第4話 火星の混沌
4-1 手の震え
◆
こうなるとは思っていても無碍にはできない自分が、エルザ・スターライトには恨めしかった。
ノイマンが戦闘を終え、宇宙ドックズーイに収まり、聞き取りと報告書作りを速攻で終わらせて、一番乗りで休暇に飛び込んだ。
兵士をホールデン級宇宙基地カルタゴへ運ぶ船が来るのももどかしく、たまたま発進間近だったホールデン級宇宙基地ウラジオストクへ向かう物資輸送船に無理矢理に乗り込んだ。
輸送船を飛ばしているのも管理艦隊の兵士なのだが、偶然に知り合いが操舵士として仕事をしていたので、退屈することはなかった。
あっという間にウラジオストクへ着いた。
エルザは、管理艦隊が創設された当時から出入りしていた、珍しいタイプの軍人である。
宇宙基地ウラジオストクの内部もおおよそは把握している。事前にちょっと奮発していい部屋を三日の期限で借り受けてあるので、荷物を置いて、すぐにしっかりとしたベッドに横になった。
アラームを設定したのも忘れるほど眠り込み、ベルの音に起きた時には、もう意識はクリアだった。
久しぶりに休んだような気がする。普段はそういうこともないのだけど。
体をほぐして、軍服を着直すと、食事に出た。
ウラジオストクにも名店と軍人たちが評価する店がいくつかあるけれど、宇宙船乗りは大抵、質素で味が最高とは言えないものばかり食べるので、たまにまともなものを食べると過剰評価する傾向がある。
携帯端末で苦労して店の評価を確認した。
手が震える。
それは土星近傍会戦と呼ばれ始めた、例の戦闘の後からのことだ。
軍医のシャーリーにも、彼女の仕事が落ち着いてから、話を聞いてもらった。
眠れるかどうか、質問された時、自分は精神に不調をきたしているのか、とさすがのエルザも考えざるをえなかった。
しかし眠れることは眠れるのだ。悪夢を見ることもない。ただ少し、眠りが浅いのか、疲れが取れないことはある。
そういうことを正直に話すと、シャーリーは、ならまだ、薬はやめておきましょうか、と言った。
「私が使い物にならなくなると思う?」
そう確認してみると、シャーリーは微笑んだものだ。
「とてもそういう風には見えないわね。あなたは、結構、図太いから」
「手がこんなに震えるのに」
それはね、とシャーリーが少し表情を改めた。
「怖いという感情から来るんじゃないかしらね。私がまだ、駆け出しの軍医だった時、大勢の重傷者を治療する必要があったの」
視線で先を促すと、シャーリーは頬に手をやった。
「最新の設備があっても、どうしようもなかった。必死に処置したけど、三人が亡くなった。私は自分を責める前に、怖いと思った。自分の技術不足で、これからも、助けられる人を助けられないんじゃないか。そう思ったら、手が震え始めた」
思わずエルザはシャーリーの手を見た。その手は震えていない。
「いろいろな人に相談したし、検査も受けた。でも何も出ないのよ。私はまともだけど、手が震える、ということね。ある時、医学校時代の友人が、同じことを経験したことがあると言った。私も手が震えたけど、もう大丈夫だ、って」
「治療法があったわけですか?」
シャーリーが穏やかな表情になる。
「なかったわね。ただ、自分の中を整理して、自分のことを見つめ直しているうちに、手が震えなくなった。そう言われたの」
「実践しました?」
「実践なんてものじゃないわね。だって、仕事は辞められないし、病人も怪我人も、やってくるし。仕事をしているうちに、手の震えは消えて、今はもう震えない」
結局、エルザの手はまだ震えていた。
携帯端末を取り落とし、拾い上げ、どうにか店の場所を理解した。地図を見るのは得意だ。
食事の間も、食器を扱うのに苦労した。せっかくのちゃんとしたコース料理も、これでは味わい尽くすのも難しい。
書店に寄って、電子書籍のタイトルを店頭で確認し、興味のありそうなものをピックアップする。あらすじを読んだり、冒頭を読んだりして、カウンターで二冊ほどを高速ダウンロードしてもらった。ほんの半秒もかからない。
電子書籍店などという奇妙な商売も、エルザにはありがたい。新刊は電子版しかないが、古典、百年以上前の書籍では、著作権などの複雑怪奇な権利の問題から、一部サービスのみで販売する電子版が多々あり、それはこういう実店舗でしか売られていないものがだいぶある。
これで次の任務の間も、休む時間を少しは充実させられる。
部屋に戻って、部屋着でベッドに横になる。
携帯端末に、任務の間は保留していた外部からのメッセージをダウンロードした。
前にチェックしたのは半年以上前で、メッセージは五十件以上が保留されていた。
そのうちにいくつかは友人からの遊びの誘いで、残念ながらしばらくは仕事で参加できない、と返事をするだけで済んだ。
問題は、叔母からのメッセージで、連絡を寄越すようにと繰り返している。
エルザの仕事を知らないわけではないだろうが、あの人にはあの人の事情がある、とも思っていた。
何せ、両親を事故で亡くしたエルザを、実質的に育て上げたのは叔母なのだ。叔父は数年前に他界した。
しぶしぶメッセージを送り、無事であることと、すぐに次の訓練か任務があるから火星へ行くことはできない、と伝えた。
そのメッセージを送ってからほんの十五分で、いきなり音声通信が飛んできた。
もちろん、叔母からだった。火星は今、何時なんだろう。時差も通信のタイムラグも無いような、素早い行動だ。
通信を受けると挨拶も何もなく、叔母はエルザが連絡をしなかったことを詰り、嘆いた。
それが一通り終わると、今度はお見合いの話になる。
ジークというエルザと同年の男性で、地球出身の、輸送船を運用する会社のやり手らしい。会社自体は中堅だが、堅実に商売をしているという。
あなたにも損はないから、とか、落ち着いて生活するのも大事よ、とか、叔母はまくし立てた。
こういう話になることは、わかっていた。
そして自分が叔母の期待に応えられないことも。
「そろそろ休ませて。しっかり考えておくから」
そう言うと、短い沈黙の後、叔母が言った。
「そうやって先延ばしにして、ジークさんが考えを変えたらどうするの? いつまでも待ってもらえないわよ」
思わず溜息を吐くと、それが聞こえたらしく、さらに執拗に咎められた。
結局、二時間も話して、なんの進展もなかった。
通話の切れた端末を放り出して、寝台に横になり、エルザは自分の手をもう一度、見た。
震えている。
この震えは、消えそうもない。
ぐっと強く、手を握った。
私ってどうして、こう、融通が利かないのかな……。
(続く)
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