第22話 楽器の記憶
新しいベースを買ったのは、それからしばらくしてからだった。仕送りの中から、こっそりちまちまと小銭を貯め、多少生活費まで手をつけて。
でも俺は欲しかったから。
楽器屋へ行って、俺は黒いロングスケールのベースを買った。
店員は俺の身体と楽器を見比べて、大丈夫?などと要らぬ心配をした。まあそんなものだろう。
雲行きは、良くなかった。
週間天気予報は、秋の長雨ということを強調していた。傘を持っていくべきだろうか、と一瞬思ったが、何となく邪魔っけに感じて、結局持っていくのはやめた。
何せベースという大荷物を抱えているのだ。他にはなるべく荷物は増やしたくない。
*
待ち合わせは、学校のある所の隣の駅の前だった。
駅前広場の真ん中にある時計を眺めたら、約束までまだ七分あった。大雑把なようで、案外几帳面なカナイはもう五分もすれば来るだろう。
放置自転車が立ち並ぶ歩道の隅に、そこだけは避けられているかのように空いている一角があった。
白い細いガードレールが、練り飴のようにぐにゃりと歪んでいる。なかなか直されない。地方自治体が悪いのか警察が悪いのか、それとも国が悪いのか、俺にはよく判らない。
そこにはやや枯れかけた花が、ワンカップのびんにさされたままになっている。赤紫の菊はもう大半の花びらを散らしていたし、黄色の菊には見るも無惨な染みがついている。
掃ききれなかったガラスの破片。ライトの赤や黄色のガラス。きっと次第に踏みつぶされ、細かく細かくなっていくのだろう。
「おーい」
駅の改札からカナイが手を振りながら出てくるのを見つけた。俺はほこりを払いながら立ち上がった。
「時間ぴったり」
「だろ?」
誇らしげに彼は笑う。つられて俺も笑った。
スクランブル交差点の向こう側に、予約してあるスタジオはある。信号はまだ赤で、残り時間の表示ランプもまだ三十秒くらい残っているぞと主張していた。
「お前傘持ってきた?」
俺は訊ねた。期待はしていなかった。
「いーや。でも降りそうだよなあ」
確かに雲行きは悪かった。西の方に、青鼠色の雲がもくもくと広がっている。
さっさと行こうや、と奴は俺の肩をぽん、と叩く。その拍子に、奴の視界にもそれは目に入ったらしい。
「これさあ、事故でもあったんだよな」
曲がったガードレールを指して奴は訊ねる。ああ、と俺はうなづいた。
「車の事故かな」
「バイクと車らしいよ。バイクの奴は、即死」
「へえ…… よく知ってるな」
「まあね」
そうだ。どうして俺は知っているんだろう?
ああそうだ。あれは、カナイを最初に認識した前の日のニュースだ。
確か俺は、宅配ピザを食いながら、そんなニュースがあったな、と思っていた。近くだな、とか思いつつ聞いていたはずだ。
「やあ、久しぶりだね」
練習スタジオに着くと、そこの店員が俺に声をかける。カナイはそれを見て、お前初めてじゃないのかよ、と耳打ちする。
「俺が演るというのでは初めてだよ。俺、お前に嘘は言ってないけど?」
お前はそーゆー奴だよ、とカナイはぐい、と俺の背中をこづいた。そこは、BELL-FIRSTのメンバーがよく練習に使っていたスタジオだったのだ。
「じゃちょうど良かった」
「?」
店員は受付の奥の部屋に入ると、やがて何やら抱えて出てきた。
「え?」
見覚えのある、それは。
「それ」
「そ。トモさんのベースだってば」
俺は全身が硬直するのを覚えた。本物だ。俺があの日、欲しいなと内心思っていた、あれだ。
店員は俺の様子にも構わずに、自分の用件を続ける。
「彼の部屋に他にも二、三本はあったらしいけれど、やっぱりこのベースは君に、と皆思ったらしいよ」
ぴ、と彼はソフトケースのチャックを開ける。このケースにはこのベース。黒字に虹色の細い曲線が踊る。彼の、メインベース。
何で、と俺は思った。何でそんなことを言うのだろう、この人は。
店員は、俺の困惑には気付いているのか気付いていないのか、更に続ける。
「ナサキさんは赤の方、ノセさんは黒一色の方を持っていったんだ。ハリーさんは、トモ君とかなり前から仲良かったからさ、辛いから、もらえないって言っていた。で、相談した結果、君にあげようと言うことになったんだけど…… ナナさんがそう主張したし…… ただ君、全然住所とか彼らに言わなかったんだって?」
ええ、と俺は答えた。口の中がからからに乾いていた。住所は誰にも教えてなかった。彼が結局、俺の部屋に来ることはなかった。
……結局?
「で、どうしようか、と言う訳で、とりあえずここでずっとあの三日後くらいから保管してたの。受け取ってくれないかなあ。君もベースなんだろ?」
店員は、俺の持っている楽器を見て言う。俺もその質問についてはうなづく。
そして店員は言った。
「彼の形見なんだし」
思い出した。
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