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耳に入るのは、時々思い出したように唸る空調音と、疾走感あふれるメロディーと、プラスチックのボタンが押されるポチポチという音。音のある静寂、というと矛盾めいているが、今の事務所内はそんな有様だった。
顔は腿の上の液晶画面に向けたまま、目だけを動かして宗像さんを一瞥してみる。わたしと同様の俯き加減ではあるが、真剣な顔つきであることはわかる。あの日の、採用試験の時のような……と連想されて『この人の真剣な表情はどれだけ安いのか』と頭を抱えたくなった。
目を閉じる。
状況を整理しよう。
三日前の土曜日、わたしはこの探偵事務所に採用された。もっとも、正式採用ではなく、しばらく試用期間を設ける、とのことだった。
『試用期間はいつくらいまでの予定ですか?』
と尋ねると、
『お互いを分かり合えたら、かな』
と返ってきた。
当面の間、勤務は火・木・土の週三回、一日二時間目安。
もちろん、事件となったらその限りではなく、臨時の出勤もありうるそうだ。
時給は二千円。
偶々目に入ったコンビニの高校生向け求人は千円に届いていなかったから、わたしには高すぎると思えた。それを宗像さんに確認したら、『仕事の特性やら守秘義務やら考えたら安すぎるくらいだよ』と申し訳なさそうにしていた。
そして今日は、仕事の初日である。
ここに来る前、わたしは緊張していたし、高揚していた。学校では気もそぞろだった。これまでの人生で、あれほど壁の時計を見つめていたことはない。帰りのホームルーム後、教室を飛び出し、逸る気持ちを何とか抑えながら一度家に帰り、私服に着替えた。
さあ、今日はあの場所に、何が待ち受けているのか。
家の玄関を開けて空を仰いだ時の、純真だった自分に伝えたい。
待っているのは、地球堂touchだ、と。
わたしは今、『ケモぽん 南キョクVer』をプレイしている。液晶画面内では、3Dのポリゴンキャラクターが愛らしい動きで歩き回り、時折鳴き声を上げる。
目の前に座る探偵助手、殺人者を狂いなく特定する〈力〉を持つという影法師、宗像九郎さんは『北キョク Ver』をプレイ中。
振り返って壁に掛けられた時計に目を向けると、勤務開始から三十分ほどが過ぎていた。
状況整理終了。
しかし整理したところで、何も解決しなかった。
自機の【ピコーン!】という電子音に目を戻すと、
【ムナカタさんから通信交換の依頼が入っています!】
というメッセージと共に、画面の中央でネコ型のケモぽんが陽気に踊っていた。
可愛い。……代わりに何を出そうかな。
いや、そうじゃない。
流されるにも限度がある。この状況に掉ささないと、わたしの仕事観が崩壊する。
「……あの、宗像さん? 宗像さんは、以前は月にどのくらいの数の事件を扱っていたんですか?」
恐る恐る、という風に問いかけると、
「ん? そうだね……平均すれば、月に一、二件くらいだったかな。一月丸々何もなかった時もあったし、一週間に三件回ったこともあるから、あくまで目安だけれど。どうしてだい?」
と宗像さんはあっけらかんと答えるのだった。
どうしたもこうしたもない。黙ってゲームを受け取った自分も自分だが、ここは探偵事務所のはずだ。仕事場のはずだ。ありったけの不満を込めて宗像さんをジッと睨む。
「うん、今日も心地よいジト目だね。学校の先生であれば、花丸をつけているところだ。
……以前にも説明したと思うが、僕たちに回ってくる仕事は少ない。大抵は待機時間だ。これに関しては、僕たちがどうこうできるものじゃない。座して待つしかないのさ。
なあに、望もうと望むまいと、事件は起きるべくして起きるものだ。僕たちの仕事がゼロになるほど、世の中は優しくできていない。真名君の望む時も、いずれ必ず来るよ。
それとも、お給料の心配かな? 安心してくれ。消防だって警察だって、事件の多寡に関係なくお金がもらえる。それと一緒さ。気兼ねする必要はないよ」
理屈としてはわかる。わたしも『週三回出勤、毎回が殺人事件』などというこの世の果てのような修羅場を望んでいるわけではない。
だが人生で初めてのアルバイトが『部屋でゲームしているとお金が入ってくる』だと、倫理とか道徳とか社会性とか、そうした生きていく上で持っておきたい色々なものが救いがたく歪んでいく気がするし、待機するにしても、もう少し他にやることがある気がしてしまうのだ。
「これには何か深い意味があったりするんでしょうか?」
ゲーム機本体を軽く持ち上げながら、せめてもの抵抗にそう訊いてみる。実はこのソフトには推理力を育成するためのサブリミナル効果でも仕込んでいるんですか、という皮肉を言外に込めて。
「もちろんさ。……だけど確かに、説明をしないことには不安になる状況ではあるね。ごめんごめん。一から説明しよう。
まず……僕は、十歳以上年の離れた美少女と同室で、二時間トークを弾ませる自信がないんだ」
「…………」
痛々しい話というか、生々しい話だった。聞かなければよかった。
「話せる話題は無いことはない。小説を読むのは共通の趣味だし、ぜひ語り合いたいところではある。
だけどどうも、前のように自分語りをしてしまいそうでね。まだまだお互いのことがわかっていない中でそんなことをしたら、僕のキャラクターが『自分語り大好きお兄さん』になってしまう。それは避けたいからね。
このゲームは、お互いゼロから入ったものの方が共通の話題としてはいいかなと愚考した結果なわけさ。恋人たちが初デートで映画に行くのと同じ理屈だ。
当然、本体もソフトも支給品だから、家に持って帰ってレベル上げに励んでくれても構わない。それとも、こうしたゲームは苦手だったかな?」
「そんなこともありませんが……そうであれば、事件の時にだけ呼んでくださればいいんじゃないですか?」
「寂しいことを言うね。心の涙が止まらないよ。
……真面目な話、お互いが『自然でいられるようになる』ことが大切なんだ。会話がスッと流れていかないと、解決が遠くなるからね。採用試験の時は上手くいったから問題ないとは思うけれど、月に一回程度しか会わないのでは、見つめ合うのも覚束ない」
可能性を丹念に潰し、精査し、真相へと辿り着くための否定の唄。
大切なのは宗像さんの指揮に合わせてわたしが唄えるか。
「つまり、親睦を深める意味を込めての勤務時間であり、導入としての『ケモぽん』というわけさ。まあ、しばらく『ケモノ百科事典』コンプに付き合ってほしいな」
確かに、話の種もなく二時間を一緒に過ごすというのは苦行になりかねない。あえて道化を演じているのは、この事務所内を、わたしが気を使わなくてもよい場にしようとの配慮だ。軽口は叩いているが、宗像さんは宗像さんで、わたしに気を使ってくれているのだろう。
優しい人だ。いい人だ。
だからこそ思う。
そうだとしても、そうではないにしても、
果たして、この人の目的は何なのだろう、と。
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