降りしきる雨の日に あるいはまた干からびた冬の日に

高瀬大

第一章 12月8日 再会

第一章


(数行空白)


 風雨で変色し黒い苔の生えた校門は、赤錆びた鉄の扉を重く支えている。駅に行くには左手に曲がり、しばらく歩かなければならない。右手に行くと、人家から離れる一方なので、ほとんどの生徒は左に曲がり、集団を作って歩いていく。前日の夜に降った雨が夕暮れの色を反射し、傾きかけた太陽が夕焼けの匂いを運んできていた。


 黒い制服の人の群れを、最初の大波として吐き出したのか、校門の付近にいる生徒は少ない。友人と話しながら時間を気にせず駅に向かう仲のよさそうな男子たち、自転車を引く女子とその前かごにかばんを載せて横を歩く男女、携帯を見ながら何か文字を打ちこんでいる女子、幾人かの生徒をぼくは追い抜いていく。いつもの道をいつものように俯き加減に歩く自分はすぐには気づかなかったが、周りの生徒たちは校門のすぐ脇に立つ誰かに気をとられ、通り過ぎた後も何度も振り返っているようだった。そこにいる誰かが皆の視線を集めているのが遠目に見える。それが男であろうと女であろうと自分には関わり合いはない。そうしてそのまま数歩進んだとき、視線の中心にいるその人物の横顔がぼくの目に入る。ほんの一瞬だけ息が止まり、立ち止まりそうな両足に力を入れなければならなった。黒髪を後ろでくくり、縞柄のマフラーをその束ねた髪の上から首に巻きつけている。黒いコートを着ているため、制服の種類はわからないが、この学校の生徒でないのは誰の目にも明らかだ。細い足には厚手の黒いタイツを履き、コートと色を合わせた薄い灰色の手袋をしている。背は高いくらいなのに、ひどく寒そうで、はかなげだ。手にはカバーを外した文庫本を持ち、開いた頁に視線を落としている。うなじからあごに続く線は大昔の肖像画のように整っており、伏せた睫毛が白い肌に更に際立つ。

 その横顔からぼくは懐かしさではなく、安堵と戸惑いを感じる。久しぶりに見た彼女は、ぼくの記憶をかき混ぜて、揺さぶった。遠い関係の友人であり、それよりも近い距離の他人でもある。

 彼女が誰と待ち合わせをしているのかはわからない。このまま挨拶をせずに通り過ぎるのがぼくにできる最善の態度だろうと一瞬間で決める。無表情をうまく装えているだろうか、早足になっていないか。街中で無関係の人間がすれ違うのと同じだ。何も意識してはいけない。ただ、右足と左足を交互にゆっくりと踏み出せばいい。このまま通り過ぎ、少しだけ振り返って彼女の後ろ姿でも見られるなら、それだけで充分だ。再び彼女に出会う機会はないだろうから、それぐらいなら許されてもいい。一歩、二歩と進み、彼女の横を通り過ぎる。前だけを見つめてているぼくの視界の端に、細い肩にかかる艶のある黒い髪が映る。十二月の肌を刺す空気を伝わって、彼女の匂いが流れてくる気がした。ゆっくり、何も考えず、足を前に進めていく。あと十歩進んで振り返れば、もう一度横顔が見られる。これが最後の機会になるのだろうから、目に焼きつけておきたい。彼女の顔も姿形もぼくの記憶に留まり、いつか溶けて消えていく。この感情も同じだ。


 その時、ぼくの鞄は何かに引っかかった。体は前に進もうとしているのに、軽い力で後ろに引っ張られている。道の端の彼女を避けようとして、中央を歩いていたのに、いったい何に引っかかったのだろうと不思議に思いながら振り返り、そして、呼吸をするのを数瞬止めた。ぼくの記憶よりも少し背が伸び、透き通るような眼差しは変わらないままの彼女が、片手を差し出せば触れられそうな距離を開けてこちらを軽く見上げている。ぼくの鞄を軽く掴みながら、どうして気づかないの、とでも言いたげな表情をその顔に浮かべている。ぼくは口を閉じたまま、その表情に対しても無表情を貫いた。


「こんにちは、いや、お久しぶりかな。」

 ぼくは軽くうなずく。

「連絡してから来ようと思ったのだけれど……。」

 携帯は番号を変えて、メールアドレスも昔とは違う。

「何年ぶりかな、君に会うのは。」

 1年と8ヶ月。

「この学校に誰も知り合いがいなくて、連絡がとれなかったんだ。」

 そうなるようにこの学校を選んだのだから、当然だ。

「……元気だった?」

 君に話しかけられる前までは。


 ぼくを見つめる大きな両目は、昔よりもさらに黒味を増したように思える。一年以上の時間のずれが、記憶と現実の間に境目を作っている。冬の冷気によってさらに白さを増した頬の色も、影が落ちそうなくらい長い睫毛も、あのころと同じようにぼくから言葉を奪ってしまう。彼女は何かを言いたくて、でもどう言えば良いのか迷うそぶりをみせている。少し横を向きながら、視線を遠くにさまよわせている、それが彼女の考え込む時の癖だ。その横顔は何年も前の記憶を掘り起こし、少し寂しくなる。いつもこの人の前では、何を話せばいいのかわからなくなり、どういう態度をとればいいのか判断できなくなっていた。友人として接してくれている彼女を失望させはしないか不安で、二人でいるといつも居心地の悪さを感じてしまう。別れた瞬間に安堵と寂しさを感じるような自分が嫌でたまらなかった。上手にさよならを言える友人になりたかったのに、それすらできなかったのだ。

 笠森、口の中で久しぶりに彼女の名をつぶやく。笠森は言葉を決めたのか、こちらを振り向き、真正面から見つめてくる。ぼくも笠森の目を正面から見つめ返せるようになった。あのころとは違う。自分に釣り合わないものをあきらめられるぐらいには成長したつもりだ。


「相談というほどのものではないのだけれど……。」

 笠森は言いにくそうに言葉を途切れさせてしまう。こんな寒空の下で立ち話を続けられないし、あまりにも人目を引きすぎている。駅まで行くのなら、少し遠回りをして歩くのはどうだろう。笠森はほっとしたようにうなずく。電車の時間までまだだいぶあるし、何なら一本遅らせたって構わない。話は何もないが、笠森の横を歩くのは随分と気持ちがいい。すれ違う人々が笠森の顔に視線を差し向けるのを横で見ていると、どこにでもいる自分が特別な存在になれたような気がしてくる。誰も自分を見ていないし、それが錯覚だとわかっている。それでも、笠森の眩しさはぼくを照らす灯りになる。その時だけ、平凡な人生が少しは違ったものになるのではないかと夢を見られる。


 学校から少し遠回りをして、街中を抜けていく道筋を選んだ。江戸時代からの町並みを残している一角は、地方の小都市の重要な観光資源であり、ぼくが今の学校を選んだ理由の一つだ。入学から一年以上が過ぎ、この町のどんな小さな道も、細い通りも、歩いていない所はない。街中を夕闇が覆ってしまっているので、景色は暗く、街灯の光と建物の窓から差す光しか見えないのがもどかしい。それでも、頭の中で笠森に見せたい景色を選ぶ。


 笠森は物珍しそうに周りを眺めながら、言葉少なに近況を語る。小江戸と呼ばれたこの町の中心を流れる川を横切り、昔ながらの商店の立ち並ぶ街並みを二人で並んで歩く。笠森の近況は聞くまでもなかった。文芸部に所属している笠森は書いて、読んで、書く生活を今も続けているという。ぼくの想像の中の彼女と現実の彼女がまったく同じ位置に重なったので、その感情を表情に出さないように苦労した。

 一通り自分の話を終えると、今度はぼくの近況を尋ねてくる。しかし、彼女の質問にはうまく答えられない。彼女が以前と変らないのと同じように、二年弱の時間はぼくに何の変化をもたらさなかった。ぼくは今でも独りだった。

 それに気付いているのか、深い質問を避けているように思えた。写真は続けているのか、それを確認するように問いかけてくる。あいまいに言葉を濁すが、その質問には肯定の意味でうなずきを返す。もちろん、今も続けている。この鞄の中にはカメラがあるし、この町の写真を何千枚と撮ってきている。部室棟に空き部屋があったので、同好会を立ち上げ、一人で写真を続けている現状は黙っていた。誰にも見せない作品をずっと作り続けていると告げれば、また笠森を気の毒がらせるだけだろう。孤立しているのではと心配してくれていたし、人との係わり合いを避ける様子を見て、いつも悲しげな顔をしていた。


 目的地を決めていたのではないから、このまま駅に戻っても良かったが、少し遠回りして景色の良い場所に行きたくなった。笠森には断りを入れ、そのまま道をまっすぐに進む。この町を一望できる場所の一つ、女子校裏の階段を目指した。彼女は長い距離を歩くのを苦にしないほうだし、もっと話す時間を作るほうがよい。ここまで来ても、笠森が訪れた目的がわからないでいた。

 女子校から駅の方向に歩いていく生徒たちは、見慣れない制服を着た笠森に目を奪われている。すれ違う生徒たちは振り返りながら見つめていく。それはそうだ、と内心一人ごちる。彼女の周囲はいつも空白だ。隣りにいる人間を誰も憶えていない。一年以上離れていたのに、ぼくと笠森の間は変わっていない。居心地の悪さをごまかすため、ぼくは自分の思考にすぐ閉じこもってしまう。いくら記憶を掘り返してもその関係性は変わらない。

 四時を過ぎた冬空は、夜の気配を漂わせる。まだ、十二月の初めだというのに、マフラーと手袋をしていても、体は少しずつ冷えていく。明るく輝く自販機の電飾の前で立ち止まり、カフェオレを2本続けて買う。一本を制服のポケットに入れ、もう一本を笠森に渡す。お礼も言わず、平然と受け取る様子を見て、また過去を思い出す。こういう時に自分の分を払おうとしたり、礼を言おうとするのは礼儀にかなっているのかもしれないが、ぼくはそれが好きになれない。自分が飲みたいから買うのだし、一緒に飲んで欲しいからおごるのだ、と一度言ってから、笠森は平然と何も言わずに受け取るようになった。逆の立場になった時も同じだ。笠森がそういう二人の間の取り決めを忘れていないのは嬉しかった。

 階段を登り、この街を見晴らす場所に二人で立つ。見下ろすと、ちょうど駅に入っていく電車が光の筋を引いていく。日の入りの時間まで残り10分。北東の方角を見下ろすこの場所からは夕日は見えず、月も星も視界にはない。かすかに遠い地平線には太平洋岸のコンビナートの光がちらつき、県境を流れる川が暗い線となり、目の前の地面を上下に分断している。この風景はぼくのもの、自分だけが知っている秘密の場所だ。


 ぼくは鞄からカメラを取り出して、中身の薄くなった鞄の方を地面に置く。笠森にその上に座るように促し、自分は横の壁に寄りかかる。何も言わずに笠森は座り、ぼくはポケットから取り出したカフェオレの缶を開ける。手袋越しにもまだ暖かいのがわかるが、この気温ではすぐに冷えてしまうだろう。何口か飲み、体に温かさが戻るのを待って、笠森を眺める。自分と同じように温かさをかみ締めながら、笠森は遠く、さらに遠くを見ているようだった。昔はその横顔から目をそらしがちだったが、今は見つめ続けられる。ここまで歩いてくるのに15分、充分に考える時間はあったはずだ。そのまま言葉を待つ。子供のころによく行っていた駅のそばのデパートの、今はもう消えたままのネオン看板の文字を見ながら、変わらないものがあるのだろうかと、柄にもなく考えてしまう。目の前にいる笠森の姿からはどうしても違和感がぬぐいきれないが、一年半前の笠森と今の笠森の持つ温かみは変わらない。校門前で振り向いた瞬間、ぼくは自分の想像力がまったく見当違いのものであったと思い知らされていた。


 取り止めのない思考にとらわれていると、彼女はゆっくりと話しはじめた。

「頼みが二つあるんだ。」

 一つでも多すぎるのに二つとは、その言葉がぼくを身構えさせる。

「一つは君の興味を引くと思う。もう一つは、そうだな……、人助け、かな。」

 曖昧に続く彼女の声は柔らかく耳に響く。

「私のいる文芸部では、二年生の最後に個人文集を作っているんだ。」

 何重にも積まれた紙を折り重ねる見知らぬ女子が、その紙の束を一枚ずつ綴じていく姿を想像してしまう。

「書いたものをまとめて、コピーして、ホッチキス止め、でもいいのだけれど、完成度の高いものを作りたいと思っている。ただ、二段組の頁に文字が並ぶだけではつまらないでしょう。だから、私の文章に君の写真を並べて、読んでも眺めても満足できるものにしたい。美術部の子に装丁とデザインをお願いしているから、私とその子と君で、一冊の本を作る。どう、魅力的な提案になっているかな。」

 確かに、性能のいいプリンターさえあれば、個人で写真集が作れる時代だ。製本キットを使えば、より本の形態に近づけられる。とても気を惹かれる提案ではある。最近、自分の写真に行き詰まりを感じていたところだ。テーマを持って撮影に取り組むのは悪くない。でも、なぜぼくに話を持ちかける必要があるのだろう。

「その美術部の子はね、自分で絵も描くのだけど、グラフィックデザインも大好きなんだ。私の思いつきを話したら、とても興味を持ってくれて。最初はその子が挿絵を描こうとしていたのだけど、話していくうちに写真を使う案でまとまってね。そこで、君の顔が思い浮かんだ。」

 だからどうして、と聞き返したくてたまらない。裏に何か隠された意図があるのではないか、口には出せない疑いが捨てきれなかった。携帯のカメラでも写真集が作れる今、誰だって写真は撮れる。一年以上会ってなかったぼくに頼むような話ではない。

「一緒に活動するのだとしたら、真面目な人でないと嫌、とその子は言っている。私も同じ意見だ。真剣に写真に取り組んでいる人。私の学校にも写真部はあるけれど、あなたほど真面目に、懸命に取り組んでいる人を他に知らない。」

 笠森がそれまで見せていた横顔をこちらに向けた。座っている笠森の両目を上から見つめて、瞬きの回数を数える。自分の能力も限界もどちらもわきまえていればこそ、彼女の問いかけるような視線に答える言葉はなかった。

「私は何度もあなたの写真を見ているもの。良いに決まっている。」

 それでも彼女の根拠のない信頼がぼくを不安にさせる。

「それとも、こう誘えばいいかな。私の書く文章にあなたの名が刻まれて残る。いつまでもね。」

 では決まりだ。断る理由はない。大きく、大きく息を吐き出す。空と街の境界に視線を向けて考えているようなふりを続けているが、思考は止まっていた。県境の橋の上には車の列が光の帯を引いている。笠森が微笑んだような気配がした。

 作品というのはどういう形式なのだろう。それを最初に確認しておくべきだったのに、今更かもしれないがそれを知りたくなった。

「大筋は決めている。再会と別れのある恋愛小説。」


 もう日が暮れ始め、気温は更に下がりつつある。話も終わり、立ち上がった笠森はぼくの手にあるカメラを見つめた。では、これが最初の一枚だ。ISO感度をあげ、絞りを開け、手ブレ限界までシャッター速度を落とす。それでも光量は充分とはいえない。緩やかに螺旋を描いて下っていく階段の背景にはぼくの通う学校のある地方都市が闇に沈みかけていた。街の光はまばらに、しかし、身を寄せ合うように固まっている。光の群れはまたたき、一秒ごとに強さを増すようだ。その上に浮かび上がる一つの影。ぼくは笠森の影をずっと追いかけていたんだな、と今さら気づいた。

 僕たちの乗る列車の発車時刻が近づきつつあった。すっかり日が落ち、街灯の少ない階段は足元を見ながら進まないといけない。手すりをつかんで下っていくぼくの肩には笠森の手が軽く添えられていた。歩幅に合わない階段の一段一段がさらに暗闇の中で足元をおぼつかなくさせる。最後の一段を降りるまで、その手の上に自分の手を重ねて歩き続けた。


 笠森と連絡先を交換し、駅までの道を引き返す。目的を果たした笠森は能弁になり、先ほど話に出た美術部の友人について話し始めた。社交性もなく、愛想もない自分がその人とうまく作業を進められるのだろうか。ぼくの不安を読み取ったのか、笠森は微笑みながら大丈夫と自信ありげに答える。彼女はうれしそうにこちらを見つめた。その子はさっぱりした性格だし、かわいい子だよ、と微笑む。


 駅に着くと、笠森の乗る東京方面行きの電車の到着が間もなくだと放送が流れる。ぼくの乗る電車はその15分後だから、自然と笠森を見送る形になるだろう。近くの踏切から甲高い音が鳴り続け、遠くから電車の走行音が響いてくる。沈黙は苦ではないが、笠森の横にいると気詰まりは増すばかりだ。ただ黙って時が過ぎるのを待つよりは少しはましだろうと、会話の糸口を探す。今も文章を書いていたのか、口に出そうな言葉を押しとどめた。しかし、その躊躇を彼女に簡単に見抜かれてしまう。夕闇の線路をこちらに近づいてくる電車は速度を落とし駅に滑り込んでくる。その車両の先頭を見つめながら、笠森はあの考えこむ時の表情を見せながら答える。

「そう、高校に入ってからもずっとね。」

 部活動で、それとも趣味で。

「どちらも。私には書くしかないから。」

 小説、批評、それともエッセイみたいなものか。

「事実を基にした嘘、というところ。」

 虚構か。

 車両はゆっくりと動きを止めた。

「『鉄橋を走る列車の窓から眺めた風景のちらつきは懐かしい。まるで古い映画の、フィルムのフリッカーだ。』、野田耽二、海霧(ガス)。現実につながる世界を書かないとね。」

 引用癖は変わっていないな。


 二両目の車両の中央の扉が開き、高校生や勤め人たちを吐き出す。笠森は大股に列車に乗り移ると、こちらに振り向いた。

「あれから……君は自分が満足できる作品を撮れたの。」

 小さく首を振る。その答えに納得したのか、笠森はうなずく。扉が閉まるというアナウンスが流れたので、一歩だけ後ろに下がる。私も、と小さく彼女はつぶやく。笠森は微笑みながら、これだけはぼくに聞かせなければと思ったのだろう、体を少しこちらに傾け、扉から顔を出さないように注意しながら、ぼくを見つめて確かにこう言った。


――まだ、書き出しを探しているんだ。


 扉は音を立てて閉まり、半歩下がった彼女は胸の辺りで片手をひらひらと動かしていたが、すぐに速度を増していく窓の列に埋もれていく。彼女と共にいるとひどく緊張してしまう癖は変わらず、開放感から大きく息を吐く。この気持ちも久しく味わっていなかったな、と思いながら、0番線ホームへと歩いていく。

 二年前を不意に思い出した。書き出しだ。文章にはそれにふさわしい書き出しと終わりがあるべきだ、と笠森は常々言っていた。そして自分の今の力では、そのどちらも見つけられていないんだ、とも。すでにホームで出発を待ち受けている列車を無視し、ホームの端まで歩いて行き、振り返る。笠森の乗る上り列車はすでに見えなくなっていた。彼女の住む市まではここから25km、ぼくの住む市までも同じくらい離れている。二年前ならこの距離はもっと近かったのに、と思い、いやそうではないなとひとりごちる。道ですれ違う知らない人同士のように、ぼくと笠森の時間は偶然少し重なっただけだ。この再会に大した意味はないし、何かに期待すれば裏切られる。自分はいつもそうだ。後悔するのがいつも人より遅かった。

 0番線に発車の放送が流れ、遠くから踏切の信号音が響いてくる。空気はますます冷え、空には星がまたたく。肺一杯に空気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。笠森の依頼は承知した。自分に不都合はない。なら、何を迷っているのか。

 車両の扉がすべて開いた。昔から彼女はいつも前に、前に進もうとしていた。そうしなければ、どこにも辿り着けないと考えているかのように。彼女の行く先を見届けてみたい、それがあの頃のぼくの小さな望みであったはずだ。なら、今がその時ではないのか。答えは単純だ。ホームはすでに暗闇に飲みこまれている。扉が開いているのなら、そこに光が見えるのなら、飛び込むしかない。そう思い、列車に向かい歩き始めた。

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降りしきる雨の日に あるいはまた干からびた冬の日に 高瀬大 @Takase_Dai

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