page.19 駆け寄る

 ある日の昼下がりのこと。私は屋敷二階の自室でボディの手入れをしていた。


 純白のボディに、アルバートから借りた楽器用のクロスをあてる。家事人形ハウス・アンドロイドになっても、最新鋭の試作機であることを示すこの白の美しさは大切だ。それから、頭上に輝く黄金の羽飾りも磨く。最後に、悪党どもに威光を示すための真紅のマントだ。一度取り外して、丁寧にブラシをかける。


 このボディの手入れと、自室の掃除、そしてキトゥンの世話。騎士人形ナイト・アンドロイドとしての大義を失い、それから庭掃除の仕事を失った私には、この三つだけしかない。なればこそ、どんなことも丁寧に、全身全霊を持ってあたらねばならない。もっとも、キトゥンの世話だけは相変わらず思うようにいかないのだが。


「ママ、猫!」


 聞き覚えのある声だ。あまり嬉しい記憶ではないが……。窓の外を見下ろすと、屋敷の前の通りを親子が歩いていた。人形アンドロイドに対して過剰な危機感を持つ、あの親子だ。ハミルトン夫妻の名誉のために、家事人形ハウス・アンドロイドである私が庭へ出ることをやめた原因となった親子。


「しっ……! 早く行くわよ」

「でも、猫!」


 子供が転びそうになるほど強く腕を引く母親。私がいるこの屋敷が、それほどに恐ろしいか。


「……猫?」


 そこで私は、子供の言葉が気にかかる。猫と言ったか? 私はメイン・カメラを広角モードに切り替えて庭全体を確認する。――いた。木の上、細い枝の先……! 今にも落ちそうではないか! 木の傍には、庭仕事をするエヴェリン。


「エヴェリン、キトゥンを庭に出したのか……!」


 白い毛むくじゃらは、意にも介さないように枝の上で目を閉じている。


 しかし内蔵ソフトウェアの物理演算によれば、あと数秒で枝が折れ、キトゥンが落ちる。キトゥンの普段の俊敏さと柔軟さからして、問題ないか? いや、これまであれほどの高さから落ちたことはない。無事でいられる確信が得られない。こんなときに、オンライン・データベースにアクセスできないことが悔やまれる。人間以外の動物の生体データなど、都市部で戦う騎士人形ナイト・アンドロイドだった私のローカル・ドライブにはダウンロードされていなかった。


 私は真紅のマントを投げ捨てて、窓に足をかける。今すぐ木へ向けて跳躍すれば、キトゥンが落ちる前に捕まえることができる。だが……。


「ママ?」

「……あ、人形アンドロイド……!」


 目が、あってしまった。私を忌避する、子供の母親と。悪魔でも見るかのような目で、私を見ている。今にも窓から飛び出そうとする私の姿は、彼女にはさぞ恐ろしいものに映るだろう。


 どうする? 私がここで窓から飛び出せば、あの母親はますます人形アンドロイドへの非難の情を強めるだろう。そしてそれは、必ずやエヴェリンやアルバートへの負の感情として蓄積する。


 キトゥンは、放っておいても助かる可能性が十分にある。いや、助かる可能性の方が高いだろう。さんざん私をもてあそんでおいて、今回だけ怪我でもしたら赦さないぞ。


 どちらを選ぶか。目標の重要度とリスクを考慮すれば、答えは明白だ。キトゥンを世話するのは私の使命だが、それはより上位の存在であるエヴェリンとアルバートからの命令があったからだ。私は指揮系統に忠実な、人形アンドロイドであるのだから。


 キトゥンをのせた枝が、大きく歪む。


 踏み出すべきか、踏みとどまるべきか。

 行動記録ログ・データにある、ジークの最期が頭をよぎった。


「――!」


 その瞬間。私は窓枠を強く蹴っていた。背後で、跳躍の衝撃に負けた窓枠が割れる音が聞こえる。ジャイロ・センサーと加速度センサーの値から、自分のボディが空中に飛び出したことを知った。


 キトゥンが空中で身をよじっている。華麗なアクロバットだ。これは全く問題なく着地することができるな、この猫は。そう言えば、私の運動設計は猫の運動機能を参考にしているのではなかったか。まったく、馬鹿らしい。


 へいの向こう側では、母親が目をいている。何を言われるか、わかったものではないな。エヴェリンとアルバートにも迷惑をかけることになるかもしれない。


 私は、何をしているんだ。論理的な判断が不可能になっている可能性がある。これが終わったら、セルフ・エラー・チェックを走らせなければ。


 しかし、不思議と後悔はなかった。控え目に言って……そう、気分がいい。


「キトゥン」


 マニピュレータを広げて、私はキトゥン抱きとめる。自分で着地できる彼女には、不要だろうが。しかし、もう飛び出してしまったのだからやるだけやろう。できるだけ柔らかく、衝撃を抑えるように腕に包む。


 空中で一回転して、私は芝生の上に柔らかく着地した。まったくもって、猫のように。


「あら、お空から降ってきたの? びっくりしたわ」


「ああ、気分転換にな……」


 枝切り鋏を手に持ったエヴェリンが、のんきに言った。


 塀の向こうからは、ぐずる息子を怒鳴り散らしながら遠ざかる母親の声が聞こえる。


 木漏れ日が、メイン・カメラに差し込む。まぶしいな。


 腕の中を見ると、キトゥンが大人しく眠っていた。そのあまりにも図太い神経には感服する……。私の心配を、返せ。


「まぁ、仲良しになったのね」


 私はしばらくそのまま、庭でエヴェリンの作業を眺めていた。その間も、キトゥンは腕の中にいた。


 セルフ・エラー・チェックを走らせるのは、もう少し後にしても良いだろう。ずいぶんと怠惰な家事人形ハウス・アンドロイドに、私はなってしまったようだ。

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騎士人形とキトゥン ナイン @nine_09

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