136 鈴鹿山脈を越え 岐阜城へ


 石山城を攻撃し武藤友益を追放した丹羽長秀、明智光秀軍が、五月八日帰陣した。

 朝倉、浅井両軍は、琵琶湖東岸を重要視し、兵を集中させている。琵琶湖の西岸、朽木谷に兵を向けることはあるまい。


 翌五月九日、ぼくは二万の兵を引き連れて出陣し岐阜城に向かった。一刻も早く戻り、軍の態勢を整えなければならない。だが、前方の地は六角の残党勢力が支配している。とりあえず、野洲永原城に入ることにした。永原城には既に佐久間信盛を、長光寺城には柴田勝家を配置している。


 今この局面で戦いたくはなかった。戦の最中に北から朝倉、浅井両軍の攻撃を受けるおそれががあったからだ。そこで、石部城の六角との和睦を図るため、朝日日乗、村井貞勝を使者として送ったのだが、それも無駄な努力だった。


 永原城の大広間で、ぼくは前田利家、信盛と共に善後策を協議した。帰蝶、太田牛一は京にいる。長秀、光秀と共に京の治安を維持するためだ。蜂須賀小六は甲賀の里に出向いている。そして木下秀吉は堺で武器の調達に当たっている。


「ここは、東に向かい、鈴鹿山脈越えしかありませぬ。だが、浅井長政は先を見越して、東近江の鯰江城に兵を入れております。八風街道を塞ぐ算段にございましょう」

 利家が絵図面を指さしながら言う。


「……ここは、戦わずに、無傷で岐阜に戻らねばならぬ。北も、南も閉ざされている。どう考えても、鈴鹿を超えるしか、道はあるまい」

 ぼくは腕を組んで同意する。


「さすれば、千草越えしか残されておりませぬ」利家がそう言って溜息をつく。

「森の中の難所もございますゆえ、できれば避けたいのですが」


 信盛は胸を張って言う。

「殿は蒲生賢秀がもうかたひでを御存じでありましょう。観音寺城の戦いのおり、柴田殿の攻めに日野城を守り抜いた猛将にございます」

「たしか、神戸具盛の説得に応じ、嫡男を人質として差し出し、われの家臣となった者だな」

「はい。今は柴田殿の与力となっております。この者、千草方面の地域を熟知しておりますゆえ、案内するよう、指示されたら、如何かと」

「ウム……。イヌよ、勝家と賢秀を、ただちにここに呼べ」

「はっ」


 浅井長政は、想定通り、市原で一揆を起こさせ八風街道封鎖の策に出た。

 ぼくは蒲生賢秀の協力を得て、日野から四日市に抜ける八草越えへ向かった。その途上で、ぼくは幸運にも蜂須賀小六と権蔵に遭遇する。


 権蔵は馬の轡をとって言う。

「甲賀の情報では、千草山中で、何者かが鉄砲で殿を狙っている由にございます」

 ぼくは権蔵を見詰める。

 彼はぼくの目を捉えて呟く。

「ここは、影武者を用意したほうが、よろしかろう、と」


 ぼくは下馬した。

「われを、殿の影武者に、ご命じ下され」

 小六がぼくに顔を近付けて言った。しばらく、ぼくは小六を見詰めていた。

 そして、笑みを浮かべる。


「ハチよ、そなたに、二度も死ねとは、命じることはできぬ。金ヶ崎の殿しんがりで十分である。ここは、われの運試しに賭けるとしよう」

 ぼくは利家に絵図面を用意させる。そして、千草街道の道筋を指で辿る。

「権蔵、そなたが、狙撃するとしたら、どのあたりで行うか?」

 権蔵は絵図面を覗き込む。

 そして、徐に山中の一帯を指でなぞった。

「ここから、ここまで……」


 ぼくは騎乗する。

 もし。権蔵の感が外れていたら、大怪我か、あるいは命をおとすかもしれない。しかし、ここは、史実を信じるしかない。

「権蔵、われを狙撃する者あらば、必ず捉えよ」

「はっ」


 そして、その場所、甲津に差し掛かった。

 ぼくは、軍の先頭に向かう。そして、馬に鞭を振るう。

 手綱を絞り、身を低くし、山中の真っ只中に単騎突き進む。


 銃声が聞こえた。

 その音の方向に顔を向ける。

 その時、左脇腹に戦慄が走った。袖口から煙が流れる。

 ぼくはひたすら鞭を当て続けた。脇腹に銃弾を受けたかもしれない。


 甲津を抜けると、ぼくは馬を停めた。

 利家と小六が後方から馬を飛ばしてくる。

 ぼくは、そっと脇腹を擦った。手にうっすらと血が滲む。

 掠っただけか、ぼくは天を仰ぎ呟く。


 その時、ぼくは思い出した。

 あれは、桶狭間の戦だ。善照寺砦の物見台に今川義元の首を掲げた時、敵の矢がぼくの顔をかすめたのだ。


 この度は、銃弾が脇腹をかすめた。

 体に興奮の渦が巻き上がる。

 これは、吉兆なり。


 ぼくは天に向かって大声で叫ぶ。

「これは、吉兆なりっ」



 五月二十一日、ぼくは軍兵と共に、岐阜城に辿り着いた。

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