第十章 姉川の戦い
133 六天魔王同盟の崩壊
その夜は一睡もできなかった。
雨戸を開け、搔巻布団に包まって庭先から見える夜空を眺めている。
もし秀吉と小六が死んでいたら、この先どうなるのだ。とてつもなくややこしくなるに違いない。信長の魂が発狂するのも理解できる。
小僧……。
闇の中から声がした。
視界が白くなり、何も見えなくなった。
小僧……。もう一度声がした。
赤く燃え上がった両眼が浮かび上がった。
六天魔王……。
「よくぞ、生き延びた。おまえが死ぬのは、金ヶ崎の退き口と、覚悟していたのだが……」
「六天魔王っ、信長の魂は生きておるぞ。生きておるなら、ぼくは必要なかろう。さっさと、令和のぼくに戻してくれ」
「愚か者っ、おまえは仏との約束を忘れたのか。おまえは、本能寺まで行かなければ、仏はさっさとおまえをあの世に連れていってしまうぞ。それでも、よいのか」
「うっ、うっ、ううう」
ぼくは呻き声を上げて立ち上がった。
「ならば、信長の魂をなんとかしろっ」
青白い顔の輪郭が現れた。目玉はさらに大きく、赤く燃え上がる。唇が横に長く裂け、長い舌が巻き上がる。
「信長のことは、信長に任せておけ。信長の感情を押し殺してはならぬ。そんなもの、信長の意のままにさせておけばいい」
六天魔王の顔が目の前に迫ってくる。
「よいか、おまえの役割は単純だ。一つに、本能寺まで信長の肉体を維持し、失わないこと、二つに、明智光秀に謀反を起こさせ、本能寺で信長を殺すように仕向けること。ただ、これだけだ。それまでに、おまえが死のうが生きようが、わしにはどうでもいいこと……」
六天魔王の顔が遠ざかる。
「六天魔王、サルとハチを、殺さないでくれ……。ぼくから仲間を奪わないでくれ」
「小僧、あと十二年の辛抱だ。今まで、三分の二を見事にこなしてきたのではないか。おまえなら、やり遂げられる……」
六天魔王の顔が消えていく。
「サルとハチを……」
ぼくの声は闇の中に消えていく。
二条城の大広間で、ぼくは胡坐をかき腕を組んでいる。目を閉じ、俯いている。
「殿、昨夜のことは、覚えておられますか」
帰蝶の声がする。
ぼくは無言で頷く。
「対策を考えねばなりませぬ」
太田牛一がいつものように静かに言う。
唇に手を当て、ぼくは目を見開いた。
牛一と前田利家が腕を組んでぼくを見詰めている。
「実はナ、昨夜、六天魔王が現れたのだ」そう言って、ぼくは大きな溜息をつく。
「信長の感情に逆らうな、と言った。信長のことは、信長に任せておけ、と」
「本能寺まで、まだ遠くござる。それまで、織田の体制が持ちまするか」
牛一が眼がしらを押さえながら言う。
「暴君にならざるをえまい。魔王信長に……」
帰蝶と利家が溜息をつく。
「さすれば、われらは、どうお仕えすればよろしいですか」
「それは、前に申したであろう。……ずいぶん前のことになるが」ぼくは腕を組む。
「信長が発する狂気に満ちた言いようには、無視するのだ。従わなくてよい」
「ですが、われら以外の者どもは、そういきませぬ」
牛一がぼくの目を捉えて離さない。
「やむをえまい。おそらく、それが史実だからだ……」
「サル殿とハチ殿について、魔王は何も言いませんでしたか」
帰蝶が訊く。
ぼくは再び溜息をつく。
「六天魔王に、サルとハチを助けてくれ、と頼んだ。必死に」
三人は息を殺してぼくを見詰める。
「何も答えなかった。……おそらく、だめであろう。帰ってくる二人には、別の命が宿っている。……六天魔王同盟の崩壊だ」
「との~」
門番の兵が大広間に駆け込んできた。
そして、床にふれ臥す。
「木下秀吉だ、と名乗る百姓どもが、門前に」
「なにぃ、い、い、い」
ぼくは立ちあがった。
*六天魔王同盟 「19 六天魔王同盟 牛一登場」参照のこと
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