下町喫茶の思い出旅行
香
第1話 ホットミルクとアップルタルト
爽やかな風が私の横をすーっと通り過ぎていく。並木道の木々に生い茂る若葉たちが、さわさわと軽快な音を立てて揺れている。
「はぁ…。」
久しぶりの解放感から漏れた深い溜め息が、快晴の空に吸い込まれていく。夏休みに入って1週間。やっと時間ができた私は、最近全然行くことができていなかった、ある場所へと向かう。じりじりと太陽が照りつけるアスファルトの上を、一歩一歩踏みしめて、真っ直ぐ進んでいく。気づけば目的地に到着していた。
下町喫茶さくら。駅の外れの一角にひっそりと佇む、古民家風の喫茶店である。情緒溢れるその外観を見て、自然と顔が綻んでいく。幼い頃、ここへ来るのが楽しみで仕方がなかった。嬉しい時、悲しい時、悩んでいる時、母がそんな私の感情のちょっとした変化に気づいて、事あるごとに連れてきてくれていた。もちろん、誕生日やクリスマスなどの、特別なイベントの時も必ずである。母は、ここの喫茶店のことを、心の底から大切にしているようだった。母と決まった席に座って味わう優しい味は、片時も忘れたことがない。ここに来れば、嬉しさは何倍にもなるし、悲しいことは甘いお菓子の中に溶けて、気づいた時には消えてなくなる。そして、ぽかぽかとした温かい気持ちだけがいつも残っていた。私にとっては、この空間がどんな時でも温もりをくれる、陽だまりのような存在なのだ。この場所があることで、私はいつでも自分に正直に、前向きでいることができた。でも、大学生になって3年。その間にいろいろとありすぎた私は、忙しくなってここに来ることも難しくなり、余計に心に余裕がなくなってしまっていた。今日は長期休暇に入って、やっとできた束の間の休息日なのである。最近ずっと思い悩んでいた私は、あの空間の心地よさと、現実を忘れさせてくれる雰囲気にすがりたくなっていた。入院中の母と電話した時も、喫茶店へ行くことを勧められた私は、迷わず喫茶店へ行くことを決めていた。
カランコロン、とドアの鈴が軽快に鳴る。ずっと変わらないままの、落ち着いた音色にほっとする。中に入れば、やっぱり変わらないままの、大好きな世界が広がっていた。いかなる理由があったとしても、この空間だけは拒まずに受け入れてくれる。一瞬にして、騒がしい街の喧騒から隔離され、別世界へと誘われる。この感覚が堪らなく好きだ。
「こんにちは。」
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ。」
柔らかなピアノの旋律が静かに迎え入れてくれた中で、低くて凛とした声がこだまする。あれ、いつも聞いていた声と少し違う。でも、一言聞いただけなのに、とても安心する。カウンターの奥から出てきたのは、紳士という言葉が驚くほど似合う、爽やかな男性だった。その姿は、白いYシャツにジーンズ、紺色のエプロンといったラフな格好にもかかわらず、品の良さを感じさせた。そして、とりあえず席に向かおうと歩き出した私の足元に、もふもふと動く感触を覚えた。
「あ、ハナだー。元気だったかい?」
その正体は、この店の看板犬であるハナだった。いつも私を癒してくれる大切な存在である。ハナは人間の感情にとても敏感らしく、昔からよく寄り添ってくれていた。ハナには何かとお世話になりっぱなしなのである。それこそハナにだけは隠し事ができない。ハナには何でもお見通しなのである。それは、私が分かりやすすぎるのもあるだろうが、ハナが名探偵なのも事実だと思っている。そう思っているのは、この喫茶店に来るお客さん全員ではないだろうか。私はハナの目線に合わせてかがんで、わしゃわしゃとハナに触れた。いつ触れても温かい。でも、何か足りないと思い直した私は、ここにいるはずのある人物が見当たらないことに気づいた。
「あれ、おじちゃん…。」
「あー、えーっと。親父から任されて、今のオーナーは僕なんだ。」
無意識のうちに口にしてしまったらしい私の疑問を拾った彼が、そう教えてくれた。いつも穏やかな目で私たち親子を見守ってくれていたおじちゃんは、彼のお父さんだったらしい。というよりも、なぜかこのやりとりに既視感を覚えている自分がいた。久しぶりにここに立ち寄ったからだろうか。
「そうだったんですね。」
「まぁ、立ち話もなんなので。どうぞ、お好きな席へ。」
疑問を打ち消すように冷静に相槌を打ちながらも、そう言われてまだ立ったままだったことを思い出した。彼はにこっと微笑んでカウンターに戻ると、何かを作り始めていた。その微笑みは、やっぱりどこか懐かしさを感じさせた。何かが引っかかるような気がしたが、その時は、息子さんなのだから、おじちゃんと似た雰囲気を纏っていても可笑しくはないと、あまり考えなかった。そんな様子を見ながら、私はいつも座っていた席に向かった。それに気づいた彼が、無駄な動きひとつせず、すっと私が座ろうとしている席に向かい、椅子を引いてくれたため、そのまま私は腰をおろした。絵本の世界から飛び出てきた王子様かと錯覚してしまうくらい、なんというかエスコートが上手だった。
「お待たせしました。」
「えっ、頼んでいないですよ?」
「ふふっ、サービスです。ごゆっくり。」
しばらくして、まだ注文をしていないのに、彼はサービスというには勿体ないくらい本格的で、美味しそうなものを持ってきた。思わず喉をごくりと鳴らしてしまう。しかもそれは、メニューにも載っていない特別なもののようだった。目の前にことりと置かれたのは、ほかほかと湯気を立てるホットミルクと、宝石のようにキラキラと蜜を輝かせる、一口サイズのアップルタルトだった。甘くて優しい香りが、すっと鼻を抜けていく。私はそれらを、それぞれ順番に少しずつ口へと運んでいく。口の中にふんわりとミルクと蜂蜜の濃密な味が広がる。一緒に食べているタルトにのった林檎のシャキシャキとした食感との相性が抜群である。これは、私の好みど真ん中の味だった。そして、食べ進めているうちに、いつしか食べたことのある懐かしい味のような気がして、気づけばだんだんと噛み締めるように味わっていた。そして、私は既視感の謎とともに、10年以上前まで一気に引き戻されていく感覚を覚えていた。
あれは確か小学1年生の時のことだったと思う。私は母に、ちょっとしたおつかいを頼まれて、近所のスーパーへ行っていた。無事におつかいを終えた私は、早く母のもとへ帰りたくて急ぎ足になっていた。しかし、近くから可愛らしい音がして、意識が完全にそっちへ向いた私は、好奇心が沸々と湧いて、その音につられるように、自然と家とは違う方向へ、トテトテと進んでいた。小さな足で五分ほど歩くと、いつも遊んでいる公園に辿り着く。私はその入口付近にある桜の木の下に、段ボール箱があるのを見つけた。恐る恐る覗いてみると、そこには、まだ生まれたばかりと思われる子犬がいた。可愛らしい音は、子犬の鳴き声だったのだ。先ほどまで聞こえていた声も、その時には弱々しくなってしまっていた。なんとかしてこの子を助けたい。でも、母は身体が弱いし、私には父がいないため、自分の家で育てられないことは、子どもながらに理解できていた。そんな私は、子犬をじっと見つめ、懸命に良い方法はないかと考えた時、ぱっと閃いたことがあった。名案を思い付いたとばかりに一気に気分が上がった私は、気合を入れて段ボール箱をうんしょと持ち上げると、はやる気持ちをなんとかして抑えながら、一直線にある場所へと向かった。
「大丈夫だよー。もう着くからねー。」
健気に子犬に声をかけながら、少々覚束ない足取りで必死に進んだ。
そんなに遠い道のりではなかったはずだが、やっとの思いで目的地に到着すると、段ボール箱で手一杯だった私は、自分の背中で勢い良くそのドアを開けた。
「おじちゃん!この子を助けて!」
ドアの鈴が高らかに鳴り響き、私の大声に驚いた人影がこちら側に振り向いた。だんだんと近づいてきた人は、私が求めていた人とは違っていた。見上げれば、金髪と、右耳に付いた銀色のピアスがキラキラと光るのが目立つ若いお兄さんがいて、ちょっと怖気づいたのを今でもよく覚えている。
「ごめんね、親父は留守で、今だけ代わりに僕が店番をやっているんだ。僕でも良いかな?」
見かけによらず、彼は私の目線に合わせてしゃがみこんで、諭すようにゆっくりと語りかけてくれた。そんな彼に心を開くには、そう時間はかからなかった。
「ワンちゃんが死んじゃう…。」
やっと絞り出した声をしっかりと受け止めてくれた彼は、私に大丈夫と言い聞かせるように、ぽんぽん、と頭を撫でてくれた。
「大丈夫。この子は助かるよ。よく頑張って連れてきてくれたね。ちょっと預かるね。」
そう言って彼は私の手からそっと段ボール箱を受け取った。
「ここの席に座って少し待っていてね。」
そして彼は、一言を残してスタッフルームと書かれたドアの向こうへ行ってしまった。
私は彼が座らせてくれたカウンターの席で足をぶらぶらさせて、そわそわした気持ちを誤魔化すように待っていた。
程なくして、彼が子犬を抱えて私の傍に来てくれた。
「お水をあげて身体を洗ってあげたら、さっきより元気になったよ。」
彼の腕の中にいる子犬は、母親の腕の中で守られているかのような安らかな表情で、気持ち良さそうに寝息を立てていた。
「かわいいー。元気になって良かったねー。」
私は、小声で声をかけながら、子犬の背中をそっとさすった。
「ふふっ、そうだね。じゃあ、小さな命を助けた可愛いお嬢様には、僕からご褒美を差しあげましょう。準備する間、この子をよろしくお願いします。」
そう言うと、彼は恭しく右手を胸に添えて一礼し、私の膝の上に子犬を置いた。そして、元気よく返事した私を見て、ある提案もしてきた。
「あ、そうだ。その子に名前つけてあげたらどうかな?女の子だよ。」
「いいの?」
性別までわかってしまうなんてすごいなと感心しながら、そんな大役を担って良いのか不安になって聞いてしまった。
「もちろん。名前考えながら待っていてね。」
そう言って彼は、カウンターに入って準備を始めた。私はしばらく悩んだが、子犬を拾った場所の光景が再び脳裏に浮かび、直感である名前に決めた。
「名前決めた!ハナにする!」
「おー、素敵な名前だね。ハナちゃんも喜んでいるね。ほら。」
彼が指差す方向を見ると、尻尾を振ってぐーんと伸びているハナの姿があった。
「さぁ、ご褒美もできました。」
心躍る言葉とともに目の前に現れたのは、ホットミルクと一口サイズのアップルタルトだった。
「わぁー。」
あまりの感動で、思わず声が漏れていた。彼が作ったスイーツは、母親が私のためにちょっと背伸びして連れていってくれるデパートのカフェで出てくるような、贅沢な輝きを放っていた。
「どうぞ、召し上がれ。」
その言葉を合図に、待っていましたとばかりにフォークを握りしめて、いただきますと言い、まずはアップルタルトを口の中に放り込んだ。
「おいしいっ!」
「ははっ、良かった。落ち着いて食べて。お菓子は逃げないよ。」
笑われてしまうくらいの食べっぷりであった私は、最後まで見事に食べるスピードを落とさずに、あっという間に平らげた。次に、私は休む間もなく、まだほかほかと湯気がのぼるホットミルクをごくりと飲んだ。身体の芯から温まる優しい味が、口の中に一気に広がった。
「ごちそうさまでした!」
「はい、お粗末様でした。」
全てを食べ終えた私は、美味しいおやつに夢中になっていたことを忘れて、再びハナに対する不安を口にした。
「ねぇ、ハナどうなる?」
すると、彼は私の膝からハナを抱き上げてこう言った。
「これからハナは、ここの看板犬になるよ。」
「本当に?良いの?」
私は嬉しさを隠さず、彼に詰め寄ってしまった。
「うん、もちろん。僕も親父も犬好きだし、ここに来るお客様も動物好きな人多いから大丈夫。」
「やったー!ありがとう!」
飛び跳ねて喜ぶ私を見て、困ったように眉を下げて笑ったが、その瞳は、とても暖かい色をしていた。
「ほら、落ち着いて。そろそろ帰らないとお母さん心配しちゃうよ。またハナに会いにおいでね。」
彼は、そう言うとハナを床に下ろして、私を椅子から持ち上げた。
「ご褒美だからお金はいらないよ。僕が作りたくて作ったものだから。ありがとうね。」
最後まで私に気を遣わせまいとしてくれていた彼に、幼いながらにキュンとした。彼がドアを開けて待っていてくれたので、私もお礼を言ってそのまま帰った。
私は、帰宅後、母に喫茶店での出来事を話した。
「あらー、暖くんも立派になったのね。」
そう言うと母は物凄く感慨深げな瞳をしていた。私は彼に会ったのが初めてだったはずだが、母は彼のことを前から知っているようだった。もっと詳しく彼について聞きたかったけど、母がすぐに家事に取り掛かったのを見て、聞くタイミングを逃してしまった。
後日お礼をしに母と喫茶店へ向かったが、彼の姿はなく、いつものおじちゃんが1人で迎えてくれた。あの時は、まだ大学の春休み中で時間があったから、たまたま手伝ってもらっていたのだそうだ。新学期が始まってしまった今、いろいろと忙しいらしくこっちには顔を出せなくなるだろうとのことだった。
あの一件以来彼とは全く会っていなかったため、10年以上ぶりの再会となる。彼がまさかあの時のお兄さんだったとは思ってもみなかった。でも、今彼の作ったスイーツは、当時お兄さんが作ってくれたものと全く同じである。それに、笑い声や仕草が、あの金髪だった彼と可笑しいくらいに重なる。そう意識し始めたら、急に胸の高鳴りが激しくなった。
「ははっ、その顔は思い出してくれたと捉えて良いかな?
現在へと引き戻された今、呆然としていた私は、相当間抜けな顔をしていたらしい。そう認識した瞬間、体温が上昇していくのがわかる。
「もう、笑わないでください…。」
「ごめんごめん。和ちゃん、久しぶりに会っても、表情がコロコロ変わるところとか全然変わらないなって思って。」
私のやっとの抵抗も虚しく、追い打ちをかけるようなその言葉に、私の顔まで茹で蛸の如く真っ赤に火照り上がった。ただ、熱が冷めてきた頃、ちょっとした疑問が生じた。
「何で名前知っているんだろう。」
「あー、それはね、親父からよく話を聞いていたから。会ったこともあったし、すぐわかったよ。」
心の中で言ったつもりが、大きな独り言になっていたみたいだ。彼は、そういえばというように、驚きながらも答えてくれた。それにしても、あの1回とおじちゃんとの会話だけで合点がいくものなのか。考えれば考えるほど謎がどんどん深まるような気もしたため、半分面倒になってあまり気にしないことにした。しかし、それだけおじちゃんが気にかけてくれていたと思うとくすぐったい気分にもなった。
「ちなみに、僕の名前は
彼は、わざとらしくかしこまった調子で自己紹介した。正面からしっかり見た彼の顔は、やっぱり当時の面影があった。暖さんとあの時のお兄ちゃんが同一人物だと結びついて確信したら、最初よりも気が緩み自分から話しかけていた。
「あの、どうしてまたこれを?」
「それはね、和ちゃんがハナを連れて来た時と同じ目をしていたから、かな。」
そう答えた彼の瞳は、あの頃と同様、暖かい色だった。まるで、君のことは全てお見通しとでもいうような顔をしていた。ハナと言い彼と言い、一体何者なのだろうか。それにしても、私はそんなにわかりやすいだろうか。確かに、今すぐ藁にも縋りたい思いでいるのは事実である。
「最近、お母様はどう?親父から少し聞いたけど、大変みたいだね。」
私がしばらく黙っていると、質問が続いた。おじちゃんにある程度の事情は聞いていそうな感じだ。なぜおじちゃんがそこまで息子である彼に私たちのことを伝えるのかも不思議ではある。しかし、もう悪い人でないことぐらいわかりきっている。思い切って全て吐き出してしまおうか。そんな気持ちが疼いていく。
「また、最近入院しました。」
私はとりあえず質問に対しての答えだけを言った。
「そっか。でも、抱えているのはそれだけじゃないでしょう。何でそんなに泣きそうな目をしているの?」
まさかこれ以上突っ込まれると思っていなかったために、変な間ができてしまった。なぜそんなに確信した言い方ができるのだろう。でも、目の前にある顔から本当に心配していることが、申し訳ないくらいひしひしと伝わってくる。その顔を見て、全てを白状しようと決めた。
「よくわかりましたね。確かにそれだけではありません。最近、いろんなことが積み重なり過ぎていて…。」
私は、自分のメンタルを徐々に蝕んでいった材料を一つずつ捨てていくように、順番に話していった。
「まず、バイト先が潰れたんです。店長が体調を崩して経営ができなくなってしまったから…。」
しかも、私にとっては、じゃあ次のバイト先を早く見つければ良いという単純な話でもないのだ。
「その店長、高齢のおじいちゃんだったけど、私の家庭事情をよく理解して、たくさん相談にものってくれていて。その時、ここに来る余裕もなくて、店長しか頼れる大人が周りにいなかったからすごく救われていて。」
長くて重い話が始まっても、嫌な顔一つ見せず、彼は真剣に耳を傾けてくれている。その姿を見て、1度溢れ出した私の言葉は、留まることなく次から次へと流れていく。留まることを知らず、どんどんどんどん紡がれていく自らの言葉は、聞いてほしいと思う気持ちとは反比例して蜘蛛の糸のように細く、辛うじて1本に繋がった音となる。か細くとも消途絶えることのない声は、思っている以上に心の底から叫びたい自分が、自分の存在を確かめるように、必死にもがいているようだった。
「店はなくなっても病院に行けばまた会えるって思っていたのに、この間亡くなってしまたんです。」
そう、きちんとしたお礼もできないまま、たくさんの愛情をくれた人と永遠の別れをすることになった。
「でも、家のお金は母の入院費とか家賃で精一杯だから、自分の生活費は稼がないといけないし、学費や入院費の心配はいらないって言われても、やっぱり心配だから貯金はある程度しないとで。なのに不安だらけで気持ちが付いていかないのが現実で。」
今までずっと入院費とか大きいお金についての心配はいらないと言われ続けているが、正直、そのお金の出所も私にはわからないのだ。聞いても大丈夫としか返ってこないがゆえに余計に不安になる。甘えすぎだと言われるだろうか。パンクしそうなほどに、私の中に負の感情が溜まっていく。そして、醜い感情が、朝顔のつるのようにぐるぐると大きくなっていくばかりだった。私の顔は、どんどん下を向いていった。しかし、そんな私に降り注ぐ声が、私を深くて暗い海の底のような意識から、水面まで導いていく。
「そっか。今まで頑張ったね。気づいた時には大きな荷物を抱え過ぎていたんだね。ここまで落とさずに持ってきて偉かったね。」
彼から紡がれる穏やかな言葉たちが、私の冷たくなった心の周りを守るように包み込んでいく。私は誰かに頑張ったと言って認めてもらいたかったのかもしれない。彼の言葉が素直に心の中に入っていく。
「せっかくここまで運んできてくれたんだから、僕にもその荷物を分けてよ。もし、働きたいと思っているなら、ここで働いてよ。小さい店だから、シフトの融通も利かせられるし。」
予期せぬ発言に戸惑ったが、それすらも彼の言葉が打ち消していく。
「今まで頑張りすぎていたんだから、甘えることも覚えなくちゃ。和ちゃんなら、そんなに考えすぎなくて大丈夫。責任感がある子っていうのも今の話で十分わかったし。もしここで働きたいという気持ちが少しでもあるなら、安心して働いてもらえるよ。」
どこか茶目っ気もあるけど、幼い子を諭すようなその声が、私の葛藤をじんわりと解いていく。私は自分の気持ちに蓋をすることを止めようと思った。
「力になれるよう、精一杯頑張るのでよろしくお願いします!」
私は、自らの意思を全てぶつけるように、勢い良く頭を下げた。
「頭を上げて。その心意気があれば大丈夫。これから下町喫茶さくらのスタッフとしてよろしくお願いします。」
彼は手を真っ直ぐ差し出してきた。私も同じように手を伸ばして握手を交わした。彼の手はとても大きくて、この人についていきたいと思わせてくれる頼もしいものだった。
「僕も和ちゃんの力になりたいから、硬くならずにいつでも頼ってきてね。僕も頼りにしているから。」
ありがたい言葉と同時に、私が遠慮しないで済むような言葉をともに添えてくれた。どこまでも頭が上がらない。
「ありがとうございます。」
「良かったー。やっと笑った。」
自分が笑っていなかったことに今更気づいた。確かに、私の頬は、さっきとは比べ物にならないくらい緩んでいた。そんな私を見て、彼も微笑み返してくれた。
「時間はまだ平気?」
「はい。」
「そしたら、さっそくこれからのことについて話し合っちゃおうか。」
恐ろしいほどとんとん拍子に進んでいく話に少し緊張したが、それと同じくらいわくわくしている自分がいた。
「ここは夜になるとバーになるんだ。喫茶店の仕事に慣れたら、こっちもやってもらおうかな。もちろんできる範囲で。」
私の気持ちを尊重しながら進めてくれる説明を聞いて、この喫茶店に出会えて良かったと心の底から思った。
「わかりました。」
この喫茶店は、12時から17時までで、毎週火曜日と祝日を定休日としてのんびりやっているとのことだった。バーは喫茶店をやっている曜日の19時から24時までらしい。おじちゃんが引退してから、今までこの全部を一人で回していたのだというから凄過ぎである。観察力も人並み以上だし、要領よく何でもこなせてしまいそうな彼は一体何者なのだろうか。気にしなくて良いと思いつつ、さっきから何度も同じことを思ってしまっている。でも、私も早く役に立てるように頑張ろうと気を引き締めた。
「今は手短にざっくり説明しただけだから、わからなくなったらまた聞いてね。それと、無理だけは絶対にしないこと。和ちゃんに無理させたら、僕が怒られちゃうから。」
怒られるって誰にだろう。私が働きやすいように、また気を遣ってくれたのだろうか。それでもありがたいことに変わりはないのでお礼を述べた。一通りの説明を聞き終え、シフトまで決めることができて、ここで働くという自覚が一気に押し寄せた。でも、変なプレッシャーはなくて、これからどんなことが待っているのかという期待が物凄く大きくなった。
「それじゃあ、明日待っているからね。」
「はい、よろしくお願いします。」
自分ではどうにもできず、しばらく日陰で動けないでいた私が、日向へと導かれた瞬間だった。止まっていた自分の時間が、少しだけ今の世界に追いついた気がした。
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