127 金ヶ崎の退き口(1) 退き口ルートの探索



 大原から若狭街道を北上し、ようやく朽木谷に辿り着いた。これから先は朽木氏の領地だ。ぼくは街道脇の草の上に腰を下ろした。太田牛一が水筒を差し出す。ぼくは喉を鳴らして飲み干した。 一月十五日、ぼくは太田牛一を伴って、敦賀への道を歩いてきた。権蔵以下五十人の忍びが周囲の警護を敷いている。


 牛一(信定)とは桶狭間山を探索した時以来、十一年ぶりの二人旅だった。だが、あの時の高揚感は今はなかった。おそらく牛一もそうであろう。お互い歳をとった。まして、ぼくは退き口の下見であったからなおさらだ。


 越前朝倉攻めにおいて、織田軍は浅井長政の反逆に会い京に逃げ帰ったという史実を知っているのは、ぼくだけだ。あえて、五人の仲間にも知らせていなかった。大混乱を招くのは目に見えている。

 もしぼくが死ぬとしたら、この金ヶ崎の退き口戦だろう。


「この朽木谷を治めているのは、朽木一族であったな」

 ぼくは問いかける。

「その通りにございます。現在の当主は元綱と申します」

「朽木と言えば……」

 ぼくは呟いて、腕を組む。

「代々、足利将軍家に側近として仕えた家柄にございます。歴代の将軍が京を追われた際、匿い、京への帰還を果たすのに尽力した忠誠心に篤い一族にございます」

「一度会ってみたいものだな、その元綱という人物に」

「……それが」牛一が口籠った。

「殿と公方様の間柄がこじれていることを知っているようで、殿を好ましく思っておらぬそうでございます」

「なるほど……」


「ここらで、腹ごしらえをしておきましょうか」

 彼は話題を変えた。

 藁で包んだ味噌むすびを出し、ぼくの前に並べた。

「ウシよ、朽木と話が出来る人物、誰かおらぬか?」

「そうですな、思いつくのは、松永久秀殿にございます」

「久秀か……」

 ぼくはむすびに噛り付いた。


「殿から命じられていた、公方さまへの条書の原案にございます。お目通し願います」

 彼は一枚の和紙を目の前に置く。ぼくはにぎりを頬張りながら手に取る。

 五箇条の条書は、箇条書きで記されていた。後は、ぼくが花押を記すだけになっている。その概略は以下の通りであった。

 一に、諸国への御内書は信長の書状を添えること

 二に、これまでの命令はすべて破棄し、改めて定めること

 三に、恩賞、褒美は信長の分領から将軍が命令すること

 四に、天下のことは、信長の判断で成敗すること

 五に、宮中の儀は将軍が間違いなくおこなうこと


「これでよい、二枚清書し用意しておけ」

「はっ」

「畿内、その周辺の大名への上洛を促す書状はどうなっておる」

 牛一は無言でもう一枚の書面をぼくの面前に置いた。


 禁中御修理、武家御用、その他天下いよいよ静謐せいひつのため、と記され、三月中旬には朝廷と幕府に礼参すること、と記されている。

「これでよい。われが署名花押を記す故、即刻前もって定めた二十一国の諸大名、諸将に、この触状を送りつけるのだ」

「はっ」牛一はそう言ってぼくを見詰めた。

「公方様の同意を得ることなく、進めて構わぬのですか」

「構わぬ。その前に、条書を承諾させるのだ」

 彼は無言でぼくを見詰める。

「よいか、ウシよ、その条書は光秀に届け、義昭の承諾を得よと命じるのだ。われの命令だと伝えよ。光秀がどの程度の人物か、見届けてやる」

「はっ」


「権蔵はおるかっ」

 ぼくは手のひらを叩いた。

 権蔵が森の中から飛び出してくる。

「ここに」

「これからは、そなたが、案内いたせ」

「はっ」


「ウシよ、万端抜かりなく用意をし、われが戻るのを待て。それから、もう一つ。松永久秀に連絡をとり。早急に元綱を調略せよ、とわれの言葉を伝えるのだ」

「畏まりました」



 朽木谷を丹念に探索し、熊川、佐柿を経由して敦賀に入った。

 城下の宿に二日逗留して、帰路は馬を走らせて大原に戻った。やはり、難関は朽木谷越えだ。

 現在、朽木氏は浅井の傘下に入っている。朽木氏を敵に廻せば、生きて京に戻るのは難しいだろう。ぼくは暗澹たる思いに閉ざされていた。

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