、その都合、何かしらの機関が間にないことには役に立たないと思っていましたので」


 殺人限定で依頼募集などできない。

 偶然居合わせた殺人事件を解決して生計は成り立たない。

 ならば、答えは一つしかない。


「直接尋ねることもありませんでしたが、『宗像さんは警察に属している』という可能性すら考えていました」


「あー、極々一部ではそうした方がいいって意見もあるんだけど、まあ無理だな。現状、あいつの力を信じてる奴より、信じてない奴の方が圧倒的に多い。幽霊とか化物ってのは信じない人間には見えないらしいぜ。『ベルセルク』で言ってた。

 信じさせようにも、水掛け論になるのは目に見えてるし。流言飛語の元締め扱いされて、こっちの首が飛ぶ可能性すらある。超能力っつーか特殊能力みてーなもんは、表沙汰にすべきじゃないってことだ。

 何よりアイツが同僚になるとかすげえヤだから話が出ても全力で揉み消す」


「僕がそこまで嫌われていたとは思ってもみなかったよ、常陸君」


 そう言いながら、宗像さんは隣の資料室から出てきた。いつも通りの黒ずくめで、右手に文庫本を、左手には丸型のクッキー缶を持っていた。


「やあ、真名君。今日も素敵な私服姿だね」


「……採用試験の延長戦ですか?」


 こうも予定調和的に登場されると、邪推の一つもしたくなる。


「いや、僕はめた方がいいと具申したんだが、常陸君の強い希望でね。真名君に一泡吹かせたかったらしい。まったく、前回の惨敗がよっぽど悔しかったのだね」


「ちげーし! あたしはそんな子供じゃねえし!」


 どうやら最初の不穏で不敵な雰囲気は強引なキャラづくりだったようで、常陸未練さんは、ムキーという擬音が背景に見えるくらい、まさしく子供のように、全力で宗像さんの言葉を否定している。


「ええと、惨敗というのは何のお話ですか?」


「一人の可哀想な大人の話さ。真名君が気にすることじゃないよ。というより、気にしないで上げてくれ。……さあ、とりあえず、お茶でも淹れようか」

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