第2話 少しのお酒と焼きうどん

 「和ちゃん、これ見て。」

 下町喫茶さくらで働き始めてからもうすぐ1か月が経とうとしている。だいぶ仕事にも慣れて、常連さんの顔と名前も覚えてきたところだ。そんな時に、1枚のチラシを暖さんから渡された。

「さくら交流会?」

「そう。不定期だけど、地域の人たちが年齢関係なく、気軽に集まれるイベントをここで企画して開催しているんだ。」

 暖さんの声が、いつになく弾んでいるように思えた。

「今回は10月の頭くらいにしようと思っているんだけど、せっかくだから、和ちゃんに企画してもらいたいなって。どう?」

 戦隊ヒーローを見て興奮する少年のような純粋な瞳で、期待されたように見つめられたら断れるわけがない。ここで働き始めて気づいたことだが、彼は一見紳士で大人な男性と思いきや、ある時は幼いおてんばな子どものような表情を見せて無邪気に笑う。私はこのギャップに弱いみたいだ。心なしか、彼に毎回踊らされている気がする。でもそれを嫌と思っていないあたり、暖さんからの頼まれごとは一生断れないのだろう。こんなイケメンに頼まれたら、断れる女子なんていないと、毎度自分の行いを正当化するのが習慣となっていた。

「わかりました。考えてみますね。」

「ありがとう。楽しみにしているね。」

 彼の推しに負けて引き受けた私を見て、心底喜んでいるようだ。くるりと踵を返した背中越しに、控え目なガッツポーズが見えた。

 そんな会話とともに開店準備を終え、本日1人目のお客様がやってきた。

「どうも、こんにちは。」

「いらっしゃいませ。」

 開店してすぐに入って来たのは、常連客のイトさん。今年で米寿を迎えるおしゃべり好きのおばあちゃんである。週に3回以上はここにやってきて、毎回コーヒーと日替わりサンドイッチのセットを頼むのがお決まりだ。

「和ちゃんもだいぶ慣れてきたわねぇ。いつものセットお願いね。」

「そう言ってもらえて嬉しいです。かしこまりました。今日のサンドイッチはハムチーズサンドですよ。」

 私は注文を聞いて暖さんに伝える。

「イトさんの、いつものでお願いします。」

「はーい。」

 ぽとり、ぽとりとコーヒーが滴っていく音が聞こえてくる。昼時で、人の賑やかな声が忙しなく飛び交うのもお構いなしに、時間はゆっくりと動いているようだった。

 イトさんにセットを届け、私は他の仕事をしながら周りを見ていた。

 大体のお客様がレジを済まし、そろそろイトさんも完食して帰る頃だろうと様子を見ていると、何やら彼女がおどおどしている姿が目に入ってきた。

「イトさん、どうしました?」

 放っておけなかった私が声をかけにいくと、彼女は困惑したように、衝撃的な言葉を発した。

「鞄がなくなってしまって。誰かに盗られたのかしら…。」

「えっ!」

 自分の脳内で処理しきれずに、柄にもなく大声をあげてしまった。その声を聞きつけた暖さんも慌てて駆け付けた。

「どうした?」

「イトさんの鞄が盗まれたかもって。」

 うーん、と首を傾げた暖さんは、彼女の座っていた場所の周りを確認し始めた。そして、おっという声をあげたかと思うと、

「ありましたよ。良かったですね。」

 と言って、イトさんに鞄を渡した。

「あら、ありがとう。」

 彼女はその後、何事もなかったかのように支払いを済ませて帰っていった。

 「イトさん、大丈夫ですかね?」

 ランチタイムが終わり、バーの準備に取り掛かりながら、ふと今日の出来事を振り返る。

「イトさん、最近そういうこと多いんだよね。昨日もそうだったし。」

 なんと、私が休みだった昨日も彼女は今日と同じ行動を起こしたらしい。

「なんかそうなるきっかけがあったんですかね?ずっと元気そうだから気づかなかったけど…。」

「詳しいことはわからないけどね…。」

 曖昧なまま、時間だけ刻々と過ぎていく。でも、考えている余裕はない。私は今日からバーの仕事もさせてもらえるのだ。しっかりと集中しようと気持ちを入れ替えた。

「今はとりあえずバーのこと教えるね。」

 暖さんもぱんっと自分の顔を叩いて、オフの顔から、きりっとした仕事モードの顔に戻った。

 バーが開店して、お客様と話しながら盛り上がっていると、焦った声とともに、壊れるのではないかと思うくらい激しくドアが音を鳴らした。

「あのっ、うちの母は来ていませんか?」

 彼女は息を切らしてドアにもたれかかるようにして立っていた。私は初めて会う人物だったので、どう答えて良いかわからず、挙動不審になってしまった。

「あ、お久しぶりです。イトさんの娘さんですよね?昼間は来ていましたけど、もうお帰りになられましたよ。」

 背後から頼りになる声が聞こえたと同時に、目の前にいる彼女はがくっと肩を落としてしまった。

「おっと、大丈夫ですか?」

 かと思えば、膝から崩れるように床へとへたり込んでしまった。暖さんが引き上げて椅子へと座らせ、とりあえず落ち着いてもらうために飲み物を出した。

「あの、最近のお母様は家でどんな感じですか?」

 彼女が一息つけた頃、暖さんがひとつひとつ紐解いていくように質問を重ねていく。

「認知症の症状が進んでしまって、今までも急に家を飛び出してしまうことはあったんです。ただ、大体は家のすぐ近所で見つかるので平気だったんですけど、今日は見つからなくて…。」

「なるほど。会話の中で、お母様が行きそうな場所がわかるような話題はありましたか?」

「いえ、ここ以外に心当たりはありません。」

 彼女はそう答えたが、私にはもしかしたらという会話があった。そして、行きそうな場所として、1つの場所を思い浮かべた。

「あっ、スーパー。」

 割り込む形で咄嗟に口に出してしまったが、暖さんが続きを促してくれた。

「イトさん、ここに来た時にこう言っていた時があったんです。家族のために腕を振るうからスーパーに寄るって。」

「えっ、でも家で母が料理することはありませんよ。今はずっと私がやっているんですから。認知症にもなって、火なんか危なくて近づけられないですし。」

 私の意見を聞いた彼女は、どうも納得がいかないというように首を傾げた。

「でも、念のためスーパーに行ってみてはいかがですか?そこで見つかれば理由がわかるかもしれないですし。」

 勢いで伝えた情報だったが、暖さんはそれが正しいと確信しているかのように、彼女の背中を押した。

「そんなに仰るなら行ってみようかな。母も2人にはお世話になっているって言っていたので…。」

「はい、ぜひそうしてください。」

 これまた自信満々に言った彼に、圧倒されながらも、彼女は店を後にした。

「なぜスーパーにいると自信を持って言えるんですか?」

 私は自分が言い出したことにもかかわらず、未だに思考回路が追いつかないでいた。

「イトさんが娘さんのことを大切に思っていることがわかるから。おそらく、イトさんはずっと娘さんに何かを作ってあげたいと思っているんじゃないかな。」

 やっぱり、どんな姿であれ、親は親のままでいたいという思いが強いのだろうか。私はまだ結婚もしていないし、もちろん子どももいないから、親となった人の気持ちは自信を持って理解できると言い切ることはできない。わかりますと同調する勇気もない。やっぱり、その立場になってみないとわからないものは計り知れないくらいあるだろう。そんな私が、イトさん親子に寄り添うにはどうすれば良いだろうか。自分の思考の中にある、複雑な迷路を彷徨う中で、暖さんの声が静かに入り込んでくる。

「それに、家の近くで何度も家族に見つかっているって言っていたから買い物すら行けていなかったはず。何度も挑戦して、やっと成功したのが今日だったんだと思うよ。」

 半分理解できたようで、まだイマイチ理解できていない気がする。そんな私のことを察してか、暖さんは言葉を続ける。

「この間、少し会話が聞こえていたんだけど、和ちゃんがイトさんに、料理喜んでもらえたか聞いていたでしょう。その時、何て言われた?」

 そういえば、ちゃんとした答えをもらっていないような気がする。

「恥ずかしいから秘密、みたいなことを言っていた気がします。」

「やっぱり。実際には作れてもいなかったから、そう言うしかなかったっていうのが実情かな。」

 なんとなく事情は理解したつもりではいるが、なぜイトさんはそんなに何度も料理を作ろうと試みたのだろうか。

「娘さんの顔見た?目の下に、すごい隈があった。そんな娘を放っておけなかったとしても可笑しくはない。娘さんのことが何歳に見えているのかは謎だけどね。」

「ここまで娘さんのことを思っていて、本当に認知症なのでしょうか。」

 私は素朴に疑問に思ってしまった。

「認知症の人の特徴として、徘徊がある。そして、その理由の1つとして記憶障害が挙げられるんだ。その症状として、現在の記憶を忘れて、過去の習慣をしようとすることがある。」

「ということは、娘さんが子どもの頃、元気がなかった時に作っていたものを作ろうとしていたということですか?」

「そうだと思う。どんなことがあっても、親は親のままでいたいと願っているものだよ。大切な子どもの力になりたいと思うのは当たり前の感情なんじゃないかな。うちの親もそうだったから、そういうものなんじゃないかなっていう勝手な想像だけどね。」

 そう答える暖さんの目には、なんとも言えない、慈愛に満ちた心が映し出されているように見えた。

 お客様の波が静まり返った頃、プルルルル、と店の電話が着信を告げた。

「お電話ありがとうございます。下町喫茶さくらでございます。」

 暖さんが電話を受け取り、数分して戻って来た。

「イトさんの娘さんからだった。やっぱり、イトさんはスーパーにいて、食材も買い終えていたそうだよ。本当に無事に会えて良かった。」

 私もそれを聞いて安心したが、それ以上に暖さんは気を張っていたようで、彼は大きく肩を上げてふーっと息を吐いた。

「それにしても、何を買いに行っていたのでしょう。」

「うどんって言っていたなぁ。あとは野菜とソースとお肉と…。普段家ではぼーっとしていることが多いのに、よく1人でこんな買い物ができたって娘さんが驚いていたよ。」

「そうですか。あっ、良いこと思い付きました。今回の交流会はうどん打ち体験にしましょう!」

 私は暖さんの話から、イトさんが作ろうとしていた料理は娘さんに向けてのもので、うどんを使ったものだと推測した。もしこの交流会のことを娘さんやイトさんに伝えたら、彼女たちの架け橋となるヒントを見つけることができるかもしれない。最初はいきなりの提案に目を丸くしていた暖さんだったが、すぐに私の意図を理解して賛成してくれた。

「良いね。さっそくイトさんが次に来た時に伝えてみようか。」

 暖さんはそう言うと、私の頭をあの時のように、ぽんぽん、と撫でた。びっくりして見開いた目の先に映った彼の顔は、幼い妹に一生懸命に世話を焼くお兄ちゃんみたいで、とても朗らかなものだった。そんな暖さんの表情を見て、私の心にポッと明かりが灯った。

 閉店した店内で片付けをしながら、今後交流会の準備などはどうするかを相談して、私は帰宅した。現在母は入院中であるため、1人暮らしをしているようなものである。夕食は賄いとして出されたものを美味しく頂いてきたため、お風呂に入って寝るだけという感じだが、どうも興奮して眠れそうにない。明日はお休みだから、下町喫茶さくらに常連客として遊びに行こうかなと考えながら布団に入り、遠足を楽しみにする子どものように幸せな気分で目をつぶった。

 翌日、お店に行くと、予想通り最初のお客様としてイトさんが訪れており、さっそく暖さんが昨日の話をしているところだった。

「おっ、いらっしゃい。」

 私が来たことに気づいた暖さんが、イトさんの席へ案内してくれた。

「イトさん、こんにちは。」

「あら、今日はお客さんなのね。」

 私が挨拶すると、彼女はニコニコしながら答えてくれた。先に暖さんに注文をしてから私も昨日の話をすることにした。

「イトさん、昨日は大丈夫でしたか?」

 そう言うと、イトさんはキョトンとして

「まだそんなに心配されるような年じゃないんだけどねぇ。買い物に行っていただけだから大丈夫よ。」

 と言った。それから、彼女は昔の思い出話に花を咲かせた。

「暖くんにも言ったけど、最近娘が元気ないから、焼きうどんを作ってあげようと思ってね。娘の大好物なの。」

「そうだったんですね。」

 彼女は、本当に娘さんのことが愛しくてたまらないというように、すっかり母親の顔になっていた。

「そうだ、イトさんはここで開催される交流会には参加したことありますか?」

 ここが良いタイミングだと思い、交流会の話を振ってみた。

「えぇ。結構参加しているわよ。次にやること決まったの?」

「はい!うどん打ち体験をしようと思っていて、みんなでうどんを打った後、それぞれ好きなようにうどんを食べてもらおうかと思っているんですけど、良かったらイトさんも娘さんと一緒にどうですか?」

 私は、イトさんから聞いた情報をもとに、やりたいことを組み立てて説明した。

「良いわねぇ。私も参加させてもらうわ。」

 案の定すぐに賛成してくれた彼女は、さっそくやる気を示してくれた。

 イトさんからも企画内容のお墨付きをもらえたところで、彼女は先に帰っていった。それを暖さんに伝えると、彼もとても喜んでくれた。

「あとは日付を決めて、参加者を集めて、材料とか準備するだけだね。」

 大体のことがまとまり、主催者側としての実感がだんだんと湧いてきた。無事に成功するように、そして、みんなが楽しめるものになるように、全力で取り組もうと決心した。

 その日の夜、私は自分の夕飯と、うどんを打てるように練習するためのものを買いに行こうとスーパーに行った。するとそこには見慣れた2つの影があった。声をかけようと近づくと、耳を疑いたくなるような言葉の刃が次々と冷たい空気の中で飛び交っていた。

「もう、何度言ったらわかるのよ!勝手に夜に外へ行かないでって言っているのにっ!」

 それは、娘さんがイトさんに向かって怒鳴りつけている場面だった。イトさんは下を向いてわなわなと震えている。私は急いで2人のところへ走った。

「大丈夫ですかっ?」

 私に気づいた娘さんがかっと見開いた瞳を見せた時には後ずさりしたくなったが、すぐに平静を装って挨拶してきた。

「あ、喫茶店の。お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。すぐに母を連れて帰りますから。」

 私は今彼女たちを2人きりにしてはいけない気がした。

「とりあえず、喫茶店に来ませんか?夜ももう涼しい季節ですし、2人で一息ついていかれたらどうです?」

 慌てていたら、自分でも何が何だかわからなくなっていた。とにかく何か言わなきゃと、よく聞いたら変に聞こえるかもしれない理屈を並べて、なんとか2人を説得した。暖さんにも2人を連れていくことを伝え、準備万端である。今のやり取りを目撃し、親子の関係が良いとは言えないことが垣間見えた。それに、娘さんはイトさんのことをかなり誤解しているみたいだ。喫茶店に行って、少しでも良い方向にいくと良いのだが。

 今日は早めに閉めようかなと言っていた閉店間際の店内に、一瞬にしてのしかかった疲労感と、2人のお客様を連れて滑り込む。

「お待ちしておりました。」

 そう言って一礼した暖さんは、カラカラとお酒を作りながら話し始めた。

「もう夜は寒かったでしょう。」

「そうですねー。」

 まだぎこちない2人に代わって、私が会話に入っていく。自分の顔も予想以上に強張っているのか、上手く笑えていない気がした。言った言葉も、可笑しいくらい棒読みになってしまった。

「まぁ、皆さんお疲れでしょうから、和ちゃんも含めてお酒を楽しみながらゆっくりしていってください。」

 再び視線をお酒に戻し、淡々と作業を続ける暖さんは、少し暗めの照明と相まって、端正な顔立ちがより美しく見えた。その表情の中に、魂を込めたような、強い祈りの感情が見えた気がした。 

「さあ、できました。」

 そう言って男らしく綺麗な指を揃え、順番に3つのグラスを前に出した。

「まず、イトさんのはモスコミュールです。度数が高めなので、少しずつお召し上がりください。」

 レモンとライムのすっきりとした香りが鼻を掠めた。

「続いて、娘さんのがブルドックです。」

 明るい黄色がグラスによって引き立ち、荘厳な輝きを放っている。

「そして、和ちゃんのは…。」

 少し俯いた顔から見える彼の瞳は、何かを賭けているように、力強い熱を帯びていた。

「オリンピック。後でこのカクテルを調べてみてね。作り方も覚えてもらわないとだし。」

 しかし、顔を上げた暖さんから先ほどまでの眼光は消え、いつもの優しい顔に戻っていた。私たちは、それぞれグラスに口をつけた。

「美味しい。」

 そっくりな親子の声が、ぴったりと重なる。

「お2人は、カクテル言葉というものをご存知でしょうか。」

 彼女たちは、あまりピンときていないようで首を傾げた。

「カクテルには、それぞれ意味が込められています。つまり、なかなか本音を直接伝えられない相手でも、自分の気持ちを乗せて相手に届けることができる。」

 私は、暖さんが何を言おうとしているのかがわかった気がする。

「今回お2人に出したカクテルには、お互いが思っていることを代弁してもらっています。数々のお2人の言葉、行動から推測させていただきました。もちろん、和ちゃんのも。」

 私のも何か意味があるのは予想外だった。そう言いながら、少し不安な表情を見せている彼の姿も意外だった。

「イトさんのカクテルには、仲直りの意味が含まれています。娘さんは、仕事のことなどでいっぱいいっぱいになってしまった上に、母親ともどう向き合って良いかわからず、ずっと憤りを感じていたのではないでしょうか。そんな中で、最近はずっとイトさんにストレスをぶつけてしまっていた。おそらく、認知症となった今でもイトさんが貴方のことを大切に思っていることに気づいていながらも、素直になることが難しかった。そして、行き場のない自分の中の怒りをどうすることもできなかったのではないですか?」

 図星だというように、娘さんの目は大きく見開かれていた。

「おそらく、仲直りして素直になりたいというのが、本音なのだと思います。」

 丁寧に長く編んでいく彼の言葉に、そこにいる誰もが聞き入っていた。

「そして、娘さんに出したカクテルに込められているのは、守りたいという感情です。」

 はっとしてイトさんの方を向いた彼女は、今にも泣きそうな表情である。

「イトさんは、貴方が仕事に行き詰っていることも全部わかっていた。自分が迷惑をかけていることも全部。だから買い物に出かけたんです。貴方の力になりたかったから。」

 途中までニコニコと話を聞いていたイトさんは、いつの間にか夢の中へといっていた。そして暖さんは、緊張の糸が切れたのか、とうとう涙を流し、うなだれてしまった娘さんに最後の一言をかけた。

「10月の第1日曜日に、ここで地域の方々を集めた交流会をするんです。ぜひイトさんといらしてください。きっとそこで、買い物の意味も、今よりもっとわかりますから。」

 来た時よりかは幾分か表情が柔らかくなった娘さんは、前向きな返事をくれた後、イトさんを起こして家路についた。その時の2人には、先ほどまでの緊迫した雰囲気はなくなっていた。

 私もしばらくして帰ったが、どうもモヤモヤした気分が残っていた。なぜ暖さんは、私のカクテルの意味だけ教えてくれなかったのだろう。勉強のためとはいえ、暖さんの表情には何だか冴えない部分があった気がする。2人が帰ってからもう1度聞いてみたがはぐらかされてしまった。家に到着した私は、すぐにスマホを開いて検索する。ブルーライトが映し出したその答えに、私は驚きを隠せないでいた。オリンピック。そのカクテルの意味は、待ち焦がれた再会。この意味をそのまま受け取るには、思い当たるものがない。あの過去の1回だけで、待ち焦がれてもらえるほどの関係になったとは考えられない。なぜ彼はそのような意味を持つカクテルを私に出したのだろうか。意味が意味だけに簡単に本人から聞けるわけがない。とりあえず、夜も更けて、考えれば考えるほど迷宮入りしてしまう気がしたため、何も考えずに朝を迎えることにした。

 時は流れて交流会当日。清々しい朝の風に吹かれながら喫茶店までの道を歩く。あれから何回か出勤しているが、お互い何もなかったかのように普通に過ごしていた。

 喫茶店に着くと、先に暖さんが準備を始めていた。

「おはようございます。」

「おはよう、和ちゃん。」

 挨拶してから、私も急いで準備に加わった。

 交流会は開店時間と同時に始まる。それまでに、材料の準備や流れの確認などを済ませ、ワクワクしながら開始時間を待った。今回は事前に参加者を募集し、うどんでどんな料理を作りたいかも募って準備を進めていた。料理を通して、地域の方々にとってかけがえのない時間をプレゼントできたら良いなと、心の中で静かに願った。

 参加者も集まり、交流会の開始時間となった。イトさん親子も、あれから少しずつ良好な関係を築けているのか、仲良く2人で並んで待っている。そして、私と暖さんが今回の趣旨を説明し、和やかな雰囲気の中で、うどん打ち体験はスタートした。

 わいわいと、子どもからお年寄りまで色とりどりの声が飛び交う中、うどん打ちの時間が終了した。さて、次はいよいよ料理タイムである。この喫茶店に備え付けられたキッチンスタジオへと一斉に移動し、それぞれが思いのままに料理を始めた。

 様子を見渡していると、面白い光景が目に飛び込んできた。イトさん親子が2人でいるのだが、料理をしているのはイトさんのみである。話を聞いてみようかと思い、少し近づくと、微笑ましい会話が耳に届いた。

「お母さん1人で何作るの?気を付けてよ。」

「何って焼きうどんさ。あんた好きだろう?嫌なことがあった時は昔っからこればっかり食べていたんだから。」

「そんなの、それこそ小さい頃の話よ?何でまた?」

「最近、由紀が元気ないからだよ。お母さんに由紀の様子でわからないことはないさ。だって、由紀の母親なんだから。仕事で何があったかまでは知らないけど、私はあんたを信じているし、何があってもあんたの味方だからね。」

 娘さんが子どもだった頃のことを話すイトさんは、遂に思いが溢れ出したらしく、次々と滑らかに言葉を紡いでいく。

「今じゃちょっとボケてきて、自分でも何が何だかわからずに、由紀にたくさんの迷惑かけているのは申し訳ないと思っているよ。けど、由紀は私にとっていつまでも大切で仕方ない子どもなんだ。だから、せめて私がこの世から旅立つまでは、なるべく多くの時間を共にしたいし、あんたの心配もしていたいし、力にもなりたい。ほんの少しでも良いから、たまには老人の我が儘も聞いてもらえないかね。」

 いつものんびりとしている彼女が、こんなにも必死に、饒舌に語るのを見て、圧倒された。

 そして何より、作業の手を止めて真っ直ぐと娘さんを見据える彼女の瞳の色には、言い表せないほどの逞しさが宿っていた。娘さんも、普段とかけ離れた母親の姿を見て固まっていたが、みるみるうちに彼女の目には涙が溜まり、つーっと一筋の滴が頬をつたった。

「私も、今までお母さんとちゃんと向き合おうとしないでごめんね。たぶん、怖かったんだと思う。私の知らないどこかでお母さんを失ってしまうことが。だから、全部認知症のせいにして、お母さんのこと、苦しめちゃってた。買い物も、焼きうどん作ろうとしてくれていたからなんだね。それを、私の勝手な思い込みで無理矢理止めてた。本当にごめんなさい。あと、ありがとう。お母さんだって、どんな風になっても私にとってはずっと大切なお母さんだから。いくらお母さんが私のこと忘れても、しつこく隣にいるんだから、覚悟しておいてよね。」

 最後の方は照れ隠しからか、言い方が投げやりになっていた娘さんだったが、その顔はとても晴れやかなものだった。親子の間には、目には見えないけれど、絶対的な2人にとっての宝物が存在した。

 しばらくして、やはり同じように親子の様子を見ていたであろう暖さんが近くに来て、私に話しかけてきた。

「良かったね、あの2人。」

「そうですね。」

「娘さんは強いなぁ。あんな言葉をはっきりと言えるなんて。僕は家族に忘れられてしまったら、また自分のことを認識してもらえるように必死になってしまう。」

 この時の暖さんの儚げな表情が、脳裏に焼き付いて離れない。

「僕らもいつか、家族みんなで笑える日が来ると良いね。」

「あっ、はい!」

 その言葉をすぐに理解できなかった私は、返事に遅れてしまったが、気にする素振りも見せず、彼はまたぐるぐると周りの様子を見に行った。

 その日の夜、大盛況の中で交流会は無事に終了し、片付けをしていた。いつものように床の掃き掃除をしていると、1枚の紙のようなものが落ちているのを見つけた。

 裏返してみると、それは1枚の写真だった。そこにいるのは、みんなで幸せそうに笑う家族のようだった。しかし、見た瞬間信じられないものが写っている感覚に陥り、時が止まったかのように思われた。まず、この写真が撮られたのは、紛れもなく私の自宅である。

 そして、そこに写る2人の大人は、私の母と暖さんの父であり、この喫茶店の元マスターであるおじちゃん。さらに、幼い赤ん坊を抱え、無垢な笑顔を向ける高校生くらいの少年は暖さんだ。ぱっちりとした二重瞼や、くりっとした黒目勝ちな瞳に面影が残る。そして、屈託のない満面の笑みでそんな少年にくっついている赤ん坊は、紛れもなく私だ。これは私が生まれて間もない頃のものである。暖さんは、こんなに小さい頃から私のことを知っていたのだろうか。彼らと私の関係にはどんな秘密があるのだろう。この写真を、私は初めてこの場で見たのだ。しかも、初めて彼らと会ったのはもう少し後のことだったと認識している。この写真を、私に隠さざるをえない何かがあったのだろうか。好奇心と不安の渦が自分の周りをぐるぐると渦巻く。今は触れてはいけない気がして、そっと端の方に裏返して置いた。その時彼の瞳が私を捉えていることに気づかなかった。

 私は平静を装って、掃除が終わったことを報告する。

「今日はお疲れ様。ゆっくり休んでね。」

 いつも通り微笑んでくれる彼にほっとして、私も挨拶して家に向かう。今日はいろんなことがありすぎて、疲労感がどっと押し寄せた。何もしないで寝てしまおうかと思った頃、私のスマホが静かな部屋に鳴り響き、着信を知らせた。

「もしもし。」

「もしもし、和?久しぶりね。」

 声の主は、私の母親だった。あの写真を見た後だと、妙に緊張してしまう。

「どうしたの?お母さんから電話なんて。」

「そうそう、明後日退院することになったから、連絡をと思って。」

「良かった。迎え行こうか?」

「それは大丈夫。久しぶりにあの喫茶店でお茶したいから、先に行って待っていてくれる?」

「わかった。」

「ありがとう。じゃあ、そろそろ切るね。おやすみ。」

「うん、おやすみなさい。」

 電話を切って、ぽすんと布団にダイブする。これから、今までみたいに暖さんの前で笑えるだろうか。せっかく築き上げてきた関係が、本当は脆く、今にも壊れてしまうのではないかという思いでいっぱいになった。カクテル言葉。暖さんの今までの表情。あの写真。全てが繋がって点から線となった時にはどうなるのだろう。明日何かが起こるだろうか。本当のことがわからないというモヤモヤした不安が襲う。私のふわふわだった布団は涙の海と化して、暗い海の底に溺れていくような感覚に襲われた。


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