75 大垣城氏家直元の調略とサルの結婚



 翌月の八月三日の夕暮れ、書院でぼくは帰蝶と茶を飲んでいた。帰蝶の膝元には嫡男奇妙丸(信忠)が菓子を食べている。奇妙丸は四歳になった。

 久しぶりの団欒である。

 小姓が襖から声をかけてきた。

「殿、木下殿が、火急のご報告があるとのことでございます」

「通せ」

「はっ」 


 木下藤吉郎が、廊下に顔を見せると、小さく丸まって控え、日焼けした顔を向けた。

「サルよ、遠慮するな。中に入れ」

「ははっ」

 藤吉郎が膝を曲げたまま茶室に入ってきて、ぼくの目の前で胡坐をかいた。


「殿、吉報にございます」

 彼は懐から書状を出すと、ぼくの前に置いた。

「大垣城の城主氏家直元さまからの密書にございます」

 ぼくは書状を開く。

 

 われ氏家直元は、これより織田信長殿の陣に加わり、事ある時は織田方として戦うものである。ここに誓約する。直元の署名と花押が書かれてある。

 ぼくはその書状を帰蝶に見せた。


「龍興は愚かな男でございます」

 帰蝶はぽつりと呟いた。

 帰蝶が何を思ったのか、ぼくにはすぐ分かった。斎藤龍興が美濃三人衆を差し置き、長井通利を筆頭家老に据えたこと、そしてその人事が古参の家老たちの反感をかったことを言っているのだ。


 藤吉郎は人を丸め込む才能がある。まさに人たらしである。調略戦には力を発揮するかもしれない。

「サルよ、天晴である。褒美をとらす。何でも申してみよ」


「実は……」

 藤吉郎はそう呟いて、口籠った。

「サル殿、殿のお言葉です。はっきりと申されたらいかがです」

「われは、浅野又左衛門殿の娘、ねねと事実上の結婚をいたしております」

「事実上の結婚とは、なんじゃ」

「それは、……それで、ございます。ねねの母殿が、われの身分が低いこと嫌い、結婚を認めてくれないのでございます」

「それで、われに、どうしろというのだ」

「非常に、畏れ多いのですが、母殿を説得していただきたく、存じます」

 藤吉郎が、床に額を擦りつけている。


「チョウよ、何とかならぬか」

「それは、殿の役割にございます」

「ウム……」


「殿、サル殿の役職を上げられたらいかがです」

「うん……。今の役職は何だ」

「ご存じなかったのですか。ずっと殿直属の小者のままです。サル殿は、戦場での武勲がなかったため、据え置かれているのでございます」


「浅野又左エ門の役職はなんだ」

「弓衆足軽の組頭にございます」

 藤吉郎が答えた。

「そうか、それならば、おまえも、その組頭にしてやろう」

「それは……」


「殿、それでは、あまりにも、お考えが透けてみえます」

「それならば、どうすればいい」

「とりあえず、小人頭になされたら、いかがです」

「それならば、サルよ、おまえを、弓衆足軽小人頭に任命する。それで、よかろう。ねねの母殿も、納得するであろう」


「それが……」

「まだ、何かあるのか」

「われは、母殿に嫌われておりまして……。この体と顔が嫌いなようでございまして」

「ウム……」

 そればかりは、なんともならぬ。

 

「ねねの母殿を、説得していただきたいので、ございます」

 帰蝶が笑いだした。


「よし、分かった。良き日に、鷹狩にでかけたおり、浅野の屋敷に立ち寄り、茶を所望することにいたそう。サル、そのときは、おまえも同行いたせ」

「ははあっ。ありがたききぃぃ」

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