2


 その物語は、女の子が島へ行くところから始まっていた。


 人魚に出会いイルカに出会い、クジャクに追いかけられてうさぎに助けられ、宝石を見つけて魔法を覚え、空を飛んで虹を歩く――。

 好きなお菓子を、お気に入りの箱の中にぽいぽいと投げ込んでいくような、次々と新しい扉を開けていく楽しさとわくわく感に満ちたカラフルなお話だった。


「すごい。楽しい。すごいね凛ちゃん。とってもおもしろい」


 私の感想に、凛ちゃんは得意気に、でも少し照れた笑顔を見せた。


「これはまだ続くの?」

「うん。この後雲に乗って、ユニコーンを探しに行くんだ」


 キラキラした目で言う。楽しそうだ。とても。


「美波さんはどんなお話書いてるの?」


 ひゃっ、という声がまた出てしまう。


「いや私のはいいよ、そんな全然あれだし、つまんないし」

「じゃあもっと私が、難しい漢字とかも読めるようになったら読ませてくれる?」

「え、あぁうん、いつかね。はは」


 なにを笑ってるんだろうなぁと自分で思う。こんな小さな子の真剣さに真摯に応えられないなんて、我ながら少し情けないなぁと思う。


「これ、お母さんにも読ませたことないんだ。読ませてって言ってくるけど、完成してからねって言ってあるの。読んだこと、誰にも内緒にしといてね」


 凛ちゃんはそう言って、手元に戻ってきたノートを大事そうにリュックへと戻した。

 こんなに純粋な秘密を共有するのが本当に私でよかったのかなと心配になりつつ、わかったよ、と頷いて見せた。




 その夜、凛ちゃんは私の部屋で寝た。他に部屋はあったのだけど、一人で寝たくないと言うので一緒に。

 お風呂の後、布団の中に潜ってから、凛ちゃんは持ってきていた本を広げて読み始めた。


「あ、それ知ってる。私も凛ちゃんくらいの時に読んだよ」

「ほんと?」


 女の子が、いろんなものに出会いながらお菓子を作っていくお話。あっと驚く展開に、楽しい登場人物たち。そしてでき上がる、おいしそうなお菓子。

 ドーナツのお話もあったし、ショートケーキのお話もあったよね、と私が言うと、それは読んだとか、まだ読んでないとか、凛ちゃんは嬉しそうに喋った。本が、物語が、本当に好きなんだなぁと思った。


「明日、なにする?」

「んー、……わかんない」

「朝ごはん食べてから考えよっか」


 私の言葉に、凛ちゃんは頷いた。

 

 凛ちゃんの寝る時間に合わせて、部屋の電気を暗くした。真っ暗では怖いと言うので、少しの明るさを残した。凛ちゃんはしばらくごそごそした後、ペンティをぎゅっと抱き締めた格好のまま、すうすうと寝息を立て始めた。


 私はまだ眠れなかった。ベッドの上、枕元で操作するスマホのライトが妙に眩しい。

 届いていることに気付いていたけれど、読まずにいたメッセージ。なんとなく今なら大丈夫な気がして、タップして表示する。


 ちゃんと別れたというのに、あの人からは時々メッセージが届く。他愛のない、日常の報告。そこに言葉以上の何かを探す必要はもうなくて、そのことに少しほっとする。


 あの人は、言葉で全部を伝えられると思っていたみたいだった。あらゆることを肯定することができて、それは私に眩しく映った。

 きっと私も、そうあるべきなんだろうと思った。そうあれたらどんなにいいかと思った。でもなれなかった。だから、一緒にいることが辛くなってしまった。

 私が掬ってほしいのは、言葉にはできない何かだった。それはきっとただの我儘だし、誰かに求めるのは間違っているのかもしれない。でもそれを期待してしまうくらいに好きになってしまった人だった。


 ごく短い返事だけを返す。これ以上ここに留まると、また泣いてしまいそうだ。もう出る涙なんてなくなったはずなのに、また奥の方で滲むものがある。そこから意識を剥がすように、眠る凛ちゃんの布団へ視線を移す。


 枕元に置かれた本。私はベッドを降り、薄暗がりの中でそれを開く。

 小学校の教室の後ろにあった本棚に、このシリーズが置いてあった。あれは二年一組の教室。窓からは花壇が見えて、その向こうに松の木が並んでいた。

 もうすっかり忘れていたはずの背景が、頭の奥底にある遠い記憶と結びついて広がる。あの頃の空気の手触りとか、世界の見え方とか、そういう感覚的なものがふわりと戻ってきた。


 すぐに遠ざかっていきそうなその感じをどうにか掴んだままでいたくて、私は立ち上がる。凛ちゃんがまだ読んでいないと言っていた、このシリーズのショートケーキのお話。教室で読んで好きになって、母に買ってもらったその本。まだあるかもしれない。


 半分は冗談だと思うけど、私が将来子供を生んだ時のために、つまり自分の孫のために取っておくとかで、母は絵本や児童書を捨てずに置いていたはずだ。

 物置となっている屋根裏へと続く階段を、天井から引っ張り出してのぼれる形に設置する。一歩一歩のぼっていき、ひとつだけある小さな電球を灯す。

 思ったよりも寒い。ちゃんと上着を着てくるべきだったなと思いつつ、紐で縛られた本が並ぶ所へしゃがみ込み、捜索を開始する。


 やがて懐かしいタイトルの数々が発掘され始め、そのどれもを覚えている自分に驚いた。どうしても見たくなって紐を解き、そうそうこんな表紙だった、と確認作業までしてしまう。


「あった」


 ショートケーキを片手に持ち、指についたクリームをおいしそうに舐める女の子の表紙。

 繋がった、と思った。あの頃の私と、今の私。


 角についている埃をはらう。ぱらぱら捲ると、長い時間を経た紙のにおいがした。

 明日の朝、凛ちゃんに見せてあげよう。その笑顔を想像して、一人でふふふと笑ってしまう。


 崩してしまった本のタワーをそれらしく片付けていると、紙の束やノートが出てくる。それから私の工作の作品やら卒業文集やらが紙袋の中に詰まった状態で出てくる。

 こんな物まで保管していたとは。母の愛に、嬉しいながらも苦笑してしまう。


 一冊のノートに手を伸ばす。表紙には、「2年1組 西ざわ美波」の字。

 あぁ、と思う。思い出の側から、私に会いに来てくれてしまっている。なんだかもう観念して、ページをめくる。日記だった。


 とても上手とは言えない字。所々文法もおかしいし、漢字も間違っている。

 日付の後、「今日わたしは、」で始まり「楽しかったです。」で終わる。それが、毎日毎日続いている。八歳の私が、そこにいた。


 私はこの頃から、書くことが好きだった。何をして何を見てどう思ったのか、その全部を言葉にすることができた。できていたのだと、今になって知る。


 たくさんの言葉を覚えていく中で、たくさんの気持ちを覚えてしまった。言葉の奥に隠された何かを探すようになり、形のないものを言葉の中に押し込めようとしたりもした。いつの間にか「好き」という言葉さえ、真っ直ぐに言えなくなってしまった。

 無邪気に踊る文字を見つめる。子供の頃の私に触れて、もう子供ではない自分を知る。

 

 冷えた指で、ノートをぱらぱらと捲る。最後のページは、家族で水族館に行った日の日記だった。不格好な、ペンギンのイラスト付き。

 お腹にある黒の点々が、一匹ずつそれぞれ違うこと。魚を丸飲みするのが案外下手で、よく落としていたこと。くちばしの中に見えた舌の存在に驚いたこと。

 透き通る水の中から掬い上げるように、迷いなく綴られる文字。羨ましいほど軽快で、眩しいほど素直だった。


 最後の一文、


「楽しかったです」


 を声に出して読むと、あの頃の気持ちが、今の私の心へふわりと落ちてきた。それは不思議とあたたかく、懐かしかった。




 翌朝、牛乳を飲む凛ちゃんに、屋根裏から発掘した本を渡した。


「美波さんが読んでたやつ?」

「そう。古いけど、案外きれいでしょ?」


 凛ちゃんは頷いてから、読んでみる、とわくわくした顔で言い、大きな口でパンをかじった。


「ねぇ、今日さ、水族館行かない?」

「え?」


 テーブルの上に置かれたペンティをひょいと抱え上げて言う。


「ぺンギン、見に行かない?」

「行く!」


 ジャンプするように言う凛ちゃんに、私はOKサインを出してにっこりと笑った。

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