【番外編】知ってるパン、知らないパン (『キッチン「今日だけ」)
2023年11月25日発売『キッチン「今日だけ」』(KADOKAWAメディアワークス文庫)の番外編です。
エピローグにちょっぴり登場しただけの脇役から、主要な登場人物を見てみれば……のサイドストーリー。ネタバレはほぼなし。
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毎日同じ時刻に出かけると、季節が正確にめぐっていくのがよくわかる。
朝五時。
冬には星のまたたいていた空は、八月の今、すでに明るい。
太陽は出ていないけど、もう文字まではっきり読める。
日の出と日の入りが季節によって変わっていくことも、その理由も、理科で習った。それでもつくづく、不思議だと思う。
近江八幡駅近くの実家から、車を走らせて十分。
ホテル・ヴォーリズの門はすでに開いていた。
レンガの塀に囲まれた、三角屋根の西洋建築。アーチ窓の並ぶ壁には、緑のツタが這っている。
この建物を設計したヴォーリズという建築家を、俺はずっとローカルな存在だと思っていた。「むかし近江八幡に住んでいた、地元の人間しか知らない外国人のおじさん」程度の。
大阪の百貨店や東京のホテルをはじめとして、各地にその作品が残っているのだと知ったのは、大人になってからだ。
駐車場に車を止め、保冷箱とコンテナを運び出す。
ホテルの裏口から中へ入り、フロントへ。
「あよっす」
声をかけると、花の形のランプの下で本を読んでいたばあさんが顔をあげた。
白いブラウスに黒のエプロンドレス、後ろでまとめた髪。
眉をひそめて、口を開く。
「きちんとお言い」
俺が若いからなのか、孫の友人だからなのか、明らかに「利用者」ではなく「近所の子ども」扱いだ。
「……おはようございます」
しぶしぶ言い直すと、ばあさんがクリップボードを差し出してくる。
「おはよう。開いてるよ」
ボードに挟まれた利用申込書には、「
いつも通りのやり取りを経て、レストランスペースへ。
「キッチン 今日だけ」
入り口に記された店の名前。
昔は別の名前だったはずだ。どんな名前だったのか、もう思い出せない。
正式名称を知らなくても、「レストラン」といえばここだったから。
祖父母の誕生日とか、両親の結婚何周年とか、そういうお祝いのときに、ちょっといい格好をしてここへやってきた。
「泊まれるレストラン」だった建物は、今ではただのホテルになり、レストランはシェアキッチンになった。
金曜日と日曜日の朝、俺はここで実家のダサいパンを焼いて、売っている。
🍞 🍞 🍞
五時半から九時まで、ひたすらパンを作った。
実家である本店から運び込んだパン種を切って丸めて、焼く。具材を挟んだり、クリームを塗ったりもする。
パン作りに特化していない設備にも、オーブンの癖にも、もう慣れた。
俺一人で回すのなら、ここの設備で十分事足りる。
途中で妹が本店からやってきて、パッキングしたパンを運び入れる。
あんパン、クリームパン、あんドーナツ、牛乳パン。
透明な袋に印字された、野暮ったい字体の店名と商品名。
「ベーカリー松尾」は、ひいじいさんが始めた店だ。
地元密着のパン屋としてそれなりに人は来ていたのだが、インターネットが普及してからさらに人が来るようになったと、親父は言う。
俺にはダサいとしか思えない店の佇まいやパンのパッケージが、「レトロ可愛い」ともてはやされるようになったのだ。
何が可愛いのか、俺にはさっぱり理解できない。
でも、本店とは別にここで週に二日だけ出店しても、客は来る。
「おはようございます」
十時過ぎ。
閉店時間を迎えて片付けに入ったところで、ホテル側の入り口から
シャツにベスト、スラックス。
ホテルスタッフとしての格好をした櫂くんは、今日も大変な男前だった。真夏だというのに、汗の気配も感じさせない涼やかさ。
「おはようございますぅ」
普段より声を高くして、妹が笑顔を作る。
「なんだよ、その声。気持ち悪ィな」
顔をしかめて言ったら、即座に脇腹に肘鉄を食らった。
いつもの二倍まばたきをしながら、妹が言葉を重ねる。
「いつも兄と仲良くしていただいてありがとうございますぅ。こんなガサツな兄で、申し訳ありません」
「こっちこそ。僕、こっちに来たばかりのときに裕貴くんにはずいぶん助けてもらったんですよ」
櫂くんがそう言って、俺を見た。
「真面目に仕事してるし、パンの研究には熱心だし。いいお兄さんです」
体がむずがゆくなる。
妹は「櫂さんが言うなら、そうなのかもしれません。うちのクソ兄貴でも」などと言いだしそうな顔つき。もはや宗教だった。
「今日、ミッシュブロートある?」
櫂くんが訊いた。
俺がここで出店する日、彼はいつも残ったパンを買ってくれる。
「余ってるよ、たくさん」
思わず顔が渋くなる。
俺の作るドイツパンは、大抵売れ残る。
「よかった。じゃあ、木曜日までの分を、四つ」
「気、遣わなくていいよ」
いつもより多い量に、俺はそう言ったのだが、櫂くんはあっさりと答えた。
「いや、
気に入らない女の発言であっても、好きだと言われれば嬉しくなってしまう。
複雑である。
🍞 🍞 🍞
俺が実家の「ベーカリー松尾」に戻ってきたのは、二年前の秋のことだ。
勤めていた店が資金繰りでごたついていたとき、実家から電話がかかってきたのだ。
近況を話すと、母親は懇願した。
「それなら、お願い。こっちに戻ってきて。お父さんが転んで骨折して、大変なの」
俺を呼び戻したのは親父の意向に決まっているのだが、親父はそういうことを自分では言わない。息子に頭を下げたりしないのだ。
おまけに親父は、戻ってきた俺に、
「俺の目の黒いうちは、好きにさせない」
などと言った。
「勝手にレシピを変えるなよ」
と釘も刺してくる。
助けを求めておいて、なんでそんなに偉そうなんだよ!
そう思ったが、口にはしなかった。
昔は親父のそういうところが、腹立たしくてならなかったが、親の老いを目の当たりにすると、変な遠慮が働いてしまう。親父も俺も、そういう歳になっていた。
櫂くんが現れたのは、そんなふうにして俺がこっちに戻ってきて間もない時期だった。
ドアを開けて彼が入ってきたとき、「ベーカリー松尾」の店内はしんと静まり返った。
確か、平日の十一時くらいだったと思う。
店にいたのはうちの家族と、近所のじいさんばあさん、おばさんくらい。
店内の視線が一斉に集中した。
品出ししていた俺も手を止めて、入ってきた男を呆けたように見ていた。
背の高い、どえらい美男子だったのである。顔立ちが整っているだけじゃない、取り巻く空気が透明だった。
「こんにちは」
戸惑ったように、彼は言った。
「いらっしゃいませ」
「い、いらっしゃいませ」
俺に続き、母親と妹がうわずった声を出した。
店内の視線を集めたまま、櫂くんは店を一巡し、いくつかパンを買った。
見ようと思わなくても、自然と視線がそっちに向いてしまう。
「ご旅行ですか?」
レジで応対した母親が訊くと、
「いえ、こっちに引っ越してきたばかりなんです」
彼は柔らかい口調で答え、母親が次の言葉を発する前に付け足した。
「近くにベーカリーがあってよかった。またうかがいますね」
爽やかな微笑を残し、店内の客に一礼して、彼は去っていった。
事情を知った後では、あのとき、圧倒的な「感じのよさ」で詮索を封じたのだとわかる。
でも、そのときは、誰もそれに気づいていなかった。
櫂くんが出て行った途端、店内は騒然となった。
「どこの子や、あれ」
「きれいな顔してるわ」
「俳優さんか思ったわ。よう撮影してはるさかい」
八幡堀の辺りは、時代劇や映画の撮影でよく使われているのだ。
その影響で、うちにはたまに芸能人や撮影の関係者が来る。
田舎の年寄りの最大の娯楽は、噂話。
その日のうちに、謎の美男子に関する情報は集まった。
「ほれ、昔レストランやった……あの
「ああ、
「マキコの息子や」
「ああ、マキコも見れくれはあれやったさかいな」
近所のジジババたちの口にする固有名詞には、知らないものも多かった。
でも、「八幡堀の近くにある小さなホテルのオーナーの孫」だということは確かであるらしかった。
二回目に会ったのは、その数日後だった。
駅近のショッピングモールで、たまたま鉢合わせしたのだった。
当然、俺は向こうを覚えていたが、櫂くんも俺を覚えていたらしい。
見た目で歳が近いことはわかるし、関東から戻ってきた者同士という共通点もあった。ほぼ初対面だったにもかかわらず、わりと簡単に親しくなった。
俺は結構あれこれしゃべったように思う。
横浜のドイツパンの店に勤めていたこと、帰ってきた経緯、修業先のパンがいかに旨いか。
櫂くんは俺と目を合わせて、静かにうなずきながら聞いていた。
あのときの目。
自分が、自分のやりたいことが、たいそう価値のあるものだと思いこまされてしまうような目だった。
あんなふうに肯定されてしまったら、思い切れない。
「キッチン 今日だけ」に支店を出すことになって数ヶ月後、「そっちでなら、一日一種類だけ、自分の好きなパンを焼いていい」と親父から許可が出ると、俺は修業先で焼いていたドイツパンを焼いた。
びっくりするくらい、売れなかった。
さすがに気が咎めて量は減らしたものの、俺は今も自分の売りたいパンを作り続けている。
🍞 🍞 🍞
金曜日、「キッチン 今日だけ」での出店を終え、立て看板を片付けに外へ出た。
見ると、出店予告の看板も一緒に外に出ていた。
喫茶店、台湾粥、カフェ、定食屋。
並んだポスターの中で、ひときわ目を惹く菓子の写真。
✿✿✿✿✿
小花菓子店
8月20日(土) 14:00~17:00
夏のクッキー缶は要予約(8月14日まで)
✿✿✿✿✿
皿の上に並んだレモン型のクッキーは、白から黄へのグラデーション。
淡いグリーンのジャムを乗せたブローチみたいなデザインのクッキーに、植物の模様を描いたアイシングクッキー。
花の飾りのついたパウンドケーキに、焼き印で店のロゴを入れたフィナンシェ、マドレーヌ。
見た目にも華やかな菓子の数々。
「新しいアルバイトさんが来てくれることになったよ。もともとは『今日だけ』の利用者として来てくれた人なんだけど。これからはキッチンの受け渡し、彼女にしてもらうこともあると思う。確か、裕貴と同じ歳じゃないかな」
そう俺に伝えてきたとき、櫂くんはその「小花さん」の作る菓子のことばかり言っていた。
アイシングの線のゆがみのなさ、作る菓子の一貫したムード、色合いのセンス。
本人が可愛いかどうかとか、性格とか、そういう話は一切しなかった。
今ならその気持ちがわかる。
この菓子の写真を見たら、そんなこと、どうでもよくなってしまう。
焦燥感と悔しさが、ぎりぎりと胸を圧迫する。
最初に「小花菓子店」のサイトを見たときから、俺は常に焦っている。
同じ歳の人間が一人ですでにここまでやっているのに、俺はほとんど何もなしとげていない。
実家で不満ばかり言ってくすぶっている場合ではなかった。
🍞 🍞 🍞
胸の「ぎりぎり」を抱えたまま、立て看板を持ってレストランスペースに戻ると、
「いいよね、『松尾』の牛乳パン。ふわふわでクリームが甘くてさ。俺、小学生のころから大好き」
買ったパンの包みを手にして言う。
うちはイートインをやっていないから、レストランスペースを借りていても、客席は使わない。
この人が勝手に座っているのは、ホテルの支配人だからだ。
支配人といっても、この人はほとんどホテル内にいない。スタッフらしい格好をしているところも、俺は見たことがない。
今日も、なぜか「水郷」と染め抜かれた
櫂くんの話だと、歳は四十かそこらだったはず。
年齢のイメージからはかけ離れた、落ち着きのないおっさんである。
「小学生も、中学生も、高校生も、みーんなお世話になるわけじゃん、『松尾』のパンに。お小遣いでも買えて旨い、長~く愛され続けるロングセラー」
矢吹さんはパンの包みを両手で掲げ、仰ぐようにする。
「そうっすかね~」
あらかた片付けの終わったレストランスペースでコンテナを積みながら、俺は気のない返事をする。
パッケージや見た目は超絶ダサいと思っているが、別に俺は実家のパンを全否定しているわけじゃない。
何しろ、俺はパンの売上で育てられてきたのだし。そもそも、パンが嫌いならパン職人になろうなんて思わない。
うちのパンを子どもが好きなのもわかる。ふわふわした菓子パンや惣菜パンが、俺も子どものころは好きだった。
でも、うちのパンは小麦の味がしない。卵やコロッケ、グレーズやクリーム。具材やソースの味に、パン生地が完全に負けている。
みっちりと目の詰まった、素材の味がするパンの方が旨くないか?
他を知らないから、「松尾」のパンをもてはやしているだけなんじゃないか?
そう思う。
しかし、俺の旨いと思うパンは売れない。
食べてみればおいしさがわかると思って試食できるようにしてみたこともあるが、「固い」「酸っぱい」と言われただけだった。確かに、ライ麦には酸味がある。それも慣れれば旨さにつながると思うのだが、まず「手にしてもらう」ところにさえたどり着けない。
修業先の店で、その「硬い、酸っぱいパン」はひっきりなしに売れた。
辞める前の一年ほどは、店に出すものの一部も俺が作っていたので、腕の問題ではないはずだ。
矢吹さんはしばらく黙って俺の顔を見ていたが、テーブルの向かい側を指さす。
「まあ、座りなさいよ、四代目」
「四代目じゃないし。俺が後継ぐなんて決まってないっすよ」
椅子に腰かけて答えると、矢吹さんは目を丸くした。
「え、そうなの? みんな四代目って呼んでるから、決定なのかと思った」
「長男だからって、周りが勝手に言ってるだけ。妹が継ぐって言ってるし」
「ベーカリー松尾」のパンは、俺の作りたいものではない。
でも、だからといって実家がどうなってもいいとは思わないし、「昔ながら」を守ることの価値も、わからないわけじゃない。
だから、妹が継ぐなら継ぐで、構わない。俺の力が必要なうちは、力も貸す。
幸い、俺はまだ結婚もしてないし、身一つだからどこへでも行ける。
ふーん……と相槌を打った矢吹さんは、レストランの窓を指さした。
「たとえばさあ、この葡萄。葡萄ってうまいよね。あれ、なんでうまいと思う?」
アーチ型の窓の上のほうはステンドグラスになっていて、紫色の葡萄がつるや葉とともに描かれている。
俺は短く答えた。
「品種改良したから」
「正解! ……なんだけど、もともとうまいのをさらにうまくしたり、種類を増やしたりするのが品種改良。葡萄はもともとうまい! それは、動物に食わせて、中の種を運んでもらうため! 種だけ見せても誰も手に取ってくれないから」
話の途中で、ホテル側の入り口から小花が入ってきた。
白い半袖ブラウスに黒のエプロンドレス。
厨房のチェックをしていたパートの人と交代して、クリップボードを受け取っている。
俺の意識はそっちに引っ張られていたのだが、矢吹さんは全く気にせず語っている。
「甘い果実で釣って、種を手に取らせる。同じ! 君の売りたいものは、まだ価値が知られてない商品。だから、これだけ売っても人は来ない。すでに信頼がある、お父さんのパンで呼んで、店に来てもらう。――嫌な顔しない! 店に来たお客さんは、そこで初めて君のパンを知るわけでしょ。本店とは別に、ここで店をやる意味って、そこじゃない?」
「もうやってんすよ、それは」
「そうかな~? まだ方法があるんじゃない?」
「――例えば?」
「言わない。君、あまのじゃくだから。俺が言ったらそれとは別のことやろうとするでしょ。自分で思いつかないと納得しないタイプ」
むっとしたが、確かに俺にはそういうところがある。
「『松尾』で売れた君のパン、全くのゼロじゃないでしょ?」
「……まあ、シュトレンと、プルンダーブレーツェルは、多少」
「シュトーレン……あの、ドライフルーツとかナッツが入ってる甘いやつね。クリスマスの。割と日本にも浸透してきたもんね。あと、えーっと、もう一個、何? プルプルなんとか」
「プルンダーブレーツェル。こういう輪っかにした菓子パン。デニッシュ生地にカスタードクリーム塗って作る……」
手で形を示して、俺は説明する。
知恵の輪みたいな、ブレーツェルの形。日本でも「プレッツェル」の名前で知られている。
スタンダードなそれは、試食の段階で「硬い」と文句言われたのだが、生地を変えて甘みを足しただけで、反応が随分違った。
「デニッシュリングは、『松尾』にもあるもんね」
矢吹さんがそう言ったとき、新しく人がやってきた。
「こんにちは~」
「あっ、こんにちは!」
厨房から出てきた小花が声を弾ませる。
どうやら知り合いらしい。女三人でキャッキャと会話を弾ませている。
時計を見ると、うちの利用時間はとうに過ぎていた。
俺は慌てて立ち上がった。
尻切れトンボのまま会話を終えて、退散する。
ヒントだけ、心に留めた。
日本でも浸透しつつあるシュトレン。そして、「松尾」にあるデニッシュリングに似たプルンダープレッツェル。
🍞 🍞 🍞
翌々日の日曜日、うっかり客用のパントレイを持ってくるのを忘れて、「今日だけ」の備品を借りた。
受け渡しの手続きにやってきた小花に、事後報告する。
「確か、カウンターには十枚しか置いてなかったはずですけど、足りました?」
クリップボードを片手に、小花が尋ねる。
作る菓子を見ると「ぎりぎり」するが、顔を見ると、可愛い、と思ってしまう。
美人じゃないけど、小作りで、垂れ目で。
「あー、戻ってきたやつをすぐに消毒して再利用したから、なんとか」
俺が言うと、小花は厨房に顔を向ける。
「あっちの棚に予備があるんですよ。次回はそれも使ってもらって構いません」
誘導されて、厨房に入った。
小花は背伸びをして、棚の上に手を伸ばす。
背が低くて、上に手が届かないのだ。
編み込んだ髪がうなじの上でくるんと丸められているのを見ると、編みパンみたいで胸が締めつけられる。
俺は無言で棚の上のトレイを取った。
「ありがとうございます」
「あんた、ほんと小せえな!」
手のひらを垂直に上下させて俺が言うと、笑顔を作りかけていた小花はきょとんとして俺を見た。
まん丸い目。
「――松尾さん。川端さんのお友達だから言いますけど」
真顔で俺の顔を見上げたまま、小花は言った。
「そういうコミュニケーションが許される時代じゃないんですよ」
いきなり刺された。
🍞 🍞 🍞
ホテルの裏にある離れは、オーナーである川端一家の住まい。
そのダイニングキッチンで、カウンターに向かっていた櫂くんは背を向けたまま言った。
「刺してないよ。どちらかと言うと、刺したの、君でしょ」
「普通の会話だろ!?」
びっくりして俺が言うと、櫂くんが振り向く。
「ただの失礼な発言だよ。だいたい、背が低いって相手に言って、何て答えてほしいの」
黙った俺に、小花が言う。
「そうですよ! しかも川端さんに言いつけて!」
テーブルでパウンドケーキらしきものを切りながら、憤る。
「小さいって、悪口かぁ? チビって言うならともかく」
「悪口かどうかは、言われたほうが決めるんです!」
「ナイフ、こっちに向けんなよ!」
俺と小花が言い合っていると、櫂くんがテーブルにサンドイッチののった皿を持ってきた。
皿を置き、身をかがめるようにして小花の顔を見る。
櫂くんと小花の身長差は三十センチ近くあった。
「すいません、小花さん。うちの裕貴が失礼なこと言って……」
オーナーの孫だというのに、なぜか櫂くんは歳下のアルバイトの女に敬語でしゃべる。
「うちの裕貴って、オカンかよ……」
「僕、裕貴が可愛いんです。一人っ子だったから、弟がほしくて」
照れもせずに、櫂くんは小花に向かって言った。
「いや、そういうのやめない? あの、マジで」
動揺しつつ、俺は言う。
足元からむずがゆさが立ち上ってくる。
櫂くんにはこういうところがある。普通、そんなこと面と向かって言わないだろ、と思うような好意や賞賛の言葉を、真面目に口にする。
「川端さん、ほんと、すぐそういうこと言いますよね!」
小花がふくれながら、ケーキを皿に並べる。
サンドイッチとサラダ、ケーキの並んだ食卓で、櫂くんが缶ビールを開け、二つのグラスに注いだ。
週に一度、ホテルは休みを取るのだそうで、今週は今日の昼から明日の昼間までがその休日。
小花はアルコールが飲めないらしく、櫂くんがグラスにオレンジジュースを注いでいた。
俺も、支店を出す日の午後は休みだから、遠慮なくビールを飲む。
小花が切っていたのは、甘くないケーキ――ケークサレだったらしい。櫂くんが作ったものだ。
玉ねぎと角切りベーコン、チーズが入っていて、塩が効いている。
素朴な見た目だが、玉ねぎの甘みとチーズとベーコンの塩気や脂がビールによくあった。
小花はおいしいおいしいと言って、サンドイッチを食べている。
パンはミッシュブロートを薄くスライスしたもの。小麦粉とライ麦粉を混ぜて作ったもので、今回はライ麦粉のほうが多め。
具材は、くるみとクリームチーズ、スライスチーズとハム、生ハムとレタスの三種類。パンの厚さと具材の量がちょうどいいバランス。ライ麦の酸味と香りがしっかり味わえるから、具材がシンプルでも物足りさは感じない。
小花があまりにも「おいしい」を連発するので、つい言いたくなってしまった。
「それ、俺が焼いたパンだけど」
サンドイッチで頬をふくらませていた小花が、口の動きを止めて、俺を見る。
しばらく黙ったまま口を動かしていたが、中身を飲み下してから言った。
「パンに罪はありません」
「……俺にはあるって言ってる?」
小花が返事をしたら、再び口喧嘩になっていただろう。
そうなる前に、櫂くんが口を挟んだ。
「このパンには、バターよりオリーブオイルのほうが合う、って裕貴に聞いたんですよ。パンの香りが強いから」
「いい匂いです」
小花がパンの匂いをかぐ。
俺はもぞもぞしてしまう。
あまりにも売れないから、旨そうに食べてくれるだけで、好意が「ぎりぎり」を上回りそうになる。
「あんた、ドイツパン好きなの?」
訊くと、小花は不思議そうに俺を見た。
「これ、ドイツのパンなんですか。知らなかった」
「いや、前に言いましたよ。パンの名前も何回か言った!」
すかさず、櫂くんが突っ込む。
俺のほうに顔を向けて、櫂くんは悲しげに言った。
「小花さん、本当にお菓子にしか興味ないから……。僕が作る料理の名前も全然覚えない。最近、毎回説明してるのに」
「そんなに旨い旨いって言ってるくせに、気にならねえの? パンの種類とか名前とか」
眉をひそめて、俺は訊いた。
再びサンドイッチで頬をふくらませていた小花は、まったく頓着しない様子で言う。
「自分でパン買ったり、作ったりしませんし……食べるぶんには『おいしいサンドイッチ』で十分なので」
俺はまじまじと小花の顔を見ていた。
驚いていた。
旨い旨いと食べていても、その名前や材料に興味を持たない人間がいる。
そういう人間にとっては、どんなパンを使っていても、具材が挟んであったら全部「サンドイッチ」でしかないのだ。
🍞 🍞 🍞
薄焼き卵にハム、きゅうり。
千切りキャベツに、たっぷりソースを馴染ませたコロッケ。
卵とマヨネーズ、塩胡椒に、ほんの少しの生クリームを混ぜ込んだ卵サラダ。
いつも通りに具材をパンに挟み、熱が取れたらパッキングする。
「ベーカリー松尾」の定番のサンドイッチ。
冷蔵ショーケースに並べて、商品名の札を置く。ミックスサンド、コロッケサンド、卵サンド、生ハム&クリームチーズサンド。
「キッチン 今日だけ」に出店するときは、九時に二度目の焼きたて食パンを出したら、売り切れ御免。追加で焼くものはない。
日曜日は朝から人も多いし、妹と一緒に俺もレジに入った。
「おはよー!」
着物に袴、ひっつめ髪のへんなおっさんがレジに来た。
と思ったら、矢吹さんだった。
「おはようございます」
「あよっす」
妹に続けた俺の挨拶に、矢吹さんがぴくりと片眉を動かす。
そして、厳かな口調で言った。
「きちんとお言い」
オーナーのばあさんの真似だった。俺は笑う。
妹がレジ打ちをして、差し出されたエコバッグに俺が商品を詰める。
卵サンド、生ハム&クリームチーズサンド、牛乳パン、クリームデニッシュ。
サンドイッチはこれで完売だ。
「いいじゃん、『新作』」
矢吹さんが言った。
「正解?」
尋ねると、侍コスプレのおっさんは片目を閉じて、首をひねる。
「どうかな~。あまのじゃくは『正解』って言うと、やめちゃいそうだから」
「いや、そこまでひねくれてないから」
コロッケサンドの隣、素知らぬ顔で並んでいた生ハム&クリームチーズサンドのパンは、カイザーゼンメル。
硬い生地で覆われたロールパンだが、コロッケを挟んだ丸パンと大きさを揃えてある。
矢吹さんの言いたかったことは、つまり、「知らないものを人は買わない」ということだった。
修業先の店に来ていたお客は、ドイツパンを買いに来た。
味と食感を知っていて、それを好んで選んでいた。
でも、「ベーカリー松尾」に来るお客は、昔ながらの「松尾」のパンを買いに来る。
食べ慣れていて、なじみ深い、安心できる商品を。
「松尾」では、「カイザーゼンメル」の名前で売っても、売れない。知らないパンを、お客は買わない。
でも、「サンドイッチ」はみんな知っている。
蜂蜜を塗り、クリームチーズと生ハムを挟んだパン。「サンドイッチ」として食べたそれの、カリッとした皮の歯ごたえとさっくりした食感を、旨いと思ってくれる人はいるだろう。そうして自分でサンドイッチを作ろうと思ったとき、「カイザーゼンメル」を買ってくれる人も出てくるだろう。
そうやって少しずつ、「知らないパン」を「知ってるパン」にしてもらうしかない。
🍞 🍞 🍞
妹を先に帰らせ、後片付けを終えたところで、キッチンの受け渡しのために小花がやってきた。
「
客席に居座っていた矢吹さんが、はしゃいで言う。
小花は何度かまばたきをして、それから俺の顔を見上げた。口の端を持ち上げて、ちょっとだけ笑みを作って言う。
「よかったですね」
厨房チェックしまーす、とそのまま奥に入っていく。
興味なし。
「……」
矢吹さんが気の毒そうに俺を見ていた。慰めるように言う。
「彼女、恋愛の偏差値23だから……」
「恋愛じゃねえし」
「ほら、そういう『面倒くさい男』なとこがさぁ……」
同情込めた視線を振り払い、積んだコンテナを運び出す。
レストランスペースに戻ってきて利用申込書の写しを受け取ると、小花が無言で俺のシャツのポケットにダブルクリップで小さな包みをくっつけた。
「あげます。受注生産で合格祝いを作ったので」
魚の形のクッキーのようだった。
車に戻ってからクリップを外して見ると、ずんぐりとした魚のシルエットに見覚えがある。
”めで
ベタすぎるだろ……と思いつつ、透明な袋に入ったクッキーをポケットに入れる。
早く俺のパンを売れるようにしなければ、と思う。
旨い旨いと言って食べてくれる人、完売を祝ってくれる人を増やさなければ。
そうでないと、数少ないそういう相手が特別になってしまう。
〈了〉
番外編置き場 十三湊 @Minato1305
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