Uranium

しおり

Uranium

 月が青くて、白い。

 灰色の花が咲いている。

 女は岩の上に腰かけていた。もう長い長い長い間、そうしていた。嵐がざわめき、地表が割れても、女には関係の無いことだった。太陽が銀に燃え、月は銀に輝き、それを隠した雲は女の髪と同じようにうっすらと光って、やがてそれは同じ光を宿した雨滴となって地上に降り注ぎ、その下にねむる鉱石や化石にときどき湿り気を与えた。そのようにして、女の存在する長い長い長い時は移ろっていった。

 女は神でも妖精でもなかったが、太古の魔法のように時おりエメラルドに輝く銀の髪を持ち、波打って地まで垂れ落ち広がるそれは、夜の暗闇のなかでは常に淡く燐光を発していた。朝焼けや夕暮れのなかで、そのエメラルドの輝きは最高潮に達した。

 女は岩に腰かけ、ずっと生命の営みを見つめていた。人類というものが、火を手にいれてから、急速に発展していくのを眺めている瞳には、悠久の宝石に似た透明な色彩だけが、長い長い長い間、昼の月のように静かに在った。

 人類は火を得た。鉄を得た。蒸気を得た。電気を得た。女の白いかんばせは、それらのどれにも感嘆することなく、ただ人類が築き上げていく都市の群れと、破壊されていくそこにあったはずの森や、海や、草原を幻視した。それらの青と緑の輝きは、女の銀の髪に吸収され、夜明けや黄昏の夢のなかでのみ生き永らえた。女はそれらの自然について何も思わなかったが、拒むこともなかった。

 そうして幾千の太陽と月が生まれて墜ちた頃、昼でもないのに夜がいつでもひどく明るくなった頃、女が腰かけている岩のもとへ、音が近づいてきた。遠く遠くから少しずつ、文明のようにその音は近づいてきた。それが馬の蹄の音だと女は知っていたが、そのあとに続く車輪が回転し道の小石を蹴っ飛ばす音の理由はわからなかった。

 灰色の花と、青い草原と、冷たい土を踏んで蹄の跡と轍を長々とつけながら、女の視野の限界から黒い馬車が姿を現した。馬も飾りも葬式用のように黒く、窓ガラスには曇り細工が施されていたが、不思議と白い薔薇と百合を一輪ずつ、馭者台の脇につけていた。

 あれは人間の乗り物だ、と女は思った。なぜ人間たちがこちらへ乗り物を駆って急いでくるのだろう、とも思ったが、その疑問がそれ以上に発展することはなかった。地球が凍り、地が割れ、灰が空を覆い、星が墜ちるような実に様々なことを、女は長い長い長い時のなかでいくらでも見聞きしてきたからだった。

 やがて、女の腰かけた岩の前までやってきて、馬車が止まった。その中からは、灰色の服を着た男たちが出てきた。彼らの知性が覆った目は、琺琅のようにしんと不透明だった。数人いたその男たちのなかで、ひとりの男だけが一歩前に進み出た。野心的な眉をした白人だった。その男を先頭に、人間たちは女の前に渡り鳥の群れのような形に並び、慇懃に帽子をとった。女はそれを一瞥し、その瞳からはエメラルドの火花が散った。

 男たちは跪いた。「あなたの御名を教えてください」

 女は答えた。「名などない」

 男たちは続けた。「私たちに御同行ねがいたい」

 女は黙っていた。同行などと、人間的な行動を人間的に乞われたことなど女はなかったので、どう答えればいいのか知らなかったというのがある。男たちは返答がないことに取り立てて反応せず、あらかじめ確認しておいた義務を遂行するように速やかに行動を開始した。

 腰かけた岩からおりることは、女はしたことがなかったが、男たちはそれぞれのみを手にして、女が腰かけている部分の周りを削りだした。女は呆れ、そうまでして己を地に立たせたいのかと、不思議にさえ思いながら裸足を土におろした。白い脚は冷たい土に馴染み、すっくと背筋を伸ばして立った女の丈高さに、人々はわずかに後じさった。女は長い長い長い時にふさわしい長身に、夜闇の塊から糸を繰りだして織ったような黒い衣をまとい、その背に一角獣のたてがみのような銀の髪をたなびかせていた。闇のなか、瞬きするたびに女の眼や髪から散る火花の彩りに、男たちはおお、とどよめいた。ただひとり、はじめに女の前に一歩踏み出した男だけは、臆すことなく傲慢なほど淡々と女に向き合い、手を差し出してこう述べた。

「我々はやっとあなたを見つけだしたのだ」

 女は心底呆れたように顎をあげた。

「馬鹿馬鹿しい。私はずっとここにいた」

 女のことばを受け、反論ではなく、ただ事実を伝えるために男たちは口々に言った。

「過去の人間の目にはあなたは映らなかったのです」

「科学というレンズが初めて我々にあなたの正体を見せたのです」

 そうか、この人間たちの目を覆う奇妙な色は科学とやらか、と女は合点した。人類が手にいれた最も真新しいわざ

「あなたのその輝きは、これまでもそうと知らずお目にかかることはありましたが、あなたの存在を、力を理解するには我々の知性が足りなかった。けれど今は違います。我々はあなたを解析した。、あなたを理解したのです」

 女は眉をあげ、目前の男を睨んだ。女の瞳の奥には銀砂が沈み、頭を少し動かせばそれがエメラルドの海を泳いで無数の光の反射と電子の分離を生み出した。その光が男の曇りガラスのような眼球のおもてで散乱し、その瞬間ふたりの間には次元の亀裂に似た小さな雷が発生した。

 一刹那のち、女は男たちに背を向けた。なびいた髪が銀河のように輝き、人間のみならず馬車を引いていた黒馬をも刺激し、興奮した嘶きと蹄を踏み鳴らす音が響いた。しかし女が元いた岩の箇所に腰かけようとした瞬間、強い力を込めた掌が、女の左腕を掴んだ。女はその不躾な手の持ち主を、振り返って火花散るエメラルドの瞳で睨みつけた。しかし、集団から一歩踏み出していたその男は怯まなかった。その両眼にかかる、降り積もった地層のような、知性の不透明なヴェールが、女と男を隔てていた。

 女はつれなく腕を振りほどこうとして、響いた奇妙な音と感触にぎょっとしてふたつの肉体か接触している部分に視線を落とした。

 科学の鎖が女の腕を男のそれと結びあわせていた。女は狼狽し、見たこともないそれを凝視した。人類の長い長い長い時間と積もり積もった不透明な知性を縒りあわせて鉛を鋳た枷だった。

「諦めなさい」

 岩よりも固いそれに引っ張られ、女の両足はよろめいた。からだが岩から離れて力が抜けた。女は引きずられていく。抵抗しようとした手足には灰色の男たちの腕が絡み、腐敗にとらわれた屍のように腕の群れのなかにずぶずぶと沈み込んでいった。隙間から見えた空は雲に覆われて白かった。連れられていく先の馬車の戸が開け放たれ、中からはひやりとした空気と闇が洩れだしている。

 馬車に引きずり込んだ女を自分の腕のなかに抱くと、男は女の耳元で、囁くように低く宣言した。

「あなたは既に私のものなのだ」



 女は塔に閉じ込められた。

 引きずり込まれた馬車の内部は鉛を含んだ黒い暗幕で覆われていて、どの道をどのように通っていったのか女には見えず、そもそも馬車に連れ込まれてからは何らかの手段で體と思考を麻痺させられていた。阿片のようなものを嗅がされた気もするが、わからなかった。

 女はこれまで大自然の脅威に対しては無頓着であったが、それは春の嵐も、夏の雷も、岩を裂き、奥深くに睡る女の體を脅かすことはなかったからであった。女は身を守るということも、身を隠すということも知らずに、長い長い長い時を過ごしていたのだった。

 けれど、夜の闇や、月の光とも違う、そのけし粒ほどにすぎないはずの、人類の業ひとつに、抵抗を知らなかった女は捕らえられた。岩盤の内部で睡っていた宝石が、人間に発掘されるように。

 女が閉じ込められた塔の最上階は暗く乾いていて、壁から滲み出す大気は冷たく雷の音がよく聞こえた。高い位置に切られた窓は何重にも板が打ち付けられ、隙間からは漆喰が溢れて雪のように固まっていた。

 その六角形の部屋の中心には、銀に輝く真四角の台が置かれていた。女はそこに横たえられていた。

 未だ夢から醒めきらぬような眼で周囲を見回すと、石の壁にはぐるりと回廊のように棚がめぐらせてあり、そこにはたくさんの実験器具が見たこともない曇りと輝きの融合した色彩を放っていた。科学の奴隷、ということばが女の頭に浮かんだ。拘束されるなど、女には初めての経験であり、初めての屈辱だった。

 もがこうとした女の手首と足首は枷を嵌められ、銀の台の上にはりつけにされていた。人間離れした長い手足には鎖が巻きついて、暴れるたびに火花が散り、あたりは星をまいたように閃いた。人々は慄きながらも、それらの電子を壜にとらえた。

「大人しくなさってください、

 誰だ、それは。

「鎮静剤を」

 女は吠えた。蒼白い静脈に銀の針が刺さっても、まだ吠えた。血管に青い蝋が注入されるように、冷たさと死に近しい麻痺が身体を襲っても、肺と声帯はそれ自身が独立した獣のように吠えていた。

 あの岩のもとで、女の腕をとらえた男が、今度は優しく女の手をとり、冷たい指でなにかを女の薬指に嵌めた。女は掌に力を込めて抵抗したが、根元までその小さな枷のような指環は嵌まり込み、しっかりと女の皮膚に吸着した。

 外は見えなくても、不意にそのとき女には今晩が月の無い夜だということがわかった。迸る絶叫に苦悶の色が加わった。銀に輝く月は女の象徴であり、闇を統べる力である。見よ、あの白き月が堕つるさまを。暗黒に呑み込まれていくさまを。

 男は白衣を脱ぎ、金属の台に横たわる女の上にのし掛かった。麻痺した四肢は反応できず、屍のようにされるがまま、女はまとっていた衣服を破られた。

 古代の黒魔術かなにかの儀式のようだった。岩の上で過ごしていた長い長い長い間に目にした、発展途上の人間たちの無意味な儀式に伴う行為に似ていた。豚や山羊を殺し、その血で印を画くそれに、己は今、贄の立場として参加させられているのだと知った。

 拡げさせた腿を潰すほど強く押さえつけられ、女のなかに男が押し入ってきた。屍にメスをいれる冷たさで、焼けた鉄の杭で貫かれたような衝撃を与えた。男は女に覆い被さり、揺さぶった。乳房を掴み、奥深くまで犯した。

 女は頭を打ち付け、吠えた。

 破られた。幾星霜の不可侵が犯され、汚される。無瑕の月が割れ、砕ける。



 …

「結婚だ」

「Le mariage」

「ウラヌス公爵が」

「女を」

「銀の女を」

「あの、エメラルドの火花をもつ、女を?」

「娶ったと」

「あの実験室で」

「婚姻を結んだと」

「あの女と?」

「エメラルドの、神々の黄昏と?」

「ウラヌスの名と、獣の霊が」

「魂の蒸留、體の交合」

「胚の誕生!」

「おお、未來のイヴ!」

 …



 灰色の服を着た人々が、絹や天鵞絨ビロードや繻子を、横たわった女の體にかけていく。相変わらず、枷と鎖で台に磔にされた女の下腹は、黒い布に覆われて、満ちていく月のようにだんだんと不吉な膨らみを見せ始めていた。人々はそこにも布をかけた。薄い薄い、透けるような白い布だった。

 女は力なく首を振った。それで行為が止むわけでもないが、ただ振りたかったから振った。髪になにかをつける人間の爪が額を擦る。女はうめく。地上の人間は変な匂いもする。血や肉が熱すぎる。

 長い長い銀の髪には雪、月、花の形をした真珠が、ぐるりと絡みついて、銀の葉のなかに白い実が生っている森のようになった。

 歪み真珠、または洋梨のような形に膨れた腹を、祭壇のように羽や花で飾った。

 灰色の服を着た職人たちは、口々に言った。

「あなたのおかげで」

「我々はこれほど豊かに」

 これを自分が産み出したのだと思うと、肉体を飾り立てながら美しく金属光沢を放つ諸々が急に憎らしくなった。手首を動かすと、じゃらんと金がぶつかる音がして、忌々しげに女は気だるく唇を開いた。

「このぴかぴかした飾りなんぞは、私の遠縁だ。あいつは地殻中にいくらでもいる、私と同じように。こんなものが、お前たちにとって価値があるのか」

 人間たちは真面目そのものの顔で頷いた。その灰色のかんばせに、女は個性を見いだせなかった。みな同じである。同じ科学の奴隷である。

 そして、自分もまた。

 この白い飾りや布の堆積が仮に婚礼の衣裳だとして、もう契りは交わされたのだ、強引に。けして女が望んだものではなく。今さら純潔を装わせて何になる、と、黒い服を白い飾りで降り積もる雪のように隠されていきながら、女は虚空を見つめていた。昼の月は溶け、もはや女の魂を補うには到らなかった。

 胎のなかで、なにか脈打った気配を感じた。



 十月十日と俗に云われる間、女は塔に閉じ込められ、その腹はだんだんと大きく膨らんでいった。裂けんばかりに皮膚が張り、拍動に羊水が揺れ、女は望まぬ命をその全身で味わわされざるを得なかった。手足を封じられた女は舌を噛もうとしたので、舌を押し下げる拷問器具をつけられ、獣のような声しか出せなくなった。

 腹が重い。内臓が潰され、仰向けでいることが苦しくてたまらないのだが、女の苦しみなど男は想像もできないのか、女は殉教者のように磔にされたまま、犯され孕まされた証に命を圧し潰される拷問に、昼夜とわず呪詛の呻きを吐き続けた。それはことばや声ではなく、ふいごのような吐息の変調や、酷い悪阻による嘔吐えずきであった。

 心が死のうとしている。

 だが、身体は生きようと苦しんでいる。

 これが地獄!…

 分厚い石の壁のせいで、届かぬ月の光に身を焦がす。女は泪を流さなかった。女の火花は重力に従って滴り落ち、冷たい床で消えた。




 時は満ちた。銀と鈍いろの潮のごとく。月が欠け、満ち、胎は熟した。折れそうに衰えた蒼い四肢に囲まれた、まろく、いまにも破裂しそうな、白い腹。

 獣が吠えている。

 銀の分娩台の上から血が伝い、脚が薔薇色にそまる。塔の外は嵐かと錯覚するほどに激しく、女の咆哮が空気を揺らした。手と足を戒める枷に加えて鎖でいたるところを固定され、臨月の女は陣痛と胎動に塔を崩す落雷のような吠え声をあげて抵抗していた。

 その目の前、鎖で開かれた脚の間に立つ男──あの夜、女を犯した男は、微動だにせずこの地獄のような出産の経過を観察していた。灰色の服を着た人々が分娩台の周囲に輪をつくり、女の静脈に針を刺す。

「痲酔薬なぞ効くものか、仔を産むという行為は、生きながら堕ちる地獄そのものであるよ」

 男は淡々と云って、女陰をメスで裂いた。一際大きな唸りが実験室の石の壁を揺らし、鎖がひとつ千切れて飛んだ。その腕を、よってたかって無数の人の手が押さえつけた。

 體の奥が裂ける。胎児が産道をすべりおち始め、次々と手が伸びる。女の脚の間に。その血色の暗がりに。男は一歩引き、その手の群れに委ねた。

 ずるり、と塊が引きずりだされる。続けて、ふたつ。

 双子だ。

 女は一瞬声を忘れ、息を忘れた。すべてが遠ざかった。月のない夜に、世界をふたつ、喪失した。

 脚の間から、血でつながった熱が出ていってしまう。破瓜の時のように、腿と尻を濡らす血は、純潔を喪った夜よりも冷たく、泥のように力なく、しかし絶え間なく流れつづけ、タイルの床に海を作った。そのなかに浸かった臍の緒は、母の内臓のようにてらてらと肉色に光り、嬰児の蠢く白い手足を際立たせていた。

 膨れ上がった胎内が空っぽなのを感じて、そこに裂かれた陰部から流れ込む冷たい空気が渦まくのを味わった。血を失いながらも屈辱と絶望による怒りの炎が、その空虚さを代わりに満たした。

 私の仔。私の魂。

 返せ!

 女は初めて意味のあることばを叫んだ。並み居る医師らはぎょっとして、マスクをした灰色の顔を互いに見合わせた。しかし作業の手を止めることはなく、暴れようとする女の腕にさらなる枷をつけ、無慈悲に止血を始めた。

 金属の揺籃に移される双つの赤い塊を睨んだ目から、泪が溢れて血の気が失せた頬を伝い、死んだ海藻のように広がった髪に沁みこんだ。

 脚の間に立ち、女の分娩を冷たい眼鏡越しに観察していた男に、医師らは金属の揺籃をうやうやしく捧げた。

「ウラヌス公爵。御子を」

 ウラヌスだと。

 女は鎖を噛み、唸った。咽喉が激しく震え、女陰のような形の声帯が、稲妻のように縦に裂けて女の全身をまっぷたつの肉塊にする気がした。幻想の血飛沫が噴水のように男に降りかかり、それが男の體をばらばらにする妄惑が、女の瞋恚を燃え立たせた。ウラヌス夫人、と呼びかけられた瞬間、胎内に渦巻く憎悪が噴き上がり、口をついて迸りでた。

「私をウラヌスの名で呼ぶのは誰か。その口を裂いて、身体中の粘膜にばらばらに縫いつけてくれよう。穢らわしい人類め。滅べ。滅べ。その口が、手が、成した業がめぐりめぐってお前たちを滅ぼす日を!」

 女の叫びに、男はまったく動じることなく、その供物のような嬰児に、長く目を奪われたように立ち尽くしていた。仔は怒れる母と同じように彩色の火花を放ち、この世に生まれ落ちてしまったことに泣き叫んでいた。




 月が無い夜。

 犯された夜、仔を産み落とした夜とおなじ、月が堕ちた真っ暗な天を見ることはできない。あの運命の時から、何度月は巡ったのであろう。

 出産の衝撃で朦朧とする女を、屍を移動させるように無造作に、人々は赤子から引き離した。女は最後の力を振り絞って仔を呼んで吠えたが、波間に消える小舟のようにあっけなく人間たちの手の群れの向こうに揺籃は消えた。それきり女の意識は途絶え、眼を開けたときには、空っぽの胎を抱えて独りきりであった。

 今、女が居るのは、あの忌まわしい銀の寝台がある塔の最上階ではなく、その地下にある四角い部屋であった。壁も床も天井も石を積んで造られており、一ヶ所だけ存在する扉にある鉄格子が嵌まった小窓の外もまた地下であり、盲るほど暗く、空気は湿り、濃厚な土と死の臭いがした。人類が作った坑道に似ていると女は思った。岩に腰かけて長い長い長い時を過ごしていた女にとって、坑道や鉱床は馴染みが深いものだった。

 女は、部屋の中央部の床に側臥したまま、鉛の分厚い扉の向こうに眼を向けた。草に宿る星明かりほどの蝋燭らしい光と、石の隙間を遠慮がちに吹き抜ける風が、扉の小窓からは射し込んでいる。だが、その光や風を恋しがるためではない。

 鉄格子の外には、常に誰かが立っている。その全貌は女には見えない。ただ、黒い肩と腕が見える。その腕には、地獄の門番のような槍が携えられている。

「お前は誰か」

 問うと、微かに身じろいだもので、女にはその誰かが生きたものであるということが解ったのだった。それ以外には、なにも答えはなかった。

 女は産褥に苦しみながらも生き延び、月のおもてのように白かったかんばせは灰色に変わり、両の眼から散るエメラルドの火花は暗がりのなかでその屍のようなはだを照らした。月は何度も消え、まるで打ち捨てられた骸のように女はただ牢獄のなかで横たわって窓を見つめていた。その乾いた唇は、時おり土が崩れるように動いて我が仔を呼んだ。

 双子の片割れは、生まれて数日で死んだ。窓の外を通った北風が知らせた。もう片方がどうなったのか、女は知らなかった。窓の外を吹きすぎるばかりの風は、生きている、ということしか女に伝えられなかった。

 実際のところ、女が生んだ赤子の、生き残った方は、研究室で育っていた。腹のなかにいる時から、九十四番、と研究者たちからは呼ばれていた赤子は、相応しい名前をつけられた。だが、女にはそれを知るすべがなかった。

 女が二人の赤子を産み落とした日、女を孕ませた男は日記にこう書いた。「最も興奮した日」と。女はそれを眼にする機会はなかったが、実験室の外を吹いた風から、その言葉を耳にした。女は歯茎から血が出るほど食い縛り、顎が砕けんばかりに唸った。手足を繋ぐ鎖の音が、雹の降る夜のように鳴り響き、増幅したその音は湿った石の壁と何重もの金属の壁を伝って、女の叫びを虚空に昇華させ続けた。

 己が仔を授けたなどと、思い上がるな。

 仔は、女のはらで育ち、女の乳で生きるのだ。

 あの悪夢の一夜のほかに、男の存在など、なんの価値もない。未来永劫。

 あれは女が生んだのだ。

 男など何するものぞ。仔を孕んだのは、女だ。この胎で育んだのは、女だ。男など、何もしてはおらぬ。あの仔は、己の仔だ。

 女の胸のうちで、そのような思いは日に日に膨れ上がっていった。そのせいかはわからないが、熱病のように痛みを伴って乳房は張り、仔を想うたびに血のように乳が垂れ流され服と床を汚した。火花が激しく散り、暗い虚空に無数の母の手の形をして咲いた。

 女には死んだ仔が哀れでならなかった。未だ生きている仔も哀れでならなかった。

 鉄格子の向こうの存在はけして女の方を向くことはない。朦朧と夢現の境も曖昧な牢獄の日々のなかで目を開けても目を閉じても常にそこに誰かがいて、しかしそれは灰色の男たちのように女を拘束したり辱しめたりもしなかった。

 月がのぼった。幾度も、幾度も、少しずつその輝きを取り戻しながら、堕ちた夜から血のくろさを増した禍々しい光で以て、少しずつ女の復讐心を甦らせていった。

 そして、幾度めかの月が満ちた晩、月日が岩山を崩すように、女は行動を開始した。風化した土肌が少しずつ削り取られ、その下に埋もれていた化石が露出するように、女の屍のような體は動き始めた。

 女は涸れ細った肉体で必死でにじり、這いずるように壁にとりついた。おこりのように震える指で暗闇のなか壁の凹凸を確かめ、やがてその積み石の継ぎ目を探り当てた。それは傷口から滲み出た血液の塊のごとく、息詰まるような漆喰で固められていたが、女はそこに爪を突き立てた。はじめは人差し指で、次は中指で──ひとつの指先が使い物にならなくなるまで漆喰の瘡蓋の縁を引っ掻いては、

 漆喰を少しずつ取り除いた。やがて、ひとつめの石を揺さぶって取り外すことができるようになった。それが叶うまで、何度も爪が割れ、剥がれたが、指先が削り落ちて骨だけになっても女は止めない覚悟だった。

 分厚い壁には、石の塊を幾つ重ねているのか見当もつかなかったが、隙間を吹き抜ける風から、確かに向こうには空間があるのだと女には解っていた。鉄格子の向こうに立つ誰かは、女を咎めなかった。ただ背を向け、亡霊のように佇んでいた。

 取り外すことができる石は、ひとつ、ふたつと増えていった。女の指先は磨耗し、縁がぎざぎざに割れた爪と肉の間には漆喰が入り込み、何もしなくても強烈な痛みをもたらした。滴る乳と、流れる血と、飛び散る火花が、牢獄中に撒き散らされた。

 石の向こうに感じる気配は日増しに強くなっていった。それは雪の下で芽吹く種や、雲間の光に似たほんのわずかなものだったが、確かなものだった。雨垂れが巖を穿つように、


 そうして、幾年が経ったろうか。


 積まれた石の隙間から、握りこぶしほどに小さな頭がのぞいた。自分とよく似た、銀光沢のある髪。まだほんのちいさな、この世に仔。

「お前が私の仔か」

 半ば茫然と、女は呟いた。仔は、大きなふたつの目をぱちりと瞬かせて、底に銀砂を沈めた火花散る両のまなこよりもずっと小さな口を開いた。

「あなたが私の母」

 女は石に爪を立て、我が仔のあまりに掠れた声を反芻した。母を呼び、啼きすぎてれたのか、仔の声は北風よりもかすかだった。女は、絞り出すように「そうだ」と呻いた。

「お前、名はあるのか」

 自分がつけたものではない名で呼ばれていることに対する悲しみに震える声で問うと、仔はもう一度目を瞬かせ、囁いた。

「プルート」

 「──プルート」女の食い縛った歯の隙間から、唸り声が洩れた。ふたつの牢獄を行き来する冷たい空気がその震えを伝えて、仔は不安そうに闇に沈む母のかんばせを見上げた。

「お前には姉がいたはずだ。名を知らないか」

 問われた仔は、か細い声で答えた。

「ネプチューン」

 「ネプチューン」女は息を洩らして、その名前を繰り返した。「ネプチューン」

 母の知らぬ名を焼き印のように与えられ、幼くして死んだもうひとりの仔を想って、女は膝をついた。己が魂の片割れ。永遠に半分の、我がいとしい、おそるべき仔どもたち。

「銀の髪。ネプチューンの遺髪」

 仔は、胸に下げていたロケットを掲げた。銀の種子の形をしたそれは月の光を受けて、冷たい星のように燃えた。

「ここに」

 女は腕を伸ばして、震える指でそのロケットに触れようと試みた。仔はせいいっぱいつま先立ちをして、ロケットを上に差し上げたが、女の割れた爪の先端もその表面に触れることは叶わなかった。月光が断層を照らし、爪の縁でも触れようと必死に衰えた筋肉が蠢き呼吸するたび、蒼白い母娘の隔たりはゆぅら、ゆぅぅぅら、と増幅していく。

 窓はなくとも、月が揺れているのがわかる。銀の環。神秘の象徴であったそれが今夜もまた、堕ちようとしている。

 女は能うかぎり仔に手を伸ばして囁いた。宙空で震える指からは血と火花が滴った。

「よく聞け、いとおしき、我が仔よ。

 ひとたび私が吠えれば、私の声の届くかぎり大地は我が領土となる。それを聞いた多くの人間は、軆の奥のそのまた奥に我が銃弾を受け、死に絶える。その子々孫々らは肉体の核に傷を受け、草木も獣も、その性に相応しい姿へと変貌するであろう。

 お前は私の仔だ。お前にも同じ力がある」

 仔は大きな眼を何度も瞬かせ、一時に与えられたその母のことばを飲み込もうとした。睫毛が上下するたびに生み出される火花は炎の切れ端となり、その小さくて、美しく、生まれもって邪悪なかんばせを彩った。その無垢ゆえに本質をあきらかにしている白い顔を見て、女は己と瓜二つだと思っていたその仔に、初めて父たる人類の、冷酷な面影を見いだした。そして、いよいよすべてに理解が及んで、見えない天を仰いで嘆息した。

 冥界を統べる者の名を与えられた仔。

 自分の電子を壜に閉じ込めていた人々を思い出す。色々な物質で自分を飾り立てたときに、それらは女がもたらした恵みだと人々は言った。火、鉄、蒸気、電気。人類は地球上のすべてを利用し、絶えず新しいものを獲ようとしている。それは富を得るためのものだけではない。女は生き残った我が仔を見つめ、血を吐くように肺を震わせた。

 この仔は、人類を殺すために生まれたのだ。

 女は狼のように軆を震わせ、幻のを逆立てた。不可視の弾けとぶ電子が毛並みのごとく輪郭をふちどり、女を輝く破壊の偶像にした。その光をちいさなかんばせにけた仔の皮膚もやがて、内側から白く、つめたくひかり始めた。

「月と風がおしえてくれる。やがて、我々はここから移送される。そして、恐らくはこの力を、科学の奴隷たちは利用し──兵器を作る」

 プルートの瞳から火花が迸った。それは母たる女のものと色こそ異なれど、同じ力を示すものだった。この粒子は人類を殺す。光線が大地をなぎはらい、辺り一面を変貌させる。

 岩に腰かけ、地球の営みを見つめていた時とは、すべてが反転したこの両のまなこ

 人類がみずから掘り起こした破滅の種子。

「我々は人類に囚われた」

 人類が人類として成ってから、手で、石で、火で、鉄で、知恵で、同胞を殺していくすべてを目の当たりにしてきた女は、遠くに「戦争」の遊ぶ声を聞きながら、あちらこちらの地上の傷痕に置き去りにされる「破滅の種子」を感じとる。

「行き着く先は兵器だ」



──飛行機の音がする──

──それは小さな少年の遊ぶ足音を無数に増幅したようにも──

──あるいは脂肪で気道が狭まった人間の唸り声のようにも──

──聴こえる。


・・・1945.8.6・・・

・・・1945.8.9・・・


・・・

──世界のあちこちに、奇妙な形の花が咲く──

──破滅の種子が爆ぜたあとに──

──奇妙な形の、灰色の雲の花が──

・・・


・・・1986.4.26・・・



・・・暗転・・・





「殺せるだけ殺し、利用するだけ利用し、あとはこうして牢獄のなかだ。差し詰め、ここは私たちの石棺というものだろうか」

 まるで祈りのような、石のドームの中。

 そこは北の地であり、人の気配は絶えている。

 胸をざわめかせるような厭にはっきりとした、鉄格子の黒い影が、喪章のリボンのように女とその仔に絡みついていた。

 女の問いかけに返事はなく、ひとりで呟き続ける。「もっとも、これで私たちを封じようなど、あまりにお粗末な出来だが」

 格子の向こうに立つ男は微かに身じろぎ、その衣擦れが響いた。

 人類の立ち入らぬ領域で、変わらず昼も夜も立ち続けるこの男が、人間であるはずもなく、かといって自分たちが死に至らしめた多くの人類のなかの亡霊とも女は思わなかった。女は低く、低く喋り続けた。自分の膝で睡る我が仔の髪をすきながら、子守唄のように──

「この石棺で、私たちを捕らえているつもりなのだろう。愚か者め。私たちが壊したものを見てきたくせに。──」

「──あれらは、火を得た時からそうだった。捕らえたのではない、やっとのことで、その尾をつかみ、なんとかその一部を絶えず監視のもとにおくことで、やっと御しているに過ぎない。またそれも、容易く破れる。──」

「──お前もそうだろう」

 男のかんばせを覆う面紗かおぎぬを見て、女は言った。その黒い喪の色に滲む、科学の枷の匂いを感じたからであった。月を孕んだ雲のように、黒い布はその向こうに輝く一対の金を、抑えきれてはいなかった。

「お前にも名が与えられたのか」

 金の目を持つ男は、鉄格子に向き直った。やはり人間離れして丈が高く、髪には不思議な金属光沢があった。白いかんばせを覆う布の下で、薄い唇がゆっくりと動く。

「───"ジルコニア"」

 女はまじまじと、相手の瞳を見つめた。それは地平線に燃えるあかつきのような神秘の黄金だった。

「"金色"か。また単純な名だな」

 だが余計な思念の混ざらぬ名だ、と女は俯いた。男は沈黙したまま、永遠を感じさせるその黄金で、牢獄のうちを飛び回る蜜蜂のように、光の粒が浮かび上がらせる母子像のような姿を見つめかえした。

 女が短く息を吹くと、呼気をエメラルドの電子が弾けて取り巻く。その美しい火花を指さし、女は低く言った。

「これは私の命の火花だ。私たちは、いつか死ぬ。何万年かかるかは知らぬが」

 黒い男は、しんと静かな瞳でその粒子の踊りを見つめていた。エメラルドや紫の電子が散らばり、やがて見えなくなるのを、金色の両眼で、ただ見つめていた。男の軆は薄暗い完全を帯びて、美しい火花を撒き、燃え上がることはなく、その輝きは光輪のように静かであった。

 瞬間、確かに瞳の光沢の間を火花が行き交った。それは岩盤の奥の宝石のごとく、"ただそこに在る"ことが本質であったものの融合であり、同調であった。男の乾いた薄い唇が動いた。

「いつか、また自由になる。人類が滅んだ時に」

 女の唇が弧を描いた。膝の上に、弾けとぶ粒子の熱を感じる。仔が眼を開けて、女を見上げた。その瞳は、呪わしき科学の父なる人類の命を穿つ光を自然の母と共有している。

 自然から、火を、鉄を、ただそこに在ったものを獲るたびに、己がその創造主(あるいは代理人の資格を持つ)かのように傍若無人に振るい、食い潰し、錯覚と驕りの塔を築き上げてきた人類。遂に、真にその手で、自然を犯し、造りだした破滅の種子によってほろび去る。人類に犯された復讐でも意志でもない、それがこの命を持たぬ「女」の、極限に純粋の本質であるのだから。

 永遠はその光を見届ける。その花が石を突き破り、砂を吹き上げ、海を蒸発させ、世界を覆い尽くすさまを。女の火花に照らされながら男は囁く。

「その時までは、俺はここにいよう」

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