紅い秋桜

 一ヶ月に一度、彼の爪を切ってあげる。


 窓際にはコスモス。今日、私が摘んできた花が花瓶に生けられている。

 彼がコスモスを好きかどうかは知らない。知る術もない。

 窓から差し込んでいる夕陽が、ピンクのコスモスを紅く染めている。


 彼の爪は伸びるのが遅い。爪だけでなく、髪もそうだ。彼が植物状態だからだと思っているが、医師や看護師に質問したことはない。そんな質問をしても、彼は目を覚まさない。私が悲しくなるだけだ。


 彼の爪はいつでも光を反射してキラキラしている。起き上がることのない彼の命を絶えず支えている生命力の一部が、爪の表面から滲み出ているようだ。彼の爪を切るときには、爪の表面を何度も撫でる。そこだけが、彼の一番深い場所に繋がっているような気がして。遠い場所まで一瞬で情報を届ける光ファイバーや、懐かしく思い出す耳に当てた糸電話や、母親と胎児を結ぶ臍帯のように、私の思いを、存在を、彼に届けてほしかった。


 「コスモスは、好き?」

 五〇四号室に、私の声だけが響いた。


 彼の顔は穏やかに眠っている。

 彼の爪を撫でながら、暫く彼を見つめていると、後ろのドアが開いた。この時間帯に、この部屋に来る人物は二人しかいない。一人は私。もう一人は彼のお母様。


 「こんばんはー」

 「こんばんは。いつもありがとね。あら、コスモス、綺麗ね」

 お母様が優しく微笑みながら、窓際のコスモスに近付く。お母様の顔も紅くなった。

 お母様がコスモスに触れる。花びらを撫でるように、そっと。お母様の爪の輪郭とコスモスの花びらが重なり、まるで、私が彼の爪を撫でているようだった。


 「明日で、一年ね」

 コスモスの花びらに触れたままのお母様が呟いた。

 「はい」

 私は短く返事した。


 一年前、彼は私のアパートで刺された。

 彼を刺した犯人の動機なんて知りたくもないし、知る方法もない。なぜなら、もう犯人はこの世に存在していないから。

 彼は、最後のチカラを振り絞って、犯人を刺し殺した。私を守るために。


 彼は大学一年生で、私は不動産会社の職員。

 都内の大学に合格した彼が、一人暮らしするアパートを探しているときに知り合った。

 彼は二浪で、私と同じ年齢。二人の話題が尽きることは無く、彼が入学してすぐに付き合い始めた。自分のアパートよりも、私のアパートのほうが住み心地が良かったのだろう、彼は私の部屋で暮らすようになった。

 とても楽しい時間だった。

 夢のような時間だった。

 こんなことになるなら、

 彼と出会わなければ、


 「理沙ちゃん」

 名前を呼ばれて気が付くと、お母様はとても悲しそうな表情をしていた。

 「あなたは、何も、悪くないの」

 お母様は、一言一言を噛み締めるように、力強く発音した。お母様の瞳が紅く輝く。

 少し間を置いて、お母様は話を続けた。

 「一番辛いのは、良雄でも、私でもなくて、理沙ちゃん、あなた。だからね、今から私が言うこと、お願い、どうか悪く取らないで」

 私はようやく自分が涙を流していることに気付いた。

 涙を拭いながら小刻みに頷いて「はい」と返事する。

 「私は理沙ちゃんに幸せになってほしい。良雄が守ったあなたが、結婚して、可愛い子供と一緒に暮らす未来を望んでる。その可愛い子供の笑顔を、時々、私たちに見せに来て。それだけで充分」


 お母様に抱きしめられながら声を上げて泣いた。


 目を覚まさない息子の隣で、他人の子供を慈しめるような母親に、私はなれるだろうか。



 ※



 その日の夜は彼の実家に泊まった。初めてのことだった。私は恐縮頻りで夜の団欒を過ごしたあと、布団に潜った。


 「理沙ちゃん」


 いつ眠りに落ちたのか分からないくらい突然話しかけられて驚いた。慌てて顔を上げると、お母様が大粒の涙を落としながら、私の布団に手を置いていた。


 「良雄が……」



 ※



 彼の家族が運転する車が病院へ向かって走る。

 車の窓から見える未明の街中はどこまでも静まり返っていて、今から目の当たりにする現実とのギャップが大きくなるばかりだった。

 ただひとつ、東の空に浮かび上がる鮮やかな紫色だけが、私の未来を予感させていた。



 ※



 五〇四号室に泣き声が響き渡る。


 これから私達がしなければならない手続きについて説明していた病院の職員は、話を切り上げて、真っ赤な顔で泣いている秋桜に話しかけた。


 「秋桜ちゃんごめんねー、もうすぐ終わるからねー」


 産まれたばかりの娘をあやしている夫の表情は、今までに見たことがないくらい必死で、思わず吹き出してしまった。

 「笑うなよー」

 「良雄も一緒に、ね、笑おう」

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紅い秋桜 荒井 文法 @potchpotchbump

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