自分のことを知っている人が減っていく怖さ 前編

 ――五月。

 ゴールデンウイークだけを心の支えに、社会の奔流に溺れまいと毎日を乗り切った。

 特にこれと言って大きな出来事があったわけじゃないのだが、日々生きていくだけで相変わらずいっぱいっぱいの日が続いていた。

 二十日の少し前、心療内科にてわたしは精神科医に言った。


「もう、通わなくても大丈夫です」


 約一年半、わたしのことを診てくださっていた先生から反論はなく、


「そうですね、わかりました。お元気で、過ごされてくださいね」


 そう優しく笑みを湛えて、送り出してくださった。

 今もまだあの時の恐怖が抜けないわけじゃなく、机の上に精神安定剤は置きっぱなしになっていることも、それ以来一度も飲んだことがないことも、戒めや、覚悟の上に成り立っている今があるのだろう。


 それを少し過ぎて六月に入った頃、母からから電話が来た。

「おばあちゃんの具合がよくない。そろそろかもしれない」

 母方の祖父が亡くなったのはもう五年くらい前。

 当時「もうすぐ私も行くよ」と泣きながら遺体にすがっていた母方の祖母にも、残された時間は少なくなっていた。

 母は急ぎで飛行機のチケットを取り、祖母のもとへ向かうという。

 コロナが流行り始めた頃からわたしは祖母に一度か二度会ったきりだが、その頃は老人ホーム内に併設されたカフェで、一緒にケーキを食べる元気があったのだが、時間というのは本当に残酷だ。

 母から連絡が来たときはまだ危篤というほどでもなく、様子を見にいく程度の温度感だったのでその時は一緒に向かうことはしなかった。

 職場には「近々休みをいただくかもしれない」という一報は入れておき、今年入社したばかりの会社に慶弔休暇の制度の確認はしつつ変わらない時間を過ごしていたが、それから一週間後くらいには「危ない」という話が連絡が来て、そのタイミングで「最後のお別れ」を言うために週末わたしも祖母のもとへと向かうことになった。

 でも、残念ながら生前のお別れを伝えることは叶わなかった。

 でも……、不謹慎ながらわたしの胸中は少しホッとしてしまった瞬間があったのも事実だった。


 祖母の訃報を受けた後、母からの電話でその最期の様子を聞いた。

 軽度の認知症を発症し言葉も話すことができなくなっていたとも聞いていた。

 そして、その頃になって子宮がんを患っていたことも知った。

 年齢が年齢だけにがんの進行も非常にゆっくりで、摘出などをすることもなく緩やかに見送るという話もしていて、余命も数か月だろうという話もしていたのに、実際は数週間という「せっかちに」灯は消えてしまった。

 わたしが、お別れを言わなくて済んだことに少しホッとしてしまった理由は、「きっと、顔を見てもわたしのことを覚えていない」ということがわかってしまっていたからこそ、現実と向かい合うのが怖かった。

 何年か前に会った時にも、祖母の中のわたしの時間が大学生になる直前と、社会人になって間もない頃まで巻き戻って、行ったり来たりしまっていたのを感じて胸が痛んで、向き合うことが辛かったからだ。

 そして、残されているのがもう両親しかいないという事実と、刻々と迫る時が急に怖くなってしまった。

 わかっていたことなのに、どうしようもないことなのに。

 わたしはこれまで何をしてきただろう、何ができるだろう。

 いつか必ずすべての者に等しく訪れる瞬間が、こんなにも怖くなるなんて思いもしなかった。


 いずれは一人ぼっちになってしまうこと、こんなにも怖いという気持ちなんて知りたくもなかった。

 そんなことをついポロっと母に漏らしてしまったならば、母は、

「順番だからしかたない」

 と笑って言った。

 なんの解決にもなってない、とわたしは内心毒づいた。

 そんな時、わたしは決まってこう言い訳するんだ。


――それだけ自分が、大人になったということだ。

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