後編
夕暮れを迎える図書室に夏見はいた。
校内は学校祭の最中で、本日のスケジュールは、自由参加のイベントを残すのみとなった。プール場で練習もできないので、日が暮れるまでの避暑にここへ来たのだった。
夏見は今まで、飛び込みしかしてこなかった。だから友達の作り方も余暇の使い方も、不得手だ。
二日前に渋々受けた取材でも、正直何をどう話していいのかわからなかった。担当した刈谷健太郎のことは、少しだけ知っていた。彼は新聞部の他に写真部も兼部しており、前に写真部が主催した校内の展示会でたまたま目に留まった写真を撮った人物。それが彼だった。夏見は被写体をこんなに美しく撮る方法を知らないので、彼の数点の写真全てに魅了されてしまった。
彼は会ってみると、どこにでもいそうな普通の男子で、ぱっとしない態度は父が一番良しとしないところだったので、自然と鼻につく。彼が、本当は記事なんか書きたくないことや、夏見にこれっぽっちも興味がないことは見てとれた。
そんな彼が、夏見を被写体として写真を撮るという。撮影者は抜きにしても写真には興味がある。そして、飛び込みという競技を初めて目にした彼は言ったのだ。
「すごくキレイだった。足先がさ、尾ヒレだったら人魚って君みたいな感じかな」
被写体相手だと、歯に衣着せずよく言うものだ。高揚し瞳を輝かせる健太郎に向かって、
「は、恥ずかしいこと言わないで!」
そう言い放ち挨拶もせずに練習に戻った。
図書室の机に突っ伏しながら、さすがにあの態度はなかったかな、と反省した。
(でもいいや、私にはプールがある……)
どうせもう話すこともないのだしもう忘れよう、そう思った。
少しだけ開いた窓の隙間から心地いい夏風が入ってくる。からっとした今日の風は遠くの会場から学校祭を楽しむ生徒達の声を運んでくる。本日最後のイベントは確か、プールの高台から学生達が何でも良いから主張を叫ぶという内容だった。聞いていると、特定の先生へもの申す人や、生徒同士でケンカしたり、中には好きな子へ告白する人もいた。
大人数の歓声は、遠くで聞けばわりかし心地良い。内容はくだらないものばかりだけれど、子守唄代わりにして夏見は目を閉じた。
すると、次に聞いた名が呼ばれた。
「お次は、急遽、人数合わせで参加が決まりました刈谷健太郎君! 頼むぞ」
(そういえば、刈谷君ってお調子者グループにいるよな……本人はそんな感じじゃないけど)
沸き上がる歓声に、おそらく健太郎が高台に立っていることが予想できる。
(どんな気分? 十メートルって高いんだよ)
「えーーと、今日は告白します! 俺はついこないだ、ある子に出会いました。その子に言われたので、この飛び込み台に立ってみました。恐いっす!」
「だーれ? だーれ?」
生徒達の歓声がどんどん大きくなる。
「遠矢夏見さん! ここから飛び込んだ君は本当に美しくて、それからずっと君が気になります! このドキドキをどうにかしてくれえええ」
(えっ……)
はやし立てる声が続いたが、当の夏見は会場にはいない。歓声は一瞬治まったが、途端に今後は叫び声や怒号のような声が響き、会場は騒然としている様子だった。それに続き、
――ザッパーーン!!!
水しぶきがあがる音だ。まさか……と夏見は思い、顔を上げた。心臓が波打つ。
「刈谷くんが、飛び込みましたあ! まさかの展開です。あ、やべ、先生が来ます! 皆さん、イベントは一時中止します。あ……」
「えー、生徒諸君、あれだけ飛び込み台から飛び込むなと口を酸っぱくして言っておいたのに、それをやってしまったバカが出ました。この大バカ者は先生達でプールから引き揚げ、運良くケガもなく今は反省部屋へ向かわせています。明日の朝のホームルームで学校祭についての話を詳しくするので、今日は各々速やかに帰宅するように! 以上」
先生が、司会者からマイクを取り上げたらしい。
飛び込み台からの落下は、速度では約二秒、時速では五十キロメートル。
ただ美しく、水になる――夏見のいつも心は同じだ。
素人の健太郎にケガがなかったことは幸いだった。
どうして彼があんな暴挙に及んだのか、夏見には理解できなかった。そして、飛び込む寸前の言葉の意味も――。
「バカじゃないの……」
夏見は、図書委員に声を掛けられるまで、人魚の夢を見ていた。おとぎ話の人魚が、王子のいる城の塔から飛び降り、しぶき一つあげずに海へ溶けていく光景は
美しく入水したい。早く練習がしたい。人魚にはなれないけれど、世界一の飛び込み選手になりたい。
帰り際、フェンス越しに見るプールサイドは、日中の熱を蓄えたまま、にこやかに微笑んでいるようだった。水面をのぞくように飛び込み台がそびえ立つ。もの言わぬそれは、いつからか夏見の知らない景色に変わっていた。
君のスプラッシュ 小鳥 薊 @k_azami
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