第23話 笑う雨
九月のはじめ。雨の降る夜だった。
俺は部屋の中で、ぼんやりとヘッドフォンをかけて音楽を聴いていた。おかげでなかなか電話のコール音に気付かなかった。
やや苛立たしげな中年男の声が聞こえた時、俺はひどく嫌な感じがした。中年男が、「警察」という単語をつけ加えた時は、「嫌な感じ」は「不安」というものに形を変えた。
警察の中年男は、俺に高校生か、と訊ねた。そうです、と俺は答えた。学校名を言ったら、多少愛想が良くなった――― ように聞こえた。
「実は事故に遭った人の持っていたメモに、君の名と電話番号があったものだから。他にその人の名前だの何だの判るものもないのでご足労だとは思うけれど確認しに来てくれないかな」
はい、と俺は答えた。
どうしてそこでそこから先の質問をしなかったのだろうか。そうすれば、それが彼ということが判って、俺は彼の実家を警察に説明して、確認などしなくとも済んだのに。
雨の降る中、傘をさして出かけた。
最寄りの線の、殆ど足を踏み入れたことの無い駅に着く頃には土砂降りになっていた。警察の場所が判らない、と電話で答えていたので、駅まで迎えが来ていた。電話の向こう側と同じ声が、すまないねえ、と形を変えた。
道の途中で、事故の現場の横を通ってくれた。頼んだ訳でもない。もう救急車は去った後なのだろう。残されたのは、前がひどくへこみ、ライトのガラスが無くなった車と、その近くで転がっているバイクだけだった。
せわしなく動くワイパーの間から、バイクが姿を現した時、俺の心臓は止まるかと思った。十六年生きてきて、そこまで驚いたのは初めてだった。見覚えのある、あの色。薄いグリーンの、ベスパ。
「どうだね?」
と警官は訊ねた。
「見たことあるだろ?」
「ええ」
と俺はうなづいた。
「知り合いです」
知り合い。そう言うことしかできなかった。他のどういう言葉で言い換えれば良かったというのだろうか? 友達? 恋人? 愛人?
どの言葉も、俺の立場を上手く言い表せているとは思えなかった。
友達と言うには、俺は執着しすぎていた。
恋人と言うには、彼は俺に何一つ言わなかった。好きとか何とか、そういうまるで儀式のような言葉は、何一つ。俺がどれだけ言っていても。
髪が、濡れていた。
横たわった彼は、目を閉じていた。口が、閉じていた。蛍光灯のせいだけでなく――― 色が失せていた。
つとめて平静な顔で俺は確認作業をした。
平静な顔でもしてなければ、見ていられなかった。
大きな手が、力なくベッドの上に投げ出されていた。
俺を抱きしめ、髪をかき回したあの大きな手。
勢いよくベースのカッティングをした手。
最初から、印象的だった、あの。
差し出された、大きな。
頭の中が凍り付いた。
*
確認を終えた俺は、自分の知っている限りの彼の住所だの実家だの、交友関係だのを警察に話した。
だが頭はまだ凍っていた。
「俺が知っているのはそれだけです。それ以上は知りません。仲は悪くないです。結構好きなバンドのベーシストで」
機械的に喋る自分の声を、俺は何処か遠くの音楽のように聞いていた。
「そう言えば、何かギター? ベースだっけ? 転がっていたな」
「見せてもらえますか?」
警官は、夜遅くわざわざやってきたいたいけな少年(実際俺はその時分は歳よりもっと幼く見られたものだ)には親切だった。
ベッド同様、白い布の貼られたテーブルの上には、彼の楽器が、まだ濡れたまま置かれていた。びん、と三本の弦が明後日の方向を向いていた。
そうだこのベースだ。俺は見覚えがあった。黒地に、虹色の模様が入った。
「実は君に連絡をつけたのは…… このケースに、メモが入っていたんだ」
「メモが?」
「君の名前と電話番号」
「そうですか」
目が妙にひりついた。空気がひんやりと乾燥している。外は雨だと言うのに。
「俺もう帰っていいですか?」
俺はかすれた声で訊ねた。喉がからからだった。
協力してくれてありがとう、と警察は俺をパトカーで部屋まで送ってくれた。
どうやって部屋まで上がったのか、記憶がない。気がつくと、俺はどん、と俺は後ろ手に鍵を閉めた扉に背を打ち付けていた。
そしてその衝撃が、俺の凍っていた半分の頭に、ここへ戻ってくるまでの数時間の記憶を一瞬にしてなだれ込ませた。
彼は、もういないのだ。
俺はすうっ、と足から力が抜けていくのを感じた。扉に強く当たる背中と腰の痛みに、自分が玄関にべたりと座り込んでしまっているのに気付いた。動けなかった。
記憶が混乱していた。
ついさっきの記憶と、夏の記憶が、混ざりあい、勝手に浮かび上がってきていた。
俺は、夏の記憶の中の彼の手の感触を思い出していた。思い出そうとしていた。
そしてそこから何をしたか判らなくなった。
*
スタジオを出ると、怪しかった空は、雨をぽつぽつと降らせていた。本降りになるのは時間の問題だった。
「やっぱりお前、忘れていたんだ」
俺とカナイは、駅までの道を歩いていた。俺の背には、彼のベースがあった。そしてカナイが俺の持ってきたベースをかついでいた。
「やっぱり?」
俺は声を荒げた。何をこいつは知っているんだ!?
「変だと思ったんだ。あん時」
「いつ」
「ピアノ室で、サエナの話してた時。文化祭の前。お前、自分のタイプはあの人だって言ってたろ?」
「ああ」
「あの時俺、おかしいと思ったんだ」
「……」
俺は足を止めた。
「お前、最初に俺とピアノ室で会った時、何弾いてたか覚えてるか?」
「いや」
頭の中に妙にこびりついている曲があったから弾いただけで、何の曲か、は結局調べもしなかった。
「鎮魂歌だよ。モーツァルトだかシューベルトだかベートーベンだか、そのへんは俺には判らないけど」
カナイもまた足を止めて、やや遅れている俺の方に向きなおった。
「お前、気付いていると思っていた。だから弾いているんだ、と思ってたよ、俺は。あの事故のニュースが入った次の日だったし。お前、BELL-FIRSTのファンだってあれからちょくちょく言ってたろ? だから…」
雨の勢いは次第に増していく。ああ動かなくちゃ。楽器に雨なんていい訳ないのに。だけど足が動かなかった。
「だけどACID-JAMの方にお前は行ってる様子なかったし、ナナさんも心配してたし……」
大粒の雨は、服も髪も顔も全て濡らしていく。音が聞こえる。笑っているように、ぱちぱちぱちぱち―――
「カナイ……」
「ACID-JAMに――― 今から行ってもいいか?」
奴はうなづいた。そして俺の手を引っ張ると、奴は走りだした。頭は凍り付いていた。
だけど、奴の手が、俺を掴んでいた。俺は凍り付いたまま動かない訳にはいかなかった。
びしょ濡れのまま駅へ飛び込み、切符を二枚一度に買って、奴は俺を引きずるようにして電車に飛び乗った。
ACID-JAMのある駅まで、ずっと奴は俺の手を握ったままだった。
周囲の目があるはずだったが、俺の頭は凍ったままだったし、奴はそんなこと気にもしていないようだった。
雨はまだ振り続いていた。
傘もささずに、俺達は走った。
大粒の雨の音。
笑い声。
こんな、大切なことを、ずっとずっとずっと忘れていた俺を、忘れてしまおうとしていた俺を、思い出したくなかった俺をあざ笑う、雨の、はじける音。
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