【前日譚】兆しの朝(『出張料理みなづき』)
『主張料理みなづき 情熱のポモドーロ』(幻冬舎文庫より発売予定)の前日譚。
こんなムードのお話です。
***********************
🍴
朝起きられない。
それだけですでに、社会から振り落とされた気分になる。
寝つけないままに迎えた午前四時ごろから絶望の気配が漂いはじめ、気を失ったかと思ったらすでに午後。予想通りの脱落に打ちひしがれる。
その日は、目覚めたら午前五時過ぎだった。
確かに、朝、起きた。
けれども、日付がひとつ飛んでいる。
二日間、不眠でぼんやりしていたあと、二十時間近くこんこんと眠り続け、わたしの一日は、眠りのうちに消えたのだった。
学生時代、自分が毎朝元気に起きて、部活の朝練に向かっていたということが、すでに信じられない。
起きていたところで、無職の身にはするべきこともない。でも、世間のリズムに合わせて生活できない時点で、社会復帰の望み薄。果てしなく気分が落ち込んでくる。
「
底冷えのする下宿屋の食堂で、ダウンコートを着込み、水筒に入った梅昆布茶を飲んでいたら、足音が近づいてきた。
いつも後ろで結っている黒髪をおろし、パジャマの上にフリースを着ていた。
「……ごめんなさい、起こしちゃった?」
わたしは慌てて訊く。
空き部屋を一つ隔てているとはいえ、同じ一階に住んでいる。大きな音を立てないように注意していたのだけど。
「ううん。いつもこれくらいの時間に起きるの。季実ちゃんも、いま起きたとこ?」
「うん……。ごめんなさい、またごはん食べられなかった。ずっと寝てて」
わたしは身を縮めた。
大家であるおばあちゃんとわたしの食事を作っているのは、桃子さんだ。
ここへやってきてからもうすぐ二週間。
その間、彼女の作ったものをできたての状態で食べることができたのは、数回のみ。
ごはんの時間は決まっていて、「タイミングが合わなかったら自分で温めて食べてね」と最初に言ってくれていたけれど、やはり申し訳ない。
「季実ちゃんの分は、冷凍庫にストックしてるから、別にいいの。それより、季実ちゃん、元気だったら、今から買い物に行かない?」
わたしは窓の外に目をやる。
「まだ真っ暗だよ」
「もうすぐ明るくなるわよ。二十四時間やってるスーパーがあるから、そこへ行きましょう」
🍴
桃子さんは、わたしより四つ歳上の二十八歳。
おばあちゃんの経営する古い下宿屋の店子。職業・出張料理人。バツイチ。三年前に関西から東京にやってきた。
わたしが知っているのはそれくらい。
別に彼女が秘密主義なわけじゃない。ただ、今のわたしの生活リズムがめちゃくちゃで、彼女と顔を合わせる機会があまりないのだった。
それでも、なんとなく彼女を信頼している。
ものが満足に食べられなくなっていたわたしに、「おいしい」を取り戻してくれたから。クールでそっけないおばあちゃんも、彼女を気に入っているようだった。
「寒い!」
静かに門を出てから、桃子さんが身を震わせた。
顔を洗ったときに濡れた髪が、冷えてすうすうする。
「寒いね。でも、ほんとに明るくなってきた」
わたしは空を見た。東のほうがうっすら白みはじめている。
日の出前でも、太陽の光は地上に漏れ出しているのだ。
「結構人いるね」
辺りを見回し、わたしは言う。
コンビニの白い明かりのもとで働く人だけでなく、車で走る人、ちらほらと歩道を歩く人の姿も見える。
歩いているうちに、不思議と気分が高揚してきた。
見慣れない早朝の街の非日常感も、あった。でもそれ以上に、ちょっとした買い物であっても、朝から活動することができたのがうれしいのだ。それだけで、一日の半分が成功したような感じがする。
桃子さんはスーパーでカマンベールチーズとブロックベーコンを買った。
「寒い!」
スーパーから出て、桃子さんがまた身を震わせる。
「二月って、詐欺だよね。立春とか言ってるのに、一年でいちばん寒いの、二月なんだよね」
同じように身をすくめて、わたしは言った。
「本当ね。でも、この寒さがずーっと続く気がするのに、毎年、二月の終わりから急に暖かくなって春が来るでしょう。不思議」
「春が近いとか、信じられない」
「ね。でも、毎日必ず朝は来るし、毎年ちゃんと春は来る」
東の空は明るさを増している。
桃子さんの横顔が、さっきよりもはっきり見える。
どこかの庭に木があるのか、うっすらと梅の匂いがする。
🍴
「ホットケーキ、作ったことある?」
帰宅して手を洗いながら、桃子さんが尋ねた。
「ひっくり返しただけ……母がホットプレートで焼いたのを」
「じゃあ、今日は一緒に最初から作らない?」
素直にうなずいた。
寝つけない夜に、桃子さんの指示で何度かごはんを炊いた。その経験からわかっていた。
自分から何かをする気力がわいてこない今は、受け身の姿勢であっても何かをしたほうがいいのだ。
「まずは冷蔵庫から、卵二つ、小麦粉、ベーキングパウダーを出して」
食堂のキッチンスペースに立ち、砂糖の瓶を手にした桃子さんが言った。
「ベーキングパウダーってどれ?」
大きな冷蔵庫には、米や海苔、使いかけの粉類や調味料まで入っている。
「赤い缶の。ケーキを膨らませるためのものよ。あとね、ヨーグルトが入ったボウルがあるでしょう。それも出して」
ボウルにざる、キッチンペーパーを重ねた中に、白い塊が詰まっている。
「水切りヨーグルトは、マヨネーズの代わりにポテトサラダに使うの。これはホエイ。ついでだから、牛乳の代わりに使うわ」
桃子さんがボウルの中を見せる。
薄い黄緑色の液体が見える。カップ入りのヨーグルトを食べるとき、こういう液体がヨーグルトの上にたまっているのを見たことがあった。
ホエイの入ったボウルに卵を割り入れて混ぜたら、残りの材料すべてを入れて再び混ぜる。
「フライパンを温めている間に布巾を濡らして絞って」
熱したフライパンは、面倒でも、一度濡らした布巾の上に置いて冷まし、そこにタネを落とす。タネを入れたら、再びフライパンをコンロに戻す。しばらくしたらひっくり返してまた同じようにする――
桃子さんの指示は決してせかすようなものではなかった。でも、ふだん料理をしないわたしは、指示を理解するまでに数秒が必要で、焦ってしまう。
「大丈夫、ちょっと遅くなったくらいで焦げないから。ほら、きれいな焼き色」
裏返したホットケーキを見て、桃子さんが言う。
きつね色のホットケーキは、ホエイの効果なのかずいぶん膨らんでいる。
確かに表面はつるつるとして、きれいだった。なんとなく嬉しい。
フライパンを熱した後で布巾の上に移す、タネを入れる、焼く、また移して裏返す――
三枚めになると、もういちいち手順を思い出したり唱えたりする必要はなくなった。
目の前のホットケーキだけに集中する。
こなすべきタスクもないのに、起きているあいだ常に自分を追い立てている焦り。早く再就職先を探さなきゃと思っているのに、それをする気力も体力もない、というところから来る漠然とした不安。そこから切り離されたのを感じる。
わたしが黙々と焼いている間、桃子さんは包丁でベーコンを切り、丸いカマンベールチーズを水平に三等分した。
何を作ってるのかな……と横目で見ていたら、新しく焼きはじめた生地の上に、いきなり桃子さんがチーズを埋め込んだ。
「ええっ」
「ベーコンものせちゃう」
桃子さんは中央のチーズに重ねるようにスライスしたベーコンを置いてしまう。
バターとメープルシロップで食べるものだとばかり思っていた。
「味付けは!?」
「ふつうにメープルシロップかはちみつ」
「えええ……ベーコンなのに?」
「甘いものとしょっぱいものの組み合わせはおいしいの。アメリカンドッグだってソーセージとホットケーキ生地の組み合わせじゃない」
「確かにアメリカンドッグはおいしい……」
部活の帰りによくコンビニで買って食べたそれを思い出す。ほんのり甘い、ふんわりした生地の中に隠れたソーセージの旨味と塩気。ケチャップ自体も甘じょっぱい。
「これは全部中に埋めちゃって。フライパンにくっついちゃうから」
桃子さんが、三等分にスライスしたカマンベールチーズの真ん中を指さす。
言われるままに五枚めのホットケーキを焼いているところへ、おばあちゃんがやってきた。
「おはよう」
「おはよう」
カウンター越しに、挨拶を返す。
「おはようございます」
「朝から賑やかなことだね」
「日が昇る前に、一緒に買い物にも行ったんです」
桃子さんの言葉に相づちを打ちながら、おばあちゃんは、ダイニングチェアに腰掛けた。
おばあちゃんと会うのも三日ぶりだった。でも彼女は「久しぶりだね」とか「今日は起きたのか」とか、わたしがこの場にいることについて何も言わない。今日はいる、ということをそのまま受け入れている。
たぶん両親のもとにいたら、お母さんはわたしを励まそうとして大げさに喜び、「この調子でいけば大丈夫!」と言い出したことだろう。
ここへ来て正解だった、と思った。
家族のフォローがないぶん、部屋は荒れているし、洗濯物もたまっているけれど。
「ホットケーキ、初めて焼いた」
テーブルにお皿を運んで、わたしはおばあちゃんに言った。
ホットケーキは二種類。プレーンタイプとチーズ&ベーコン入り。桃子さんがのせた、ベビーリーフとバナナにナッツを散らしたサラダが彩りを添えている。
「きれいな焼き色だよ」
わたしに向かって小さく笑顔を作り、けれどもおばあちゃんは飲みものを持ってきた桃子さんに向かって顔をしかめた。
「ごはんと甘いものは分けておくれ」
ホットケーキにベーコンとチーズが埋まっていること、サラダにバナナが入っていることに、違和感を抱いたらしい。
「すみれさんたら、そろそろわたしのことを信頼してくれなくちゃ。わたしの用意するものは、みーんな! おいしい!」
朗らかに言って、桃子さんがコーヒー入りのマグカップを置く。
いただきます、の挨拶を交わして口にしたホットケーキは、軽い。表面はかすかにさっくりしていて、中はふんわりしつつも、もちもちとした食感。溶け出したチーズとベーコンの塩気が、甘いメープルシロップと不思議と合った。ベーコンの脂がほんのり甘い生地にじんわりとしみ出して、なんだか背徳的。
もう一枚のプレーンタイプは、メープルシロップとバターで。こちらは定番の安定感。ホエイの酸味も、和らいでかすかにわかる程度。
「ベーコンとチーズ、おいしい……サラダと一緒に食べられるのもいいね」
わたしが言うと、桃子さんは顔をほころばせた。
「そうでしょう、そうでしょう。おいしいでしょう、ねっ、すみれさん!」
桃子さんが、おいしいと言わせようとする。
おばあちゃんは顔をそむけて知らんぷりをしているけれど、チーズとベーコン入りのホットケーキはもう半分なくなっている。
朝日が窓から差し込み、食堂の中は明るい。
ホットケーキの生地からしみ出してくる、メープルシロップの強烈な甘み。
まあるいホットケーキは、あたたかで柔らかな幸福の象徴。
特に実体験があるわけじゃないのに、いつの間にかそんなイメージがすり込まれている。
わたしたちは、食べものそのものだけでなく、イメージも食べている。野菜をたくさん食べると、いいことをした気分になるのも、そのせいだ。
幸福のイメージを摂取したせいか、炭水化物のもたらすエネルギーのせいか、十分すぎるほど寝て体が修繕されたのか。ほんの小さな意欲が、胸に宿った。
「洗濯機、先に使っていい?」
桃子さんに尋ねた。
「もちろん。いい天気になりそうだものね。わたしはお布団も干すわ」
「……おばあちゃんの布団も干そうか?」
わたしは尋ねる。ようやく、人のことまで考える余裕が出てきたのだった。
おばあちゃんがくちびるの右端を上げる。
「じゃあ、頼むよ。私は出かけるから」
出張料理の仕事を手伝うようになるのは、まだ先のこと。でも、このときすでに回復の兆しはあったのだ。
〈了〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます