1-2 休息

     ◆


 両親と東京で一週間を過ごし、ヨシノはもう少し心を休める気になった。

 情報化社会が極端に進んだがために、東京はあまりにもやかましく、何も気にせず生活をしても、地球連邦のあれこれ、管理艦隊の存在、独立派勢力の分析など、そんなものが耳に入ってくる。

 しかもそれらはヨシノからすれば、純粋な憶測から生み出された、筋だけは通っているが脚色の激しい作り話だった。

 こんなことに大勢が流されていては、連邦がまっすぐに進めるとは思えなかった。

 もちろん、ここでヨシノが声をあげても、大勢がそれに加わっても、連邦が正しい道をまっすぐに進めるわけではないと、彼は誰よりも理解していた。

 そんなわけで、都会を離れるべきだと判断し、地方に住む祖父母を訪ねた。

 東京からは鉄道が昔はあったが、今はバスしかない。深夜に東京を離れ、明け方に到着する。

 バスから降りた途端、空気が澄んでいるのが理解できた。

 大気汚染が問題になったのは二世紀も前のことで、すでに石油の類は廃れた燃料である。

 地球では大気浄化装置が開発され、その上で二酸化炭素の排出削減が大幅に進んだ。そうして一世紀を経て、おおよそ自然な大気状態が回復されたのだった。

 そのはずなのに、都会の空気はやはり濁っていたようだ。

 バス停から徒歩で十五分ほどで湖に出た。真っ青な空の下、対岸を眺め、思わず息が漏れた。

 手の届く範囲に何かがあるというのは、これだけ人間を安心させるものか。

 湖沿いを進み、小さな旅館に入る。カウンターの向こうで妙齢の女性が目を丸くする。

「ヨシノくん? ヨシノくんよね?」

「ええ、お久しぶりです。おじいさんとおばあさんは?」

 受付の女性が慌てて出てきて、こっちこっちと奥へ案内し始める。

 どうやら宿泊客は少ないようだ。こんな田舎に何かを求める人はもう少ない。

 建物の裏庭にある茶室に連れて行かれると、そこでは和服の祖母がお茶をたてていた。

「女将さん! ヨシノくんですよ!」

 案内してくれた女性が叫んでも、年老いた背中は振り向かない。ゆっくりと茶筅を動かしている。

「女将さん!」

 肩に触れられて、老婆がやっと振り返った。

 ヨシノの記憶にあるより、少ししわが増えたように見える。

 祖母は目を丸くし、首に引っ掛けていた昔ながらの補聴器を耳につけた。

「ヨシノじゃないの。どうしたの? いつ来たの?」

 どうやら耳がだいぶ遠くなったらしい。

 それからヨシノは抹茶を振舞われ、その茶室に祖父もやってきた。祖父は細身で長身、服装は明らかに作業着だった。季節は春先で、旅館の庭を片付けていたのかもしれない。

 祖父母と孫の三人でのんびりと話をしたが、やはりヨシノには言えないことばかりだ。

「ヨシノは遠いところへ行ったのねぇ」

「そういう時代だなぁ」

 祖父母がのほほんとそんなことを言う、その口調に、ヨシノには自分の中の強張っていた何かが解ける感覚があった。

 この二人は何かを知りたがらない。知れないことを悔しがらない。

 大勢が多くを知ろうとする時代になり、知らないことが恥ずかしいことではなく、むしろ欠落とさえ思われている。

 でもこの地球で、誰が何を知っているだろう?

 はるか木星よりも遠い宇宙の果てで、正体不明の敵が暗躍していることを、大勢は知らない。

 不自然なことに地球にいると大勢がその正体不明の敵を「独立派勢力」と呼び始めていて、まるではっきりと存在することになっている。

 それなのに、その「独立派勢力」が何者なのかは、誰も知らない。

 どこかの宇宙コロニーだとか、亡命者のグループとか、企業の秘密事業だとかいうものもいるが、全てが噂の域を出ない。

 それなのに誰もがその噂を、噂ではなく、真実として認識しているのは、おかしなことだ。

 噂でもなんでも知っていなければ、それでなくては社会の中に立つ瀬がないのか。

 祖父母と話しているうちに夕食になり、旅館の夕飯を食べなさいと勧められたので、厚意に甘えて料理を食べた。

 こうして少しでも贅沢をすると、チャンドラセカルでの食事が思い出される。

 質素で量や味よりも栄養に重きを置いた保存食。水分に合わせてたんぱく質やビタミンの摂取をするために作られたゼリー飲料。

 懐かしい食事だな、と思いながら、鹿肉のすき焼きを食べるヨシノだった。

 翌朝からは祖父母と同じものを食べることにした。祖父母は旅館を経営しているが、実際にはやはり客は少ないらしい。従業員もだいぶ絞って、前日の受付にいたヨシノも顔見知りの女性が最古参になっているという。

「もうこの店も、終わりだねぇ」

 悲しそうでもなく、嬉しそうにそういう祖母を不思議に見やると、しわだらけの顔が、より一層、しわを深くする。

「終わるっていうのはいいことよ、ヨシノ」

「寂しくなりますよ、おばあさん。歴史があるのに」

「終わって、過去のものになってしまえば、それは寂しさと一緒に、懐かしさを連れてくるでしょうね」

 懐かしさ。

 その一言は、不意打ちでヨシノの心を打った。

 自分も、チャンドラセカルのあの航海を、いつか、懐かしく思うのだろうか。

 しかし、今のまま、放り出したままで、懐かしく思う?

 それは無責任じゃないのか。

 まだ、終わらせるには早いんじゃないのか。

 また僕はあの宇宙に、戻りたいと思っているのだろうか。

 その日、旅館が所有する小さなボートを借りて、湖に漕ぎ出した。玄関まで見送った祖母に「救命胴衣をつけなさいね」と釘を刺された。ヨシノは泳ぎが得意だったが、そこは合理的に、形だけは救命胴衣をつけた。

 ボートは湖の真ん中に進み、そこで動きを止め、ヨシノは空を見上げた。

 太陽が眩しい。パラソルが必要だ。

 そう思いながら、ボートの中で横になり、真っ青な空を細めた目で見上げる。

 あの向こうにまだ僕は、懐かしさを感じないようだ。



(続く)

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