「憐れむ者」

憐れむ者


「ご馳走様でした」

青年は独り呟いて、食器の片付けを始める。両親はもう仕事に出かけた後だ。

晩御飯のために食材をチェックする。定期的に買い溜めしているカット野菜、安売りを冷凍しているミンチ、同じく冷凍の鶏肉。ミンチの方が期限ギリギリだし、そぼろを作るとしよう。

食材の買い足しはいらないな、と判断して着替えを始める。ヨレヨレの制服は、少し窮屈になってきたように思える。

「っと、やべ」

時計を見て彼は慌てて出かける用意をした。

電車が出るまで12分しかない、いつもより数分遅れてしまった。

そう思いながら、徒歩5分の駅まで歩いていき、間に合う電車の2本前の電車に乗って学校を目指す。



当然、朝着いたとしても部活の人たち以外はあまり人がいない。

予習を済ませたノートを開き、午前の授業の準備を進めていく。

そこに、

「なんだ、辛気臭いな」

猫背で眠たげな担任が換気のためにやってきた。

「おはようございます」

「ほんとに早いぞ、部活でもないのに。しかもその割に前回の小テストも答えられなかったけどな」

「そうですね。次は答えられるように頑張っています」

「答えられなかったらやってないのと同じだからな。過程を重視して入試に落ちました、なんて言い訳にもならん」

そういって窓を開け、日付を書き換えていく。

窓から入る空気は少しぬるかった。



「はい、小テスト。始め」

1限目、担任の授業。英語は小テストから始まり、筆の止まっている人やデタラメを書いている人は授業を受ける権利を失う。義務教育を受けられなくなるとは随分と高い授業料だ。

そして、彼自身はそこまで賢い訳では無い。偉人の名言の3行目までは覚えていたが、4行目に何を言っていたか飛んでしまう。すると運悪く先生が出てきて、

「覚えてこない生徒はいらない」

ぐしゃり。丸め込まれた努力の成果は、ゴミ箱に投げ捨てられ、ゴミ箱にすら入らず地面を転がった。

「2班!これで3週連続でこいつが失格したんだ、お前たちも廊下で反省しろ」

いつの時代だろう。何も意味の無い連帯責任制度により授業を受けられなくなった同級生は冷ややかに彼を睨む。

廊下に立たされ、1時間何もすることなく立ち呆け。

2班の人が「なんでやってこなかったんだ」と詰るが、それを見咎めた教師が

「お前らはまともに反省もできないのか?」

と顔を覗かせたせいでそこからは無言となった。

授業の声がくぐもって聞こえる。

不出来な自分に、他クラスからの笑い声が響いた。



昼休み。

朝食の余りで作った弁当をもさもさと胃袋に詰めていく。

腹さえ満ちれば贅沢な食事は必要ない。大盛りのご飯とウインナー、トマトを平らげ、7分で食事を終える。

やることがなくてまた教科書を開く。

こんな不出来な自分をお許しください。そう一瞬思ってから、彼は自分がもはやキリスト教徒では無いことを思い出した。



放課後。

真っ直ぐ帰ろうとする彼を担任が引き止める。

「待て。今回の文理選択の件についてだが、お前本気で文系に進もうと?」

「ええ。まぁ、文学部に行きたいので」

「……本気で言ってるのか?成績を見てからものを言え。なんだこの歴史の点は。英語の方がどうしようもないが、英語は文理問わずなのに対して歴史は文系だと必須だぞ?少しでも歴史の配点が低い理系に進むほうがお前のためになるぞ」

「そうですか。あまり気は乗らないんですけど」

「名前が書ければ受かるような大学にでも進むなら文系でも問題は無いからな。まぁ、好きに選べ」

文理志望の用紙を突き返される。

悲しさと諦めが心を支配していく。

文系の丸に斜線をつけ、理系に丸をつけて担任に渡す。

興味なさげに、担任は去っていった。



彼は、棄教者だった。

キリスト教徒でありながら、その教えを棄てた者。

棄てた理由は簡単で、信じられなくなったからだ。

近所の人は出来の悪いドラ息子としてぶつぶつと噂話をする。担任は、ただただ無関心だ。

神父はそれを神の試練だと言ったが、こんな苦境を試練というのはあまりにも悪趣味でしかない。

だからこそ、神に頼らず、自分の手で素晴らしい人間になろうと決めたのだ。……現実は、何も起こせてはいないが。

そして今日も、彼は決まった日課をこなす。課題、運動、日記。信徒であった時分と何も変わりはしない。



彼は壁に掛けてある十字架を見た。既に掃除が行き届かず、埃に塗れている。

なんだかキリスト像が可哀想に思えてきて、はたきを出してキリスト像の埃をはたいていく。

憐れまれた聖人の像は、ただ苦痛の顔を以て彼を見下ろしていた。

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ある者 とーらん @TOLLANG

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