◆6◆ ナマケモノと土佐犬
「30分時間をちょうだい、か」
一か八かでポスターの写真を送ってみたら、そんな返事が来た。
マリーさんからのメッセージはいつも簡潔だ。文面だけだと男友達のようにも思えなくもないが、そこはやはり女の子、可愛いワンちゃんのスタンプを押してくれたりもする。
しかし、何の感想もなくとりあえず30分ほしい、というのは一体どういうことだろう。もしかして何か忙しかったかな。お風呂に入ってたとか? 仕事を持ち帰ってきた可能性もある。しまった、最初にそこを確認しておくんだった。
僕はやっぱり駄目だな。
そう思ってため息をつく。
しかし、しょんぼりしていても仕方がない。マリーさんから何らかの返事が来るまでにいま自分が出来ることをしなくちゃ。
となると、やはり今日注文を受けた入園セットの作成だ。そんなに時間がかかるものではないが、大量生産して店に並べるものとは違い、かなり気を遣う。店に並べるものは多少の粗があったとしても、お客さんは実際に手に取って納得してから買うことが出来るけれども、注文品はそうもいかないからだ。作り直しを要求されることだってある。
裁断するにしても、わずかなずれだって許されない(と僕は思う)し、縫い代を1cmにするか7mmにするかといった細かいところまできっちり決めて取り掛からなければならないのだ。
今回のような大きな柄の布は、サイドを縫い合わせる際に柄がずれても良いのか、それともそこもきっちり繋がるようにするのか、そういったところまでお客さんとの確認が必要だ。それによって、裁断の仕方も変わってくる。今回のお客さんはそこまでしなくても良いと言ってくれたので多少気は楽だけれども。
このバッグを使うのは、ええと……『
この『然太郎』という名は、日本をすっかり気に入ってしまった父が、どうしても『~太郎』という名前にしたかったらしく、母の旧姓である『大森』から『自然』をイメージしてつけてくれたのだ。ちなみに他の候補は『
無駄な布が出ないように型紙を配置して、ずれないように重石を置き、チャコペンで印をつけていく。すべてつけ終わったら、その通りに裁断だ。表布と裏布の両方の裁断がすべて終われば、いよいよ縫製作業に入る。
というタイミングでマリーさんから返事が来た。時計を見ると、彼女が提示してきた30分をとうに過ぎていて、あともう少しで1時間経つところだった。僕も集中していて全然気が付かなかったのだ。
恐らく、この1時間で練りに練られた駄目出しが書かれているのだろう。そう思うと、アイコンをタップする指が震える。そうだよ、マリーさんはインテリアデザイナーなんてセンスの塊みたいな仕事をしているのだ。僕の作った素人――それ以下かもしれないけど――のポスターなんてゴミくずみたいなものだろう。それでも即答で「ダサい」と返ってこなかったのだから、やっぱりマリーさんは優しいのだ。
震える指でメッセージアプリのアイコンをタップする。
と。
「何だろ、これ」
『本当にごめん。遅くなった。こんな感じでどう?』
というメッセージの下にあるのは何やらよくわからないURLと、『PASS:SMITHMISHIN』という文字。
とりあえず、そのURLをタップしてみると、表示されたのは『
『依頼人様専用 ※パスワードを入力してください』
と書かれたその小窓の中に、送られてきたパスワード『SMITHMISHIN』を入力する。ちなみに『ミシン』というのは和製英語なので、外国では通じないらしい。
表示されたのは、手芸教室の告知ポスターだった。
案は2つ。どちらも文面は同じで、内容は僕が送ったものをそのまま使用しているのに、そのポスターの雰囲気に合わせてすべてフォントも配置も異なっていた。
1枚目は「これぞ手芸!」と誰もがイメージするような雰囲気のポスターで、白いキャンバス地のような背景の四辺をぐるりと淡い緑色のステッチで囲み、右上にはちょこんと縫い針が顔を出している。貼り付けられているイラストもすべて手芸に関連したもので、糸切りバサミや、ミシン糸、メジャーなどなどである。こういうのはわかりやすいのでご年配の方が食いつきやすいだろう。
2枚目も手芸がらみではあるものの、1枚目が温かみのあるほっこりとした雰囲気に仕上がっているのに対し、こちらはかなりスタイリッシュだ。色は白、黒、グレーのみで、手芸小物のイラストもあるものの、どこか尖っていて、その上、すべてシルエットになっている。むむむ、これはオシャレな若い女性、あるいは男性なんかももしかしたら……。
さらに驚くべきことには、そのポスターの右下に、見たことのないロゴまで貼られていたのだ。それは楕円形の刺繍枠の中に何やら特殊なフォントで『スミスミシン』と描かれているだけなのだが、そのシンプルさが潔くて良い。出来上がったものを見れば「何だこれなら自分にも作れそう」と思えてしまうけれども、ではこれを全く0の状態から生み出せるかといわれたら、それは無理だ。『誰にでも出来そうで、案外出来ない』、ということをさらりと出来てしまうのがプロなのだと僕は思う。
「マリーさん、すごすぎる……」
やっぱりマリーさんはプロなんだ。
これがプロの仕事なんだ、と僕はしばらくの間、画像を見つめたまま動けなかった。
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