03:第三皇女の侍女、リタ

 皇帝アルフレドから第三皇女アリステラの護衛に関する命を受け、同僚であり第二皇女でもあるアリアンロッドからいくつかの忠告を受けたその翌日。

 ゼファーは帝都ヴェルマーズの城下町、商業区にある自室で物思いに耽っていた。


 高給取りの《魔導六煌》が住まう部屋にしては、ずいぶんと古くボロ臭い部屋だった。床の木材は長い年月を経てくすみ、少しひびが入っているようにすら見える。壁の漆喰もあちらこちらに亀裂が走り、遠からず崩壊しそうだ。

 そんな古ぼけた部屋の小さい窓下に、年季の入ったベッドが置いてある。薄い布団が載せられたそのベッドに腰かけて、ゼファーは思索を巡らせていた。


「魔術学院の入学試験まではあとひと月……それまで何をしたものか」


 オルデラ大陸には四季があり、貴族学校や士官学校、魔術学院など大抵の教育機関は新入生の入学時期を春に定めていた。


「すでに受験の手続きは済んだし……」


 マギウス魔術学院は、大陸各地に置かれている魔法伝書マジックポストを介して入学希望を届け出ることで、入学試験の受験票が同じく魔法伝書を介して即日届けられる仕組みになっている。ゼファーも当然その手続きを踏み、受験票をその手にしていた。


「傲慢かもしれないが……受験対策など俺には不要だろうしな」


 マギウス魔術学院の入学試験はいたってシンプル。ギャラリーと試験官――魔術学院の教員の前で自分の得意な魔術を行使する、その一点だ。試験官の琴線に触れる何かを見せることができたなら合格、晴れて魔術学院の生徒になれるわけである。

 帝国最強の魔術師でもあるゼファーが合格しない道理はない。何なら魔術学院は礼を尽くしてゼファーを客員教授として迎える姿勢を見せても良いくらいだ。無論、そんなことはおくびにも出さないが。


「ただ、アリステラ殿下はどうだろう……」


 アリアンロッド曰く、第三皇女アリステラは能無しだが、裏口入学の手続きは済ましているとのこと。魔術を行使できずとも試験官は合格をコールするだろうが、ギャラリー……他の受験生たちがそれで納得するのだろうか。

 皇帝アルフレドも、アリアンロッドも、アリステラが魔術学院に入学する体で話していたが、本当にこの状況で上手くいくのか?


 入学試験において、ヴェルメア第三皇女が魔術を行使できず、それでも試験に合格して他の受験生からの嘲笑を浴びる様を幻視して、ゼファーは背筋を震わせた。


「……入学試験を乗り切る策、何かあるのか?」


 アリステラがそんな屈辱を受けたと知れたら……アリアンロッドの火炎魔術をその身で受けることになりかねない。

 不安の芽は早めに摘んでおくに限る。対策の有無についてアリアンロッドに尋ねようと思い立ち、ゼファーはベッドから立ち上がって自室の窓を開け放った。ゼファーの部屋はヴェルマーズ商業区に位置しているため、朝の賑やかな喧噪がその耳に届く。


「風よ」


 後で朝食を食べに出よう、と考えながら、ゼファーは軽く右手に意識を集中させた。すると、開け放たれた窓から緩やかに風が吹き始め、ゼファーの右手の掌へ吸い込まれるように収束していく。


「こんなところでいいか」


 掌の上で行き場を探してくるくると回る、りんご大の大きさに収束した風の塊を見つめながら、ゼファーが呟いた。


「アリアンロッド、アリステラ殿下の入学試験について何か考えはあるのか?」


 そして、風の塊に向けて質問を送り込んだ後、ゼファーは両手で風の塊を優しく抱え込むようにしながら、窓の外へと放り出した。風の塊はふわふわと宙を漂いながら、緩やかに宮城の方へと向かっていく。


「風よ」


 再度ゼファーが唱えると、一陣の風が吹き、風の塊を宮城の方角へ素早く押し流していった。これでよし、と呟きゼファーは再度ベッドに腰かけた。あと十分もすればアリアンロッドからの回答が風の塊に包まれてやってくるだろう。


 先ほどの魔術は、《狂飆》のゼファーが得意とする風塵魔術の一つ、《風運びヴォイスポスト》だ。風を集め塊とし、その中に声を詰め込んで、所定の人物まで届ける魔術。近くの人物まで声を届けるならば子供でもできる技だが、商業区から宮城まで、二刻はある距離でも問題なく声を届けられるのは、ゼファーが優れた魔術師であることの証だった。


 やがて、声を運んでもう間もなく、風の塊が再度ゼファーの部屋を訪れた。

 ふわふわと宙を漂いながら、間違いなくゼファー目がけてやってくる風は、アリアンロッドからの返答を包み込んでいる。

 部屋を漂う風を右手に誘導し、ゼファーは指を鳴らした。パチン、と風が弾ける音が聞こえたのち、アリアンロッドの声が部屋に響く。


『それについてはこっちでも検討済みさ。紹介したい奴がいるからちょっと宮城まで来な』

「……紹介したい奴?」


 ゼファーは風に尋ねたが、それはあくまでもアリアンロッドの録音にすぎない。また宮城に行くのか、とため息をつきつつ、ゼファーはベッドから立ち上がった。

 とりあえず腹ごしらえをしてから宮城に向かおう。魔術師の正装であるローブを羽織りながら、貨幣の入った革袋を手に取ったゼファーの視界に、風の塊がもう一つ部屋に入ってくる様子が飛び込んできた。


「なんだ? まだ何かあるのか」


 訝しみながら風を割ると、アリアンロッドの愉快そうな声が聞こえてきた。


『朝飯なんて食ってないでとっとと来な』

「怖。なんでわかるんだよ……」


 行動を見透かしたかのようなアリアンロッドからの言葉に、ゼファーは少し引いた。




「飯は食わないで来たみたいだね」


 宮城の正門を訪れたゼファーを迎えたのはアリアンロッドだった。

 ニヤニヤと揶揄するような面持ちでゼファーの顔を覗き込む彼女は、ゼファーよりもほんの少し背が高い。見下ろされるような形になって、ゼファーは顔を逸らした。

 端正な面持ちのアリアンロッドがあまりに顔を近づけすぎるものだから、気後れしたのも事実である。


「おぉ? なーにいっちょ前に恥ずかしがってんのさマセガキが」

「やめろアリアンロッド……確かに俺はまだ成人してないがそれもあと少しだ」


 ぐしゃぐしゃとゼファーのくせっ毛を乱暴に撫でるアリアンロッドの手を払いのけ、ゼファーは毅然と言い返した。

 オルデラ大陸において成人として認められるのは十八歳、ゼファーにとってはあと二年の辛抱だった。


「ま、どれだけ経とうがアンタはあたしにとっちゃまだまだ尻の青い手のかかる後輩だよ」

「はいはい、それで構わない……。で、紹介したい奴がいるって言ってたろ」


 正門の衛兵がゼファーとアリアンロッド――帝国の誇る強大な魔術師――の姉と弟のようなやり取りにくすくす笑っている姿を横目に捉えつつ、ゼファーは本題を切り出した。

 途端、アリアンロッドの顔つきが真面目なものとなる。ゼファーの仕事とオフの切り替えの早さは、このアリアンロッドから確かに学んだものだった。


「ああ、そうだね。アンタの疑問に答えるのにもちょうどいいんだ」

「誰を紹介したいっていうんだ?」

「アリステラと一緒に……ああ、アンタとも一緒になるけど、魔術学院に入学する娘だよ」


 そんな人物がいるのか、と表情に出したゼファーに対し、アリアンロッドが笑いながら答える。


「アタシはともかく、皇女のアリステラに一人で暮らせる能力があるわけもないだろう? 侍女もついてくのさ」


 なるほど、とゼファーも膝を打った。

 平民はともかく、貴族の子弟には付き人が着き、身の回りの世話を彼らに任せることが多い。それは身の回りのことに気を払っていられるほど貴族の子弟たちも暇ではないことの証左なのだが、世間一般の平民たちからすれば貴族には生活力がないと揶揄される原因ともなっていた。

 そして当然、貴族の最高峰ともいえる皇族のアリステラには今までと同じように侍女が着くのだろう。

 確かに、魔術学院に付き人を連れていく貴族の話は聞いたことがあるな、とゼファーは思い返していた。


「それじゃ、面通しに行くよ」


 着いてきな、と指で方角を指し示すアリアンロッドに案内される形で、ゼファーは宮城の廊下を進んでいった。《魔導六煌》の二人が連れ立って歩くさまを見て、宮城付きの魔術師たちは足を止め会釈を返してくる。そんな彼らに手を上げながら、ゼファーとアリアンロッドは歩みを進める。


 宮城詰めの騎士や兵士たちも足を止め、何事かを囁きあうが、彼らの話題はもっぱら美人魔術師として名高いアリアンロッドに関してだった。


「聞いたかゼファー、美人魔術師アリアンロッドだと」

「魔術で聞き耳立てるのはやめろよみっともない」

「帝国の強靭健剛な騎士や兵士が憧れる美人魔術師と連れ立っといて言うじゃないか」

「だから首はやめろっ」


 アリアンロッドがゼファーの首に腕を回しながら、反対の拳でぐりぐりと脳天を突く。後頭部に柔らかい感触があったがゼファーは何も気にしないことにした。

 騎士たちが羨ましそうな目でゼファーを見るが、変われるものなら変わってやりたいと思った。あなたたちは少なくとも毎週一度はこの女の吐瀉物を掃除する気力があるのか。聞いてみたいものだ。


「中庭にリタがいるんだ。今後魔術学院でアリステラを守護するアンタの同士だよ」

「リタってのがアリステラ殿下の侍女か?」

「そう。リタ=フロストルム」


 フロストルムといえば、帝国北方の平原に領地を持つ伯爵家だったろうか。記憶の箪笥からフロストルム伯を引っ張り上げようとしていたゼファーの耳に、知らぬ声が届く。


「……お呼びでしたか、アリアンロッド殿下」


 冷たい、氷のような声だ。ゼファーがはじめに抱いた印象はそんなものだった。


 いつの間にかアリアンロッドが語る中庭に到着していたらしい。アリアンロッドの大声が聞こえたのだろう、ゼファーとアリアンロッドの二人の前に、一人の侍女が静かに佇んでいた。


「…………」


 アリアンロッドが熱く明るい美人なら、目の前の彼女は冷たく綺麗な美人だった。

 陽光を受けて銀に煌めく長い髪はさながら北方の白雪のよう。日に焼けず、真っ白な肌も髪と同じく白雪を思わせる。翠緑の瞳は澄んだ翠玉のようで、その端正な顔立ちも含めてまるで精巧な人形のようだ。


「あなたが……アリステラ殿下の侍女?」

「はい、ゼファー=フォエルド様。リタ=フロストルムと申します。以後お見知りおきを」

「……ああ。ゼファーです。よろしく、リタさん」


 目を伏せ、スカートの端を摘まんで礼をして見せたリタは、確かに第三皇女の侍女にふさわしい気品を持ち合わせていた。互いに名を名乗って以降、特に口を開かない二人を交互に見ながら、アリアンロッドはニヤリと笑う。


「おっ、ゼファー。お前、もしかしてコレか? ん?」

「そのいちいち妙なところをからかってくるのはやめないかアリアンロッド」


 バシバシ、とゼファーの背中を叩きながら、小指を上げて嬉しそうにからかってくるアリアンロッド。彼女に面倒くさそうな表情を見せつつ、ゼファーは別のことを考えていた。


 アリアンロッドが気にしてなさそうだからいいものの、


 目の前の氷のような美人は間違いなく一筋縄ではいかない人物だと、そう思った。

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