永遠の伴侶

第31話

　その日は冷たい雨が降っていたのをよく覚えている。

　遥か先まで見渡せるはずの山腹でも、少し先の景色が霞んで見えなくなる地雨が。

　だが平原で繰り広げられている血生臭い戦（いくさ）だけは、雨を切り裂いて目に飛び込んできた。

　そして、徒（いたずら）に命が奪われていく、そんな光景が僕を捉えて離さなかった。

　それだけは、いつまでも、鮮明に。

　雨が睫毛の上を嘲笑いながら転がり落ち、兵士らの視界を滲ませる。濡れて張り付いた着物は体を凍らせ、彼らの足を地に縫い付けようと躍起（やっき）になっていた。

　戦の火蓋が切られてから三日。

　美琳（メイリン）たちは極限まで追い詰められていた。

　敵方は、剛（ガン）から一万、鳳（フェン）から二万、総勢三万という圧倒的な兵力を駆り出していた。

　かたや修（シュウ）はたったの一万。それも下っ端や新人の兵……つまり素人に毛が生えた程度の者まで掻（か）き集めた上で、だ。

　そんな修兵が徹底して訓練された鳳国の頑強な兵に太刀打ち出来る訳もない。

　せいぜい一万余りで来ると見込んでいた貴族たちの予想は大きく裏切られたのであった。

　当然兵たちの疲労は溜まりに溜まった。

　それは司令官も例に漏れず、勇豪（ヨンハオ）は如何（いか）にしてこの苦境を乗り切るか頭を悩ませ、疲弊していた。

　今のところ美琳が敵を引きつけてくれているおかげで兵士らの戦意はギリギリのところで保たれていたが、それも今日の雨でかなり落ち込んでいる。

「棕熊（ヒグマ）殿！何か策はないのか！」

　子佑（ジヨウ）が同じ馬車に乗る勇豪に吠え立てる。

「ううむ……俺もまさか剛がここまで本気だとは思わんかったので……せいッ！」

　そう言いつつ勇豪は盾で飛んできた矢を弾く。

　子佑はわずかに体を竦ませたが、すぐさま次の矢を番（つが）え放つ。

「このままでは剛にいい様にしてやられてしまうではないか！せめて何か鼻を明かすことは出来ぬのか！」

　勇豪は子佑の無理難題に眉根を寄せた。

　もうすでに三分の一も削り取られた兵力で、起死回生の一手などそうそうない。

　だが、一つだけ。鼻（・）を（・）明（・）か（・）す（・）だ（・）け（・）なら勇豪の頭には浮かんでいた。

「……子佑殿。此度の戦の最終決定権は貴殿にある。それで違いないな？」

　勇豪は敵兵の喉元に戟（げき）を突き刺しながら問う。

「ああ！此度も王ではなく、この、私が！戦の全責任を持とう！」

　子佑は濁った眼差しで一瞬後ろの山に振り返る。また、勇豪も山を見やる。

「相分かった。では一時退却して詳しく話そう」

　子佑は頷くと「全軍！一時退却！」と下知を下した。

　兵らはその掛け声を合図に、自軍の天幕まで一直線に戻っていった。

「全く……しぶといものよ」

　永祥（ヨンシャン）は兵が撤退していく様を眺めながら呟く。と、不意に声を掛けられる。

「永祥殿。これでは時間が掛かり過ぎだ」

「分かっておるわ。儂かてここまで粘るとは思わなんだ」

　雪峰（シェンフォン）の乗る馬車が永祥の馬車に近くに来ていた。

　馬車から降りた雪峰は永祥にも降りるように目線を送る。

「なんだ？また小言か？」

「いや。鳳国から使者が参るようだ」

「む？」

　永祥が雪峰の指し示す方を見やると、鳳（フェン）国の馬車がこちらに向かってきているのが見えた。

「うーむ。まさかあちらからの小（・）言（・）を聞くことになるとはのぅ」

「当然であろう。耳の穴をかっぽじっておくが良い」

「はっはっは。まあなんとかなるであろう」

　永祥は大して気にする風でもなく、自軍の天幕へと戻って使者を迎えることにした。

「永祥殿の言うた通りであったのう」

「王のお気に召したでしょうか」

「うむ。お喜びであったぞ」

「そうでしたか。それは何よりですな」

　天幕の中では鳳国の使者が濡れた着物を絞りながら永祥に語り掛けていた。

　永祥もまた布で顔を拭いながら返事をした。が、雪峰は苦み走った顔で永祥に小さく注意をする。

（永祥殿ッ！使者殿にそのような態度は何事か！）

（ずぶ濡れのまま話す方が失礼であろう）

（使者殿の身支度が終わるまでは我慢せいと申しておるのだ！）

　二人が囁き合っていると、使者が雪峰の様子に気づく。

「そこの。なんと言ったか、しぇ……」

「！雪峰でございます」

「そうだそうだ。雪峰殿。我に気兼ねする必要はないぞ。それよりも風邪を引いてはいかんからの。疾（と）く乾かすが良い」

「ッ！そう申されますなら……」

　雪峰は気まずそうにして部下に布を持ってこさせる。

　永祥はにやにやと雪峰を見つつ、床の敷き布に腰を下ろした。

「では使者殿。武器の評判を詳しくお聞かせ願えますかな？」

「勿論だとも」

　鳳国の使者は永祥の対面にある敷き布に胡坐をかくと、濡れて乱れた髪を整える。

「概ね貴殿の売り込み通りであったぞ」

　使者は顎髭を撫でつけつつ、口角をにっと吊り上げる。

「柄は折れにくく刃も欠けぬ。多少荒く使えば壊れてしまうが、それも微々たる差よ。しかもこの雨で劣らぬ切れ味とは…………いやはや、恐れ入ったわ」

「そうでしょうとも。此度のは我が国の自信作でございますからな」

「うむ。嘘偽りのない出来であった。して……あれはどのように作ったのだ？」

「それを申しては我が国の強（・）み（・）が無くなってしまう故、御勘弁願いますかな？」

「はっはっは！それもそうよの」

　使者と永祥が二人で歓談している中、雪峰は愛想笑いを浮かべて相槌を打っていた。

（このような上辺だけの話などせんでも良いものを。何をそんなに悠長にしておるのか……）

　雪峰は苛立ちを抑え込むのでやっとの状態であったが、なんとか表に出さないようにして地べたに座していた。

「それで？永祥殿の目当てのものは捕まえられそうかの？」

　使者は声を潜め、永祥も使者に顔を近づける。

「これがなかなか厄介でしての。とうに見つけてはいるのだが、どうにも上手くいかんもので」

「ふむ」

　使者は考え込むように顎に手を当てる。

「こちらでもわずかに報告が来ておるが、ア（・）レ（・）は手強いであろうな」

「あやつには恐れるものなどないからのぅ。むしろこちらの兵の方が怯えて逃げ出す」

「あれは致し方あるまい。が、分かっておろう？」

「必ずや約束は果たしましょう」

　二人の口が揃って弧を描いたが、両者の目は鷹のように鋭く光っているのであった。

「さて。そろそろ戻るかの。そちらの王にもよろしく伝えておいてくだされ」

　と、使者が膝を立てると、すかさず雪峰が立ち上がる。

「お見送りします」

「ああ、良い良い」

　使者は雪峰を手で制すと、“よっこらせ”と言って腰を上げる。

「それよりも主らは明日の戦略でも詰めておくが良い。こちらもそんなに暇ではないのでな」

　使者は座ったままの永祥を睥睨（へいげい）する。

　されど永祥は飄々と返す。

「あちらもそろそろ限界でありましょう。降伏してくるのも間近に決まっておりまする」

「ふっそれもそうよの」

　そう言い残して使者は天幕を後にした。

　使者の姿がすっかり見えなくなった途端、雪峰（シェンフォン）が凄まじい剣幕で永祥（ヨンシャン）に振り返る。

「永祥殿！こちらも限界が近いのは分かっておろうな！」

　雪峰は真下に居る永祥に指を突きつける。が、永祥は煩わしそうに髪を解くだけだ。

「無論、承知の上だ」

「ッ！それもこれも、折角私が追い詰めたのに貴殿が手加減して取り逃しているせいぞ？」

「何故（なにゆえ）儂がそうしておるか分かっておるくせに」

「……だからこそ納得がいかんのだ」

「王には許可をもろうておるのだから何も問題は無かろう」

「どうせお主が上手く言い包めたのであろう」

「“信頼されている”と申せ」

「はっ！どうだか」

「此度は王の初陣であるからの。儂らのように戦慣れしている者が支えねばいかんだろう？」

　雪峰は目頭を揉む。彼の頬は少し痩（こ）けていた。

「それとこれは別だ。貴殿が戦直前まで兵らをしごいていたせいで奴らの体力は底を突きそうなのだ。それに、今の貴殿からは“我が国が強くあること”などというご立派な思想は垣間見えなんだ」

「何、もう少しでア（・）レ（・）も手に入ることだろう。さすれば修（シュウ）など叩きのめし、そのまま領土まで攻め入ればよかろう」

　そう言った永祥の顔には“執念”以外の何も浮かんでいなかった。

　雪峰は大きなため息を吐くと、天幕の出口に手を掛けた。

「もう良い。貴殿の好きにするが良い」

　ばさ、と派手な音を立てて雪峰は出ると、降り止まぬ雨に打たれる。

「…………かの棕熊（ヒグマ）殿がこのまま引き下がるとは到底思えんがの」

　小さく零れたその声は雨にかき消されるのであった。