131 金ヶ崎の退き口(5) 全軍撤退命令


 朝餉を食らい陣屋に出向くと、柴田勝家ら武将たちが勢揃いして口角泡立てて戦況を話し合っていた。

 ぼくが入って行くと、全員が立ちあった。

 朝日が陣幕の隙間から差し込み、日焼けした武将たちの顔を照らしている。


 床几に腰かけると、ぼくは徐に口を開いた。

「金ヶ崎は、静かであるか?」

「はっ。気味が悪いほど、静まり返っております。おそらく、天筒山同様籠城戦を覚悟しておるのでありましょう」

 勝家は腕を組んで呟くように答える。

「朝倉本隊の動きはどうだ?」

「いまだ、出張ってくる気配がありませぬ」


「おかしいではないか。昨日はあれほど抵抗した天筒山城なのに、朝倉は後詰もせず戦いの気配も見せないというのは。朝倉には勢力争いがあると聞いたが、それほど仲が悪いのか。それに、金ヶ崎の景恒は何を考えておるのだ。朝倉の後詰めがなければ、天筒山城とおなじ憂き目にあうことが目に見えているというのに」


「ならば、金ヶ崎と国境くにざかいの木の芽峠に、同時に兵を向けましょう。朝倉がどう出るか」

 徳川家康が言った。

 ぼくは頷く。


「金ヶ崎は、松永久秀、池田勝正、木下秀吉、明智光秀が攻めよ。木の芽峠には、徳川殿、丹羽長秀が出向き、朝倉を牽制することにする。その他の者は、本隊にて待機せよ。直ちにかかれっ」

「はっ」


 陣屋はぼく一人になった。

 吐息を漏らして外に出ると、前田利家が待っていた。

「殿、撤退の準備は整っております。お供には馬廻り衆二十名を忍ばせております。全員騎乗し、殿を護衛、若狭街道を駆け抜けます」

「うん……」


「まだ、権蔵から知らせが来ませぬか」

 ぼくは頷く。

「浅井は、まだ動かぬ」


 尾根沿いの道を軍勢が進んでいく。

 眼下に見える木の芽口への道を、徳川、丹羽両軍が進んでいくのが見える。

 ぼくは、南方彼方、浅井の居城小谷城の方角に視線を送った。視界が春の光で満ちている。


 母衣武者が一騎駆けてくる。

 ぼくの前で下馬し、方膝を付いた。

「申し上げます。金ヶ崎城の兵は城を捨て、撤退しております。追撃するか、否か、ご指示を待っております」

「いや、捨ておけと伝えよ。秀吉、光秀、勝正に伝えよ。城に入り、見分せよ、と。松永久秀に伝えよ。疋田城ひきたじょうに兵を進め、これを落とせ、と」

「はっ」

 母衣武者は騎乗すると、もと来た道を戻っていく。


 浅井長政、動いたな……。

 ぼくは呻くように呟く。



 その日の午後、ぼくは利家と共に金ヶ崎城に入った。

 大広間で床几に腰を下ろし、握りを食べ干し肉にしゃぶりつく。差し出された器の水を喉を鳴らして飲む。

 秀吉、光秀、勝正がぼくからの下知を待っている。


 だが、今は何も話す事はない。ただ待つのみである。

 久秀からの知らせが入った。

 疋田城はもぬけの殻であった、と。

 ぼくは目を閉じ腕を組む。

 やはり、間違いない。浅井長政は既に軍勢を北に向けている、と。既にその情報は朝倉側に伝わっている、と。


「朝倉は出張ってきたか、木の芽口に」

 ぼくは大声を上げた。

「いえ、まだ動きませぬ」


 朝倉義景は、わが軍を一乗谷に誘い込む算段だ。そして浅井長政に背後を突かせるつもりだ。

「殿、権蔵が参りましたっ」

 秀吉のが大声が聞こえた。

 ぼくは立ちあがり、大手門に走りでる。

 権蔵はぼくを認めると駆け寄り、足元にふれ臥した。肩から鮮血がにじみ出ている。

「殿、敵の刺客に会い、不覚をとりました。浅井勢二万数千がこちらに向かって進撃しておりまする」

「うん……。承知した」

 ぼくは周囲を見回し、叫び続ける。

「薬師を呼べ、この者の傷の手当をせよ。イヌ、サルよ、武将全員を集めよ。一刻も早く、ここに集まるように伝えよ」


 大手門は武将たちで埋まった。

 ぼくは木台の上に上がって見回す。


 母衣武者が駆け込んできた。

「殿、浅井勢が反逆にございます。数万の兵が北上し迫ってきます」

 立て続けに、別の母衣武者が転がり込んでくる。

「殿、朝倉勢数万が、木の芽峠に押し寄せてまいりました」

「よいか、家康と長秀に伝えよ、直ちに撤退せよ、と。浅井が裏切った、と」


「聞いたであろう。われらは浅井の裏切りにより、もはや袋のネズミだ。全軍に伝えよ。京へ撤退する、と」

 大手門は騒然となった。


「われは、逃げる」

 ぼくは大声を上げる。

「サル、ハチよ、そなたたちに、殿しんがりを命じる。思う存分、働くがよい」

「はっ」


「殿、われにも、殿しんがりを命じくだされ」

 光秀が大声を上げた。歓声が上がる。

「殿、われにも、殿しんがりを命じくだされぃ」

 ぼくは声の主を捜した。池田勝正だった。光秀にせよ、勝正にせよ、織田家直参の武将ではない。光秀は幕府の奉公衆、勝正は大阪の国衆であった。ぼくは、二人の顔をじっと見つめた。

「天晴である。両名に殿を命じる。秀吉と共に、しっかりと務めよ」


 殿しんがりを務めて、生きて生還するのは稀であると聞く。

 戦場での直接の戦いより、敗退し、退くときにより多くの戦死者がでるのだ。しかも、今回は最後尾で自軍の撤退がすべて終えるまで戦い続けるという、殿しんがりである。それは、全滅覚悟の戦である。


 ぼくと利家は騎乗した。

「皆の者、京で会おう」

 歓声が上がった。

 馬に鞭を当て、大手門から敦賀方面に駒を進める。

 二十名の馬廻り衆が後に続く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る