7-3 巌
◆
準光速航行をほんの数分で、ノイマンは通常航行へ戻り、その時には前方に戦艦が一隻、見えてきた。
第〇艦隊の旗艦であるワシントンだ。
「ワシントンから、通信です」リコ軍曹の静かな声。「第〇艦隊司令官ハッキネン大将です」
「お繋ぎして」
メインスクリーンに初老の灰色の髪の男が映った。
さすがにクリスティナも席を立ち、直立して敬礼した。
「策謀家がそのような動作をする必要はない」
低い声が発令所に流れ、クリスティナはじっとその声の主である男性を見た。
年齢は六十を超えてはいないだろうが、巌のような動かしがたい存在に思える。
「ミリオン級が来ているとは聞いていたが、陰謀を実行するためか」
「いえ、大将閣下」
クリスティナは言葉を選ばないわけにはいかなかった。階級や立場などは関係なく、この男性から放射される圧力は、通信という形でも抗しがたいものがある。
「今回の件は、近衛艦隊内部の内輪揉めです」
「ほう。それで貴官は乱れた水面にさらに石を投げ込んだ、ということなのかな。都合よく事を荒立てるために。ただ、意外に謙虚だ」
その言葉が示すところに、クリスティナは思わず唾を飲んでしまった。
この大将は、近衛艦隊が乱れるなら乱れるに任せるべきだったと言っているようなものだ。
それは脱走を支持するようではないが、脱走を止めることは無利益だと言っているようでもある。
分からなくはない。
このような身内での戦闘は無駄に艦船を消耗するだけで、近衛艦隊には何の利もないのだから。
「脱走をお咎めにならないと?」
そう言ったのはクリスティナではなく、ケーニッヒ少佐だった。
わずかにハッキネン大将が眼を細める。
「脱走は厳罰をもって処す。しかし我々が潰し合うのは無意味だ」
「無意味ではありません。脱走を許さない、という姿勢を見せることにはなるかと」
「それも無意味になる。きみのことは知っている、ケーニッヒ・ネイル少佐」
今度はケーニッヒ少佐が絶句する番だった。
画面の中では、ハッキネン大将がまだ喋っているが、ノイマンの発令所はほとんど凍りついていた。
「統合本部の妄念と、総司令部の愚かさ、この二つを組み合わせてしまったのが、間違いだった。我々は地球を守るという、それだけのことに拠っているべきなのだ。それが今や、権力争いの道具となり、それ以外の理由を失った」
誰も何も言わない。ハッキネン大将さえも言うことを言ったのだろう、すでに黙っている。
沈黙の中でその大将が、わずかに口元を動かした。
「我々は地球を守ることにしよう。今もすでに、展開している」
そう、戦艦ワシントンはただ一隻でそこにある。麾下にあるはずの十一隻の艦船は見当たらない。
ちらっと頭上の星海図を見れば、地球の北半球のさらに半分程度を守備するように、艦隊は広がっている。
まるで外敵がすぐにでもやってくると想定しているようだが、艦同士の間合いが広く、決して堅い守りではない。
まるでそういうポーズをとっているだけのようにも思える。
近衛艦隊は地球を守るためにある、という思想を体現するようだが、今やその思想が形になった防御網は、弱すぎる。
「管理艦隊は何を考えているのかな」
そう言葉を向けられ、クリスティナは言葉に詰まった。
管理艦隊がその奥の奥で、どういう思想を持ち、何を目指しているか、クリスティナにはわからない。
エイプリル中将だけではなく、そこには統合本部が絡み、統合本部には連邦宇宙軍総司令部がすぐそばにあり、あまりにも広範な範囲が動いている。その範囲は物理的距離や、組織規模だけではなく、思想においてさえ、途方も無い巨大さだ。
その広大にして巨大な状況に、管理艦隊は密接に接続している。
「管理艦隊は、管理艦隊です」
もつれそうな舌をどうにか動かし、そうクリスティナが答えると、不意にハッキネン大将が相好を崩した。
「まるで私自身を見ているようだよ、大佐。懐かしいな」
「懐かしい?」
ケーニッヒ少佐が声を漏らすと、そうだ、と大将が頷く。
「私も、近衛艦隊は近衛艦隊だ、と胸を張れる時があった。クリスティナ大佐、きみのその意志が最後まで貫き通せることを願うよ」
どうやら、褒めてもらえた、認めてもらえつつあるらしい。
「はい、恐縮です。ありがとうございます」
「これは余談かもしれないが」
ハッキネン大将の顔は真剣なものに変わり、再び感情をうかがわせないものになった。
「月基地は静観を決め込んでいる。あそこは管理艦隊のように、脱走艦が出ていない。知っているな?」
月基地とそこに所属する月艦隊の動向は、この演習という形での地球行きの前に、管理艦隊で念入りに検討された。
もちろん、月艦隊から脱走艦が出ていないのも知っている。
月艦隊は管理艦隊とは実際的な接点がない。しかし近衛艦隊はそういうわけにはいかなかったと思われる。
ハッキネン大将に限らず、近衛艦隊では月からの攻撃を想定したはずだ。この問題は切迫したものでもあるため、受け身なだけではなく、積極的に月基地や月艦隊の内部を調べられるだけ調べたと考えるのが妥当である。
今回の演習の中での脱走騒ぎが想定されているとしても、何がどう転ぶかは誰にもわからなかった。
仮に脱走艦に月艦隊が呼応すれば、事態は途端に、誰にも御せない激しさで暴れ出しただろう。
それに備えるために、リコ軍曹が千里眼システムの逆用で、月の様子には目を光らせていた。騒動が始まってからは、信頼できる部下をその方面への監視に専任の形で振り向けてもいる。
「お気遣い、感謝します、閣下」
そう答えると、一度、老提督は頷いてみせた。そしておもむろに視線をケーニッヒ少佐に向けた。
「統合本部の犬に足元をすくわれるものばかりではないと、心しておけよ、少佐。以上だ」
通信がいきなり一方的に切れ、やっとノイマンの発令所の空気が弛緩した。
クリスティナはゆっくりと席に座りながら、メインスクリーンの戦艦ワシントンを見やった。
泰然として、その艦は地球の衛星軌道上に限りなく近い場所から、動かなかった。
一隻なのに、まるで巨大な壁を前にしているようだと、クリスティナは無意識に考えていた。
(続く)
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