page.19 駆け寄る
ある日の昼下がりのこと。私は屋敷二階の自室でボディの手入れをしていた。
純白のボディに、アルバートから借りた楽器用の
このボディの手入れと、自室の掃除、そしてキトゥンの世話。
「ママ、猫!」
聞き覚えのある声だ。あまり嬉しい記憶ではないが……。窓の外を見下ろすと、屋敷の前の通りを親子が歩いていた。
「しっ……! 早く行くわよ」
「でも、猫!」
子供が転びそうになるほど強く腕を引く母親。私がいるこの屋敷が、それほどに恐ろしいか。
「……猫?」
そこで私は、子供の言葉が気にかかる。猫と言ったか? 私はメイン・カメラを広角モードに切り替えて庭全体を確認する。――いた。木の上、細い枝の先……! 今にも落ちそうではないか! 木の傍には、庭仕事をするエヴェリン。
「エヴェリン、キトゥンを庭に出したのか……!」
白い毛むくじゃらは、意にも介さないように枝の上で目を閉じている。
しかし内蔵ソフトウェアの物理演算によれば、あと数秒で枝が折れ、キトゥンが落ちる。キトゥンの普段の俊敏さと柔軟さからして、問題ないか? いや、これまであれほどの高さから落ちたことはない。無事でいられる確信が得られない。こんなときに、オンライン・データベースにアクセスできないことが悔やまれる。人間以外の動物の生体データなど、都市部で戦う
私は真紅のマントを投げ捨てて、窓に足をかける。今すぐ木へ向けて跳躍すれば、キトゥンが落ちる前に捕まえることができる。だが……。
「ママ?」
「……あ、
目が、あってしまった。私を忌避する、子供の母親と。悪魔でも見るかのような目で、私を見ている。今にも窓から飛び出そうとする私の姿は、彼女にはさぞ恐ろしいものに映るだろう。
どうする? 私がここで窓から飛び出せば、あの母親はますます
キトゥンは、放っておいても助かる可能性が十分にある。いや、助かる可能性の方が高いだろう。さんざん私をもてあそんでおいて、今回だけ怪我でもしたら赦さないぞ。
どちらを選ぶか。目標の重要度とリスクを考慮すれば、答えは明白だ。キトゥンを世話するのは私の使命だが、それはより上位の存在であるエヴェリンとアルバートからの命令があったからだ。私は指揮系統に忠実な、
キトゥンをのせた枝が、大きく歪む。
踏み出すべきか、踏み
「――!」
その瞬間。私は窓枠を強く蹴っていた。背後で、跳躍の衝撃に負けた窓枠が割れる音が聞こえる。ジャイロ・センサーと加速度センサーの値から、自分のボディが空中に飛び出したことを知った。
キトゥンが空中で身を
私は、何をしているんだ。論理的な判断が不可能になっている可能性がある。これが終わったら、セルフ・エラー・チェックを走らせなければ。
しかし、不思議と後悔はなかった。控え目に言って……そう、気分がいい。
「キトゥン」
空中で一回転して、私は芝生の上に柔らかく着地した。まったくもって、猫のように。
「あら、お空から降ってきたの? びっくりしたわ」
「ああ、気分転換にな……」
枝切り鋏を手に持ったエヴェリンが、のんきに言った。
塀の向こうからは、ぐずる息子を怒鳴り散らしながら遠ざかる母親の声が聞こえる。
木漏れ日が、メイン・カメラに差し込む。まぶしいな。
腕の中を見ると、キトゥンが大人しく眠っていた。そのあまりにも図太い神経には感服する……。私の心配を、返せ。
「まぁ、仲良しになったのね」
私はしばらくそのまま、庭でエヴェリンの作業を眺めていた。その間も、キトゥンは腕の中にいた。
セルフ・エラー・チェックを走らせるのは、もう少し後にしても良いだろう。ずいぶんと怠惰な
騎士人形とキトゥン ナイン @nine_09
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