第25話 たぶんそしてまた明日

 あの八月の夜、暑い部屋の中。夜明けも近い時間に、膝を抱え込んで、俺は彼に聞いていたのだ。


「『LAUGHIN' RAIN』?」


 そう、と俺は答えた。


「なかなかできないよ、あの課題曲」

「そりゃあそうだろ」


 彼は当然だ、と言いたげに笑った。笑ったような気がした。表情は見えない。まだ明けてはいなかった。

 実際、あの曲は、なかなかコピーができなかった。さすがに初心者に毛の生えた程度の俺には、その曲は難しかった。

 しかもそれは彼が作った曲だけに。

 ほとんど自虐的なほどに、ややこしいフレーズとリズムが入り乱れたインスト曲。


「そもそも何で、笑う雨なの? 俺聞いたとき、リフレインの間違いかと思った」

「ああ、確かに似た音かもな。特に考えたことはないけど」


 それはずっと考えていた。歌詞が入っていないだけに、その意味をくみ取るのは難しい。


「雨の音がね、その時の俺にはそう聞こえたんだ」


と彼は言った。

 そう聞こえたことはない? と重ねて訊ねられたので、俺は無い、と答えた。その時には、それは本当だった。


「奴の――― 知らせを聞いた時、雨が降ってた」


 その夜の話の中心は、その今はもう居ない人にあった。だから俺もいちいち確認はしなかった。


「俺は電話を切ると、取るものも取りあえず、家を飛び出した。その時はまだ、歩いて行ける距離に俺達は住んでいたからね。とにかく、行かなくちゃならない、と思った。だけど、走っている途中から、俺はどうして自分が走っているのか、判らなくなった」

「何で?」

「だって俺が行って何になる?」

「友達でしょ」

「その時の俺に、そう言い切れるものはなかったよ」


 首を横に振る気配。


「立ち止まって、行っていいものかどうなのか、立ち止まったまま、ずっと考えていた。そうこうしているうちに、小降りだった雨が、だんだんひどくなってきたんだ。そこで行くなり引き返すなりすれば良かったんだけど、どうにも俺は動けなくて、顔見知りのバンド仲間が俺を見つけるまで、そこに居た」


 情けないね、と彼は付け足した。


「あの時の雨が、ひどく、俺を笑っているような気がしたんだ」

「それで、笑う雨?」

「そ」

「それであんなに自虐的な曲なんだ」


 俺はあえてそこで言葉の調子を変えてみた。少し怒ったような声を立てる。


「ベーシストにとっても自虐的だと思うよ」

「そうか?」

「そうだよ。トモさんは上手いからできるけれど、俺じゃ難しいもん」

「でも受けたのはお前だよ」


 言葉の調子が明るくなる。


「お前ならできるさ。そしたら、お前が欲しがっているものを間違えずにあげるよ」

「そんな、俺の心読めるの?」


 くくく、と俺は笑ってみせた。


「お前は俺と似てるからね」


 そういう言い方って、と俺は彼をこづいた。



 でもそれは間違っていなかった。彼と俺はよく似ていた。

 俺は同じことを繰り返そうとしていた。無意識に。

 そして結局、彼は俺の欲しいものをよく知っていたのだ。




 ライヴの客の出るのに押しつぶされないように、と俺達はナナさんに礼を言うと、外に出た。

 雨は止んでいた。空にはうっすらと星が出ていた。


「あ、星が見える」


 見上げたら、何かそれが妙に目新しいことのように感じて、俺は口に出してしまった。


「珍しい?」

「ここでも、こんなに出ることがあるんだな」

「雨上がりでもあるしね。ほら、さっきのは夕立みたいなものだったろ? 寒冷前線」

「理科は不得意だって言うの!」


 そう言えば、夜、空を見上げることもなかった。忘れていた。


「マキノのとこはそうじゃなかったの?」

「実家の方?」

「そ」

「俺の田舎は、滅茶苦茶。星なんかもうぴかぴか。だいたい夜は暗いものだからね。満天の星って言葉あるだろ?あれだよ。夏なんかすげえよ。夜中に寝ころんでると、流星幾つも見えるもん」

「へえ」


 奴は息を呑み込む。


「いいなあ。俺一度見てみたい」

「すげえ田舎だぞ? 本当っに僻地もいいとこ」

「別にいいじゃん? 俺行ってみたい」

「そういうもんかなあ…… ま、冬だったらいいよ。うち、冬休みにでも来いや」

「冬じゃ凍えそうだけどなあ…… でもいいな」


 奴はほとんど乗り気になっている。どの位寒いのか、とか、うちには人を泊めるスペースはあるのか、とか―――


「で、お前、そん時俺をクラスメートって紹介する?それともバンド仲間って?」


 はて。


「音大志望なんでしょ、マキノ君」


 こいつは鈍いのか鋭いのか全く判らない。


「その時までに考えるさ」


 その時はその時だ。俺は成りゆきまかせの奴なのだ。

 俺は奴の背中に掛けた自分のベースを取り上げた。駅が目の前だったのだ。階段を降りる俺の背中に声が降りかかってくる。


「重くないか?!」


 平気、と俺は声を張り上げた。

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ピアノとベースとわらう雨と、それを教えてくれたひと。 江戸川ばた散歩 @sanpo-edo

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