3
電車を一度だけ乗り換えて着くその水族館には、小さい頃家族でよく来たものだった。久しぶりに見るエントランスは変わっていなくて、あの頃のわくわくした気持ちが蘇る。連休中ということもあり家族連れが多く、記憶の中の映像よりもいくらか騒がしい。
凛ちゃんは、地面から足が浮いてるんじゃないかと思うほどの軽い足取りだった。走ったり飛んだり跳ねたりしながら、次々と水槽を見て回る。
イソギンチャクの中のクマノミを探し、アリゲーターガーの凶悪な顔に震え上がり、タカアシガニの大きさに目を見開き、アシカとアザラシの違いについて悩み、セイウチの不精髭に驚き、ドクターフィッシュのくすぐったさに悶え、二本足で歩くラッコのかわいさに声を上げ、夢のように遊泳するクリオネを無言で見つめた。気付けば私も凛ちゃんと一緒に、重力を忘れて飛び回っていた。
凛ちゃんが一番見たかったペンギンの散歩。始まる三十分前から最前列の席を陣取り、歩くペンギンを触れそうなほど近くで見た。一生懸命なのか面倒臭くてたまらないのかわからない、重たそうなのっそりとした歩き方。頑張れ頑張れと、二人で応援の声を上げた。
少しだけ休憩を取る。でも凛ちゃんは座ることもせず、楽しそうに喋っている。
「それで、ユニコーンの背中に乗って山のてっぺんに降りてね、そこにいっぱい花が咲いてて、歌ってるんだ」
一周してたどり着いた薄暗い区画。ひんやりとした空間に並ぶ水槽の中、淡水魚に分類されるらしい小さな魚たちが、揺れる水草の中をゆったりと泳いでいる。
凛ちゃんはそれを覗き込みながら、あのノートに書かれた物語の続きを構想していた。つま先立ちのままそうしている凛ちゃんの横で、私は妙に上気する体内の熱を冷ますように、柔らかな椅子に座って足を揺らしていた。
「歌は音符になって空を飛んでくんだけど、そこに種がついてて、隣の山とか、そのまた隣の山とかまで飛んでいって、新しい芽が出てきて……」
凛ちゃんの声が途切れる。
「……どうしよう、このお話終わらないや」
今初めてそれに気付いたようで、本当にびっくりした顔で、凛ちゃんは私を見た。おかしくてかわいくて、私は笑ってしまった。それを見て、凛ちゃんも笑う。
「美波さんに会えて嬉しかったよ。物語も読んでもらえて、すっごい嬉しかった。水族館にも来れて、すーっごい嬉しい」
飾り気のない言葉の連続に、なんだか照れてしまう。
「私、美波さん好きだよ」
水槽を照らすあかりが、凛ちゃんの頬の上でなめらかに光っている。私はそれを見ながら、この子は、全部がそのままなのだな、と思う。気持ちの全部が、言葉になるのだ。
私はそれを受け止めるべく、手のひらで包むように慎重に、ありがとう、と返す。
「美波さんみたいな大人になりたいな」
「え、いや、はは。私そんな、大人と言うほど大人じゃないよ」
「二十三歳って大人じゃないの?」
んー、と唸ってから、大人、だね、と答える。八歳に比べたら、ずいぶん大人だ。
凛ちゃんは視線を天井に向け、人差し指で宙に字を書くしぐさをした後、ひらめいたように言う。
「私、大人まであと十五年だ。8+15=23」
十五年。単純な計算式で導き出される大人までの時間。
事態はそれほどシンプルなものではない。でも今の凛ちゃんにとってはごく簡単な、真っ直ぐなルートであってほしいと思う。
十五年後の凛ちゃんが、目の前にいる誰かに、そのままの気持ちを伝えられる人でありますように。祈るように、そう思った。
「ほんとはね、私がよりこ先生にお願いしたんだ、美波さんに会いたいって。そしたら先生、あの子最近お話を書かなくなっちゃったみたいだから、凛ちゃんのを読ませてあげてって。そしたらまた書きたくなるかもって。あの子は文章書くのが、小さい頃から上手だったからって」
ひゃっ、と声に出る。
……母め。どうして何もかもお見通しなのか。
自分の何かを信じたくて、受験勉強もせずに小説を書いていた中学三年の冬のことも、才能のなさを認めることにしてもうやめようと決めた大学四年の夏のことも、それでもくすぶる何かをどうしようもなく持て余している今も、全部知ってるんじゃないかとすら思えてちょっと震える。
「物語って一人ぼっちで書くでしょ? なんでかわからないけど、時々寂しい時があるんだ。だから、仲間を見つけられて、嬉しいんだ」
うん、と私は頷く。
「美波さんの書いたお話、いつか絶対読ませてね。私、漢字の勉強頑張るから。だから、書いてね」
うん、と、もう一度頷く。さっきよりも深く。
凛ちゃんはそれを受け取って、約束にそっと鍵をかけるように、丁寧に頷き返した。それから、目の前の水槽を指さす。
「この子たち、お腹のとこに白いつぶつぶがあってね、小さい宝石つけて泳いでるみたいに見えるよ。なんか、金魚のお城の舞踏会に集まった子たちがね、ドレス着て踊ってるみたいな感じ」
凛ちゃんは凛ちゃんの言葉で、水槽の中を表現する。薄暗いそこを、言葉で照らし出す。
私は私の言葉で何を照らせるかな、と思いながら、凛ちゃんの隣から水槽を覗き込んだ。
翌日は朝から買い物に行った。材料を揃え、ショートケーキ作りに挑む。
多芸である母のキッチン道具に不足はなかったのだけど、なんにしても腕が足りず、途中からは私も凛ちゃんもクリームを舐める作業に夢中になった。結局好きなように飾り付けて、切り分けもせず、フォークで崩すように食べた。
おいしいね、と、クリームの口で凛ちゃんが言った。
そしてお別れの時。凛ちゃんのお母さんは凛ちゃんとよく似たきれいな人だった。
三日ぶりのお母さんを相手に水族館の感想を喋って喋って喋った凛ちゃんは、きちんとお礼を言うように促されてから思い出したようにやっと息継ぎをした。
「ありがとうございました」
「こちらこそありがとう。またね」
玄関を出る背中を見送る。凛ちゃんはペンティを抱えたまま振り返り、笑顔で手を振った。
さて、なんて声に出しながら、自分の部屋の、押し入れの中に手を伸ばす。何年も開けていなかったダンボールを引きずり出して開けてみる。
好きだった本や、思い出のアルバムなんかの間から出てくる何冊かのノート。その中の一冊を取り出して開く。
中学生だった私が、初めて書いた小説。冒頭から、読む。でもなんだかどうにもだめ過ぎて、途中で読めなくなってしまった。なにがどうだめなのかも考えられないくらいにだめだった。
苦笑しながらパラパラめくっていると、ページの間から、紙の束が滑り落ちてきた。拾い上げて開く。
そこには、物語のアイデアにもなり切れないほどの小さな思い付きの欠片が、かつての私の細かな文字で書き付けられていた。それは、行くあてもなく浮遊している原始宇宙の塵みたいに、壮大なくせにどうしようもなく心細い些末なものだった。
今でも同じだな、と思う。今でもそれらは形を変えて、たいして広くもない私の頭をぐるぐると漂っている。
私はこれからそれをひとつひとつ繋ぎ合わせなければいけない。なんだか、途方もない作業に思える。惑星ひとつが誕生するくらいの奇跡が必要なんじゃないかとすら思える。
それでも。
言葉にできなかった気持ちを、言葉にする。真っ直ぐには辿り着けなくなった分、覚えた言葉で、知った感情で、まだ見つけられていないものを照らし出したい。
今の私ならきっとできる。あの頃の私に、そう言われたような気がした。
ダンボールの中で眠る、次のノートへと手を伸ばす。開くと現れる、いつか生まれた断片たち。惑星になることを夢見ているそれらを軌道上から掬い上げるように、文字の連なりを読み始めた。
〈了〉
パールスケールの水槽 古川 @Mckinney
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