#殺伐感情戦線 第3回

カバなか

売値

 うちはいわゆる旧家で、わたし自身にはよくわからないけれど、とくに事業をやっているわけでもないのにお金がたくさん家に入ってくる仕組みになっていた。「市内で名前を出せばどこでも通じる家」の「宗家の長女」という肩書が、わたしを不足なく表現していた。そしてわたしはじっさい、それ以上の存在ではなかった。あらゆる意味で。


 幼稚舎から高等部まである歴史の古いお嬢様学校には、3種類の女の子がいた。勉強が得意な子、運動が得意な子、そして家柄だけがいい子。わたしは家柄だけがいい子の筆頭だった。亜美に言わせれば、「これぞお嬢様って感じの美人」だそうだけど、それも大した意味があることではなかった。少なくともわたしにとっては。

 亜美は成績がいい方だった。運動もよくできた。そして幼稚舎から高等部までここに通っているわけだから、きっとお金持ちだったり家柄がよかったりするに違いない。詳しくは知らないけど。でも、亜美が人気者なのはそれだけが原因ではなかった。

 幼い頃から、亜美は新しい遊びを考えたりして、他人を巻き込むのが上手だった。みんな亜美を遊び仲間に入れたがったし、そこで亜美はいつもリーダーになっていた。


「晴子ちゃん、アメ食べたい?」


 小学校低学年のころ、あるとき亜美が教室の隅っこのカーテンの陰でわたしに声をかけてきた。

 亜美の後ろにちょこちょこ付いていくような子だったわたしは、一も二もなく頷いた。もちろん甘いものが好きだったわたしは、アメが食べたかった。

 それに、学校にお菓子を持ってくるなんて、バレたらきっと先生に叱られるに違いない。当時はまだ自分の家の影響力を知らなかったわたしは、きっと先生が今までにない怒り方をするだろうと思った。もしかしたら、頭をぶたれるかもしれない。胸がドキドキしていた。


「じゃあ、あたしがアメを食べてるから、口で取ってね」


 亜美は袋を開けて手にとったアメ玉を、ぽいっと口に放り込んだ。わたしは何て独創的で愉快なゲームなんだろうと思って、亜美の口に舌を這わせた。


 結果として、そのゲームがバレても先生には叱られなかったけど、亜美のご両親がわたしの家にまで謝罪に来る事態になった。誰もわたしを怒りはしなかった。でも、わたしと亜美は、このゲームが親たちを巻き込む事態になるほど「素敵な」ことなんだと学んだ。


 それから、亜美はそのゲームを自分ですることはなくなった。代わりに、しばしば誰かお友達を連れてきて、「晴子ちゃん、この子、ご褒美がほしいんだって」と言った。

 連れてこられた子は――大体わたしの知らない亜美の友達だったけど――目を輝かせながらもじもじしていて、わたしがゲームでアメをあげると、うっとりするのが常だった。それは悪い気分ではなかった。何でも自分でできる亜美がわたしにお願いすることなんて、それくらいだったから。


「いい、晴子ちゃん」


 と、亜美はわたしに諭すように言った。


「あれはね、同じ子には1回しかやっちゃだめなんだからね」

「なんで?」

「なんででも。晴子ちゃんは、あたしの言うことを聞いていればいいの」

 

 ともあれ、亜美は、わたしを高く売る方法をよくわかっていた。家柄だけがいい子が手にできるものなんて、「憧れ」だけだ。憧れてくれる子だけに、亜美はわたしを売った。憧れてくれない子にとって、わたしなんてなんの価値もないから。

 中等部に上がっても高等部になっても、亜美はそのゲームをしたい相手を連れてきた。わたしが挨拶くらいしかしたことのない外部生の後輩たちは、いつでもキラキラとした目をわたしに向けていた。

 だから、わたしはアメを持ち歩いていた。いつでもゲームができるように。


「亜美ちゃんだって、みんなにご褒美をあげればいいのに」

「いーや、晴子ちゃんがやるから意味があるんだって」


 少なくとも、その点において亜美はわたしを認めていたことになる。


 高校三年になると、ほぼ毎週のように後輩の相手をしていた。生徒会長になって忙しくなった亜美の他には交渉のある友達がいないわたしに、放課後そっと後輩が「亜美先輩が……」と話しかけてくる。

 わたしは黙ってその子の手を取って使われていない教室へ連れて行くのだった。まんがとか映画で見るような、女の子が憧れの先輩にされたら喜ぶようなことも、いつもサービスしてあげていた。それがわたしの売値だった。


 彼女たちはみな、その後わたしに親しむわけでもなく、わたしと亜美を遠巻きにしていた。話しかけてくることもしなかった。アメをあげたあと、感激して「ありがとうございました」と言ってからは。

 わたしは彼女たちの名前すら知らなかった。


 沙耶は違った。


 わたしは沙耶の顔を知っていた。

 なんて美しい横顔だろうと思ったことがあった。わたしは家柄以外は凡庸な女子高生だから、沙耶のような背が高くてキリッとした顔で、スポーツ万能の、それこそ女子校の王子様みたいな子が好きだ。そして、得てしてそういう子はわたしみたいな人間には憧れたりしない。

 彼女が長い黒髪を翻して弓道部の活動に向かうのを遠巻きにして、小さく黄色い声を上げる群衆の中に、わたしはいたのだった。


 とにかく、沙耶は違ったのだ。わたしが名前まで知っている子が、「晴子先輩」と声をかけてきたのは初めてだった。

 手を取って廊下を歩いているだけで、心臓が爆発しそうなほどにドキドキしていた。誰かに見られるんじゃないかと気が気でなかった。

 教室に沙耶を連れ込んだとき、わたしは動揺してポシェットから出したアメの包みを床に落としてしまった。わたしより少しだけ背の高い沙耶は、アメを拾ってわたしの手に置いた。そして顔を赤らめて言った。


「私、初めて亜美先輩に声をかけてもらったんです。実は、亜美先輩と晴子先輩のこと、ずっと遠くから見てて……」


 沙耶は上気した様子でしゃべり続ける。


「ずっと憧れてたんです、生徒会長の亜美先輩に。いいものを沙耶にあげるって言われたけど、よくわからなくて、ちゃんとお返事もできなかったんだけど、晴子先輩に言えば何のことかわかるって……」


 わたしは事ここに至って、初めて亜美を憎んでいたのかもしれない。別に遅すぎたとも思わないけど。

 アメは袋ごとゴミ箱に捨てた。対価をもらうことも払うこともなく、わたしはただ沙耶の唇を簒奪した。当然アメの味はしなくて、想像していたとおりの凡庸で淡白な味だけがした。

 そのことが、わたしを少しだけ慰めてくれた。



(了)

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