83 藤吉郎と半兵衛が凄い 新加納の戦い
戦場での戦死者は意外と少ない。戦死者の多くは敗戦後の退却時に発生する。当時殿(しんがり)が重要視されたのは、敗戦時の被害を少しでも少なくするためである。
撤退はすまい、とぼくは固く心に決めていた。
敗色濃厚な今、ぼくが撤退すれば、五千の兵を失った父信秀の加納口の戦いの二の舞になる。
美濃軍の波状攻撃は執拗であった。
全軍冷静でいることが重要である。一対一の戦いでは、決して負けてはいない。目の前の敵に集中するべきである。
ぼくは、僅かずつだったが、後退を続ける事を指示していた。
敵の陣立てが分かってきた。
わが軍の線状に伸びた五つの備(そなえ)を、両サイドから十の備を持ってはさみ、包囲するという戦法であった。こんな陣立てをぼくは聞いたこともないし、見たこともない。
午後八時を回ったころ、蜂須賀小六が現れた。
「殿、敵の指揮官は、竹中重治という者にございます」
初めて聞く名であった。
「通称半兵衛と申す、若者にございます。歳は十九歳になったばかりだとか」
「何者だ、そやつは」
「揖斐の大御堂城の城主にございます。長良川の戦いでは道三さまに味方し、籠城戦に勝利しております」
「うん……。敵ながら天晴な強者である。勝家に負けぬ劣らぬ豪の者であるな」
「半兵衛は、おなごのように美しく、しなやかな若者と聞いております」
「何と……」
「しかしながら武勇に優れ、豪胆さを兼ね備えた人物であるとか」
「ウム……」
「それほどの者が、何故今まで世に出てこなかったのだ」
「おなごのごとき風貌ゆえ、軽く見られておるのでございましょう」
「ウム……」
「殿、二陣の森可成さまの軍が、崩されました」
伝令が叫んだ。
「勝家に伝えよ、二陣と合流し、立て直せ、と」
「はっ」
「殿、稲葉山の尾根続きに、火が見えます。
小六が叫んだ。
ぼくは小六の指さす方向に視線を回した。
火の点々が次から次と浮かんでくる。それが一列となって、稲葉山城の方向へ伸びていく。松明を灯した軍団に見えた。その数数千。
「稲葉山城攻撃にございますか。こちらの軍は陽動作戦でしたか」
小六が訊いた。
「いや、われは知らぬ。小六、確かめてまいれ」
「はっ」
ぼくは態勢を立て直しながら、両サイドを丹羽長秀に委ね、勝家の備えに向かう。そのうち、ぼくの軍の勢いは敵と互角になっていく。一方的に攻められるだけではない。徐々に押し返していく。
「われらの別動隊が、稲葉山に向かっておるぞ」
後方の長秀の軍から叫ぶ者があった。その叫びが木霊となって戦場に広がっていく。
突如、美濃軍が引き始めた。
あっと言う間に、敵軍が闇の中に消えていく。激しい怒声が重なりあっていた戦場が、静寂の闇に閉ざされていく。
何が何だか、分からなかった。
戦場の篝火はわが軍だけになった。
勝家が顔を血潮に染めて現れた。
「殿……」
彼は茫然とぼくの前に馬体を寄せた。
「無事だったか」
「はっ。可成も無事です」
「そうか……」
「何があったのでございますか」
「何者かが、われらを救ったのだ。今小六が調べておる」
二陣森可成に続いて、先陣池田恒興の軍も引いてきた。
「勝家、負傷者を連れ帰れ、戦死者は木曽川河畔まで、運びこむのだ」
「はっ」
「これより退却する。殿(しんがり)は、長秀に命じる。そう伝えよ」
木曽川を渡り、尾張国内に戻ってきたときは、夜半を過ぎていた。そのまま小牧山の普請場まで進み、野営した。
小六が馬を駆ってやってきた。
息切れぎれに、ぼくのもとに駈けつけてくる。
「殿、あの松明の篝火は、サル殿の知恵にございました。農民たちに松明を持たせ、尾根筋を稲葉山に向かって歩かせたのでございます」
「ウム……、サルであったか」
清州城から帰蝶と太田信定が馬を飛ばして駆け付けた。
「殿、ご無事で何よりにございます」帰蝶がぼくの顔を見るなり大声を上げた。
「これは、わたしの負け戦にございます。殿に何かがあれば、わたしの命も散らす所存でございました」
「そなたの責任ではない。われが決めたことだ。このたびは、サルの機転に救われたわ」
帰蝶の後ろから信定が顔を見せた。
「殿、敵の陣立ては、十面埋伏の計にございます。中国の三国志なる書物にございます。三万の軍が三十万の軍を打ち破ったと記されております」
ウム……、竹中半兵衛、恐るべし。
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