パールスケールの水槽
古川
1
かつての私にとって、シュークリームは食べる物ではなく、飲む物だった。
シューの部分を一箇所だけかじって、そこからじゅるじゅると吸う。それは本来の食べ方よりもお行儀が悪かったし、シューを残すことになるのでもったいなかったし、見つかると母に怒られたりもする、あんまりいい子ではない食べ方だった。
今になってみればなんでそんな食べ方をしていたのかよくわからないのだけど、とにかくそれが好きだったことは覚えている。
いや、忘れていたけど、今思い出した。目の前の女の子が、今まさにそれを敢行中なのだ。
その躊躇のなさが、豪快さが、そしてなによりおいしそうな表情がなんとも良くて、私はそのお行儀の悪い食べっぷりにじいっと見入ってしまった。
「食べないの? シュークリーム嫌いなの?」
クリームを口につけたまま、女の子がじゅるじゅるを中断して私に聞く。
「好きだけど、今はいいかな」
見てる方が楽しいから、と言うのはやめておく。女の子は、ふぅん、と言って、またじゅるじゅるを再開した。
凜ちゃん、八歳。今日から三日間だけ一緒に過ごすことになった女の子だ。
お母さんは国内出張で、お父さんは海外出張。一人残ることになる凛ちゃんはいつもなら親戚や知人の家に預けられるところ、今回どうにもならない三日間が発生してしまったのだそうだ。そこに手を差し伸べたのが、うちの母。
母は数年前から自宅でピアノ教室を開いていて、凛ちゃんはその生徒。凛ちゃんのお母さんからの信頼も得ているらしく、母が預かる流れになったのだとか。
しかし多芸なる母はなにかと忙しいため、常時家に居られるわけではなかった。そのために招集されたのが私だった。
バイトに精を出していた大学時代に比べ、就職してからの週末はびっくりするくらい暇で、こんなことならあの人と別れるんじゃなかったなぁなんて、終わった恋愛についてぼーっと考えてしまうくらいにはすっからかんになっていた。
そこに来た母からの帰省要請。断る理由も特になかった。祝日を含めて連休が始まる初日、金曜の午後、軽い荷物と共に電車に乗った。
八歳ってどんな感じかな、と楽しみにしつつの対面。もっと小さいかと思ったら案外背が高いので驚いて、きちんと自己紹介ができることに驚いて、でもそこに緊張感と恥ずかしさが混じっていることが子供らしくて可愛かった。
しっかりとした眉毛の存在感が強く印象に残る、小さな顔の女の子。それ以外に自己主張するパーツがないと言うか、全部がその輪郭の中に正しい配置で収まっていて、まるで凹凸のない球体みたいな綺麗なバランスを保っていた。美人になりそうだなぁなんて、親戚のおばさんみたいな感想が浮かんだ。
そうして自己紹介を終えた凛ちゃんの視線が、テーブルの上に注がれていることに気付いた。凛ちゃんのお母さんが荷物と一緒に手土産として置いていった箱入りのシュークリーム。取り出してあげると、迷いなくじゅるじゅるが始まったのだ。
装っていたものを呆気なく解除したような感じがしておかしかった。もっと歩み寄っていいような気がして嬉しかった。
「この子、なんか名前あるの?」
凛ちゃんが持ってきたペンギンのぬいぐるみを触りながら言う。今はちょこんとテーブルの上に置かれ、凛ちゃんを見守るような格好で座っている。
「ペンティちゃん」
「ペンティちゃん?」
キュートなネーミングに笑う。
「水族館で買ってもらったやつ。でもそこにペンギンはいなかったんだけどね」
「そうなんだ」
「でもね、カピバラが見れた」
「カピバラ? 水族館に?」
凛ちゃんは、カピバラがどれくらい大きくて毛がどんなだったとか、顔がハムスターと豚の間みたいだったとか、たくさん瞬きをしながら一生懸命聞かせてくれた。私はうんうんとそれを聞く。
ペンティのおしりのところには、水族館の名前が書かれたタグが付いていた。ただのぬいぐるみなのではなくて、思い出も、そのふわふわな体の中に入っているのだ。
懐かしい感覚だった。どこにでも連れていく、友達のようなぬいぐるみ。私にもあったなぁと思い出す。
それは代々入れ替わったりしたものだ。柴犬の時もあったし、白うさぎの時もあったし、アナグマの時もあった。大事にしている気持ちは絶対にそのぬいぐるみに伝わっているはずだと信じていたし、誰もいない所で喋りかけていたりしたものだった。
あのぬいぐるみたちは今どこにあるんだろうと考えていたところで、凛ちゃんのシュークリームが中身を完全に吸い取られてぺったんこになった。どうするのかなと思ったら、ちゃんとシューもぺろりと食べてしまった。
「おいしかった?」
私の質問に、凛ちゃんは満足気に頷く。
渡したティッシュで口を拭いた後、じっと私を見てくる。唇をもぞもぞさせて、なにか言いたそうな顔。
「ん、なに?」
「あの、美波さんって、小説書いてる人だよね?」
ひゃっ、という声が出てしまった。ものすごくうろたえてしまい、目が泳いで視界が揺らぐ。
「ななな、なぜそれを……?」
「よりこ先生が言ってた」
……母め。知ってたのか。
これまで紙やノートに書き付けてきた諸々。隠し通してきた気でいたけど、どこかで見つかっていたようだ。引き出しの中のあれだろうか、押し入れの中のあれだろうかと、頭の中がぐるぐる回る。
恥ずかしさやらなにやらで大混乱の頭を抱えていると、凛ちゃんが床に置いてあったリュックをごそごそやって何かを取り出した。
「私もね、書いてるの、物語」
テーブルの上に置かれたのは一冊のノートだった。私が高校時代に使っていたのと同じメーカーのノート。見慣れた表紙には小さく「しのみや りん」の文字。
「学校の先生に読んでもらおうと思ったんだけど、先生は読むだけの人で書く人じゃないからだめで、それで、よりこ先生に、美波さんは書いてる人だって聞いたから、初めて近くに書いてる人見つけたから、だから、読んでもらいたいの……!」
両手をノートの上に置き、イスからおしりを浮かせた状態で、つまりほとんど立ち上がった前傾姿勢の状態で、凛ちゃんは言い切った。
うわーお、と私は思う。
突然の熱意に驚いてしまう。シュークリームじゅるじゅるの無邪気さに油断していたところに突然の攻撃を食らったような気持ちになって、なんだかすごく怯んでいる自分がいる。
「いやでもそんな、私、書いてるとか言っても最近は全然だし、なんて言うかな、えーっと」
「でも、書いてるんでしょ?」
「書いてると言うか、まぁ、そう、かなぁ」
「書いてる人に読んでほしいの」
「えーっと、そ、それはいったい、なんで?」
「仲間だから」
おおーう、と私は思う。おおーう……。
私が小説みたいなものを書き始めたのは中学生の頃だった。楽しく書いたり、嫌になってやめたり、でも気付くとまた書いたり、を繰り返してきた。
私にしか書けないものがあるのかもしれないという期待だけは、どうしてもいつも消えることがなかった。そういう、細々とした希望を拠り所とした、自分だけの密かな作業だったわけで。
それが突然、初対面の女の子によって外の空気に晒されてしまい、なんだかすごく動揺している。自分の体の内側と外側がひっくり返されたみたいな気持ちだ。
そんな私に突き付けられる、あまりにも真っ直ぐな熱意。凛ちゃんは、息すらしてないんじゃないかと思えるくらい真剣な顔だ。
私なんかに、それを受け止めるだけの資格なんてあるのだろうか。きっとない。でも、拒否権はない気がした。この申し出を無下にする権利すら、きっと今の私にはない。
意志の溢れる眉毛でもって、凛ちゃんは私を見つめる。
負けだな、と思った。勇気と熱意に、完敗。
「わ、私なんかでよければ、読ませていただきます……」
私の言葉に、凛ちゃんは弾けるような笑顔を見せた。
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