第24話 雨の音のような歓声の中

 開店前の、店には裏口から入る。身体が知っているこの店の、カウンターへ通じる道を俺はすりぬけた。

 きゅ、とガラスをこする音がした。俺は肩で息をしながら、彼女の視界へと入っていった。口の中がからからだった。声がかすれる。だけどこれだけは。


「ナナさん……」


 彼女はつ、と糸を引っ張られた人形のように、自分の名を呼ぶ方へと顔を向けた。二ヶ月近く、耳に入れなかった声が、俺の中に響いた。


「猫ちゃん!」

「ナナさん……」


 俺は、かついでいたベースを指すと、彼女の居るカウンターの方にふらふら、と近付いていった。

 たどりつくと、急に力が抜けた。俺はせっかく綺麗に拭いたカウンターに手をつくと、そのまま脱力してしまいそうな自分を感じた。だがそのまま崩れ落ちたりはしなかった。後ろから、カナイが支えていたのだ。


「俺は」


 それ以上の声は出なかった。ナナさんの手が、濡れた俺の頭に触れた瞬間、俺はそれまでずっと押さえ込んでいたものがあふれ出ていくのを感じた。

 熱いものが、だらだらと顔を流れていく。雨じゃない。

 声が出ない。息が苦しい。走ってきたせいじゃない。

 俺は。


「よく来てくれたわ猫ちゃん」


 ぽんぽん、とナナさんが優しく俺の背を叩く。

 俺は自分の中からこんなにひっきりなしに湧き出てくるものがあるなんて、生まれてこの方、知らなかった。止まらない。止めることができない。

 ナナさんはぽんぽんといつまでも俺の背を叩いていてくれた。


「猫ちゃんがもう、ここには来ないんじゃないかって、あたし達ずっと心配してたのよ」

「ナナさんやっぱり、こいつ、今の今まで忘れてましたよ」


 カナイの声が背中から聞こえる。いつもの奴よりトーンが落ちている。深刻な声だ。


「そうね、そうじゃないかって思ってたわ。カナイ君ありがとう。君が教えてくれなかったら、またあたし達はトモ君の二の舞をするところだったのね。同じ間違いを繰り返すところだったのね」


 二の舞? 繰り返し?

 ああそうだ。俺は以前ナナさんに聞いたことを思い出した。クラセさんが亡くなった時にも、平気な顔をしていたトモさん。絶対にその中身は平気じゃなかったのに、平気な顔を決して崩さなかった―――

 でも違う。俺は知っている。

 彼はずっと押さえ込んでいたんだ。自分自身までもごまかして。あの夏の、あの時まで、ずっと。

 自分にとって一番大切だったのが誰だったのか、思い出して。


 そして、連れていかれた。


 カナイは俺をカウンターの席に座らせた。俺は座ってもそのまま、ずるずると顔を伏せたまま、ずっと顔を上げなかった。

 ナナさんは(見えなかったが)俺とカナイにまがいものオレンジジュースを渡すと、そのまま開店の準備を始めた。

 やがて空調が――― 夏のあの強烈なものではないけれど、入ってしまい、俺は身体に染み渡る寒さで、ようやく正気に戻った。

 客が入りだしていた。そういう時間だったのだ。

 見計らったように、カナイは氷がすっかりなくなった、紛い物のオレンジジュースを俺に突き出した。

 俺は黙ってそれを受け取って、口を軽くつけた。だがつけた瞬間、俺は自分がひどく喉が乾いていることに気付いて、一気に飲み干した。身体がひどくだるかった。空調のせいだけではない。


「ごめんな」


 俺はカナイに言った。聞こえるかどうかも判らなかった。周囲の喧噪は激しくなっていた。ライヴがもうじき始まるのだ。どのバンドがやるのかもさっぱり俺には判らない。だが俺は言わずにはいられなかった。

 カナイはふっと笑うと、俺の頭をくしゃ、とかき回した。カナイの手は彼よりずっと小さいから、その感覚は全然違う。だけど、妙にそれは心地よいものだった。


「彼のことが、好きだったんだ」

「知ってたよ」

「カナイお前、そういう顔、全然しなかったくせに」

「お前には見えなかっただけだよ。見ようとしてないものが見える訳ないだろ?」


 確かにそうだ。俺はずっと目を塞いでいた。あのニュースにしてもそうだ。あれが彼のことを言っているものだと、あの事故現場がその場所だと、俺は知っていたはずなのに。


「何で好きだったの?」


 繰り返される、問い。彼もそう訊ねた。どうして俺が好き?


「判らない」


 そして同じ答を返す。カナイはうなづく。


「そうだよな。好きなことに理屈なんていらないよな」


 歓声が、聞こえる。この日のバンドが出てきたのだ。


「あれ、お前このバンド」

「うん、RINGERだ」

「フロアの方、行ってこいよ」

「いーや。俺はあそこににたむろしてる女どもと同じ所に居る気はないから」

「カナイ」

「いつか、あの人と、肩を並べてやる」


 びり、と背筋に電流のようなものが走ったような気がした。

 何杯目か判らないドリンクのコップを掴んで、奴は、ステージのギタリストに向かってそれを掲げた。


「絶対」


 断言する。俺はその時、気付いた。

 扇動者アジテイターの声、だ。

 決していい声とか歌が上手いとかそういうのじゃないけれど。

 だけど。

 奴は俺の方に向きなおると、掲げていたコップの中身を一気にあおった。そして、俺の肩を掴むと、真っ向から見据えた。


「引きずり込まれるなよ」


 あの強い声で、はっきりと言った。


「お前は、やっと見つけたメンバーなんだからな」


 雨の音のような歓声の中で。

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