労働のない世界(短編)
哲学徒
第1話
労働こそ人間の本質的な活動である、と言っていた学者がいた。学生時代はタバコの煙に満ちた部屋で、学友とよく議題にしたものだ。今やそんな学者は忘れ去られている。
「全ての国民は働く必要がありません!」
とあるロボット会社の社長がそう発言したとき、世間は鼻で嗤っていた。だが、社長はその言葉を現実のものとした。
人工知能やロボットの技術が発展し、あらゆる労働はロボットがするようになっていった。人間しかできないと思われていた動きは、人工知能により丁寧に分析されロボットが過不足なく行った。また、技術的に再現不可能なものは、ロボットではなくその対象物を規格化することにより解決した。食洗機用の皿が作られたように。知識はネットワークを通じて瞬時に共有された。そして、ベーシックインカム制度が取られるようになって、人間は働く必要が無くなった。
今や、賃労働だけでなく、家庭内の労働である家事育児介護なども全てロボットが行うようになった。人間はなにをしているか?毎日友人や家族と穏やかで幸せな時間を・・・過ごせていればいいのだが。
働く必要がなくなった人間たちは、あらゆる場で、あらゆる分野で、毎日毎日喧嘩をしている。とある学者が「人間の手が物を掴むのに最適な形になったのは、人間同士で殴り合いをするためだ」と言っていた。全くその通り。最も人間的な活動は労働でも政治でもなく、喧嘩とマウンティングなのだ。
政治だのなんだの言いながら毎日警官隊と楽しそうに殴り合ってる連中もいれば、家庭内暴力によって共依存に陥る夫婦、ロボット相手に怒って殴る奴ら、SNSで暴言の応酬をする奴ら。政治家だって国会でプロレスを頑張ってる。一体どうなってるんだ。
ロボット警察やロボット弁護士は人間の尻拭いに大忙しで、毎日自動運転車で走り回っている。ロボット記者はこの状況を遺憾の意をもって世間に訴えている。
まあ、こうなったのも当たり前だ。人間は暇になると録でもないことに手を出すものだ。だからこそ、有閑階級は趣味を持っていた。大多数の人は労働以外に趣味を持つ暇もなく働いていたのに、急に労働をする必要が無くなったので喧嘩を趣味にし出したのだ。
人間は暇だとどうしようもなくなる。政府は巨大なスタジアムを作り、中で人間同士の格闘大会を毎日することにした。もちろん全国にテレビ、ネット中継される。ベーシックインカムと合わせて、現代のパンとサーカスといった所だ。
ルール無用の辻喧嘩をするよりは、きちんとルールとスポーツマンシップに則った格闘技の方がいい。最初はそう思っていた。
プロレスの試合中にある選手が出血したのがきっかけだった。観客席にいた私は見るのも忍びないので目を背けたが、大多数の観客は沸いた。
スポーツマンたちが腕を競い会う真っ当な格闘大会が、ごろつきどもが跋扈する殺しあいの大会になるのはすぐの話であった。
何人もがリング上で死に絶え、賭けや八百長も横行したが、視聴率80%を超える巨大イベントを潰すわけにはいかなかった。選手のグッズやカードは飛ぶように売れ、映像化され、アニメ化された。ここまで巨大な市場は政府の干渉をものともしなかった。
ロボットは毎日働き、人間は毎日テレビやネットにかじりついて殺人格闘大会を見る。異様な光景である。
そんな異常事態は、呆気なく終わってしまった。なんのことはない、隣国との戦争が起こりロボットが全て戦争に行ってしまったのだ。人間は再び働くようになった。働くようになってから、みな思うようになった。「あの毎日はなんだったのか」と。夢は夢であった方がいいのだ。
件のロボット会社は、自国だけでなく隣国にも戦闘用ロボットを売って大儲けしたらしいが、戦後誰もロボットを買わなくなり倒産してしまった。
つまらないものだ。人間の本質というのは所詮数百年数千年数万年経っても同じということだ。ロボットの方がずっと賢くて器用なのに、人間が愚かすぎたのだ。
とっくに処分してしまった、ある学者の本でも探しにいこうか。私はコートを引っかけて街に繰り出した。
労働のない世界(短編) 哲学徒 @tetsugakuto
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