132 金ヶ崎の退き口(6) 若狭街道の悪夢


 その日のうちに、ぼくは佐柿、熊川、熊川、田中まで駒を進めた。琵琶湖西岸を辿れば近道だが、浅井領内を進むのは危険すぎる。浅井の手勢が待ち伏せているであろう。


 朽木谷を目の前にして、いったん岩窟に身を隠し様子を窺うことにする。

 物見の兵に、前方の状況を探らせる。無事に朽木谷を通過するには、朽木元綱の協力が不可欠である。暗闇の中で、ぼくはじっと時を待った。


「殿」前田利家の声がした。

「朗報です。元綱が浅井への軍勢督促に応じなかったようです」


 利家が松明に火を灯した。

 物見の兵が続々と戻ってくる。彼らの報告は一様に南方に軍勢の影が見当たらないというものであった。


「殿、若狭街道を一気に、朽木谷を通り抜けましょう」

「うん……」

 岩窟を出た。星空が広がっている。

 今迄、数えきれないほどの窮地を超えてきた。だが、今ほど得体の知れない不安に襲われたことはない。もし、ここで命を失えば、ぼくは二度と令和の自分に戻れなくなる。信長の体には、新たな人物が選ばれてくるだけのことである。


 ぼくは騎乗し、手綱を握りしめる。

 手勢馬廻り衆の半数十騎が、松明を掲げて飛び出していく。ぼくはつかさずその後に続いていく。背後には利家、さらにその後を残りの馬廻り衆十数騎が追ってくる。


 何事もなく、朽木谷を脱しようとした時、突然馬の嘶きが聞こえた。前方で数頭の馬が立ち上がり、騎乗していた兵が投げ出された。

「どうした……」

 ぼくはそっと呟く。利家はぼくを一瞥すると馬を前方に進めた。

「殿、百姓が……、野武士の一団が……」


 背後の馬廻り衆が抜刀して、前方に飛び出していく。

 利家がぼくの顔面に顔を近付けるとくつわをとった。

「殿、突破いたしまする。覚悟をっ」


 ぼくは利家と共に闇の奥へ飛びこんでいく。

 周囲は松明で埋まっていた。

 頬っ被りをした顔、顔、顔、顔で周囲が埋まり、無数の目玉が光っている。手に手に鍬、鎌、竹槍を掲げている。松明の灯りで、周囲の全景が幻のごとく浮き上がってくる。その数、無数。


 馬廻り衆が刃を振るい、血路を開いていく。

 だが、その数は見る間に減っていく。

 これまで、か……。

 ぼくは呟いた。

 六天魔王よ、ぼくを見捨てるのか……。


 突然、一発の銃声が響いた。

 馬の嘶きが響き渡る。

 立て続けに、銃声が木霊のごとく鳴り響く。


 押し寄せていた者どもが蜘蛛の子を散らすように消えていく。

「そこにおられるのは、織田信長公であるかっ」背後から大声が聞こえた。

「われは、朽木元綱であるっ」


「そうだ、織田信長さまである」

 利家が叫んだ。

「ご助成仕る」


 暗闇の中を松明を掲げた兵が、次から次と現れ。無頼の者どもを蹴散らせていく。

 ぼくは声の主を捜した。

 ゆっくりと手綱をとりながら甲冑姿の武将が現れた。

「信長公、われは朽木元綱でござる。これより京まで護衛仕る。



 何時間、いや何日眠っていたのであろう。開け放たれた襖から見える外は暗い。

 帰蝶と太田牛一がぼくの顔を覗き込んでいる。

「ご気分はいかがですか、殿」

 帰蝶が尋ねた。

「今日は、何日か?」

「五月一日にございます。ご無事で何よりでございました。昨夜真夜中、ここ二条城にイヌ殿と戻られ、そのまま眠り続けていたのでございます」

「サルとハチは、戻ったか?」

「いまだ、戻りませぬ」

「他の者どもは、どうだ?」

「続々と、帰還しております」

「そうか……」


 湯を浴び、飯を食らう。

 新しき肩衣袴かたぎぬばかまを纏い、髪を結う。

「殿、殿の身を案じる者どもが、大手門前に集まっております」

 牛一が呟くように言う。

「うん……」


 大手門を出ると、篝火が明るく周囲を照らしていた。門前は疲労を隠せぬ兵士で埋まっている。彼らはぼくの姿を見届けると、一斉に片膝を付いた。

「皆の者、よくぞ無事で戻った。われも、この通り無事であるぞ。今宵はゆっくりと体を休めるがよい」

 ぼくは周囲を見回した。

殿しんがりは戻っておるか」


「ここに」

 甲冑姿の武将が立ち上がった。

 池田勝正だった。

「光秀、秀吉、小六はどうしたっ」

「明智殿は負傷し、手当を受けております。木下殿、蜂須賀殿とは、別行動ゆえ、詳細は分かりませぬ」


 もう一人の武将が立ち上がった。

 徳川家康だった。

「木下殿とは、金ヶ崎で別れもうした。我ら軍全軍が金ヶ崎から撤退を終えるまで、ここに留まると申しておった」

「それで、奴の撤退を見届けたのか」

「いえ、朝倉軍が雲霞のごとく、押し寄せてまいったので、われらは、撤退が精一杯で」

「だれか、見届けた者はおらぬか?」


「殿……」

 丹羽長秀が立ち上がった。

「金ヶ崎は、猛攻を受け、二千の兵では、おそらく……」

「おそらく、何だ?」

「全滅、か、と……」


「うっ、うっ、ううう……」

 体が強張る。

 唇が震える。

 両眼が赤く燃え、ぼくの体が仰け反り返った。


 信長の魂が体中に溢れてくる。

 もうどうすることも出来ない。


「おのれっ、アザイ、ナガマサっ」

 信長は拳を握りしめ、天に突き上げた。

 そして、絶叫する。

「ナガマサの首を刎ね、そのしゃれこうべで、酒を食らってやるわっ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る