76 松平元康の家臣石川数正の嘆き 清州同盟



 永禄四年、1561年の暮れ、滝川一益が緒川城主水野信元、松平元康の家臣石川数正と共に清州城に戻ってきた。その日は、信元と数正を供応し、翌日帰蝶、太田信定と共に広間で対面した。


「一益、ご苦労である。信元殿、数正殿、よう来られた」

「信長さまには、ご健勝のよし、心よりお喜び申し上げます」

 数正はひれ伏した。


 数正は二十九歳、ぼくと同じ歳である。元康の懐刀と言われる知恵者である。彼は元康が今川の人質となつていたころ、近侍として仕えていたと聞く。

「信長さまのことは、平岩親吉から聞いております。信長さまの桶狭間の戦ぶりには感服しておりまする」


 平岩親吉とは、桶狭間の戦いでぼくを桶狭間山の今川義元本陣に導いてくれた元康配下の武将である。(51話) 彼も元康が今川の人質となっていた時、元康付の小姓であった。数正と親吉は、その頃からの顔見知りなのであろう。


「わが主、松平元康は、織田信長さまと、軍事同盟を結ぶことを、せつに願っております。できますれば、新年早々の良き日に、成立させたいものでございます」

「われに、異存はない」ぼくは即座に答えた。

「かつて、元康殿と約束を交わしたとおり、対等な軍事同盟でござる。われは、元康殿の敵に対しては、われの敵とみなして戦う所存」


「わが殿も、信長さまの敵をわれらが敵として戦う所存でございます」

「協定文書の作成については、わが方は、ここに控える太田信定が担当する。よろしく頼む」


「数正殿、元康殿母上、於大さまはご健在か」

「於大の方は、健在でございます」そう言うと、数正は俯いて吐息をついた。

「わが殿が心痛しておるのは、正室の瀬名姫と子供たちでございます。いまだ、今川の人質として、駿府に捉われておりますゆえ」

 子供たちというのは、嫡男の竹千代(信康)と長女の亀姫のことである。

「織田と軍事同盟となると、心配になりますな」

 

 帰蝶も珍しく溜息をつく。

「わが殿は、織田家との縁組を考えておりますが、その願いも遠くのこととなりまする」

 数正は嘆息混じりに答える。


「数正殿」

 ぼくは笑みを浮かべ、語りかけた。

「知恵者の、そなたのことだ、よき考えがあるのでは、ないか」

「あることは、ありますが、なかなか難しいことで、ございまして」

「元康殿には、たしか、又造という甲賀武士がいたのではないか」

「おります」

「われにも、甲賀の素っ破、権蔵なる者がおる。それに、この一益も甲賀の出でありますぞ。甲賀衆と、具体策を練ったらどうであろうか」

「はああ、ありがたきことで、ございます。よろしく、お願いいたします」


 翌年、永禄五年、1562年正月、松平元康らの一行が織田菩提寺万松寺に入り、その夜の宿にした。万松寺は父信秀の葬儀を行った場所である。元康にとっては、織田家の人質となっていた六歳から八歳の間、住まいにしていた場所でもある。感慨深いものがあるだろう。


 翌日、ぼくと元康は清州城本丸の広間にて会見を行った。

 攻守同盟の約定を締結する。いずれかが敵に当たる時、攻守いずれの場合でも、協力するというものであった。


 元康主従を豪華な饗応でもてなした。引き出物として、ぼくは秘蔵の太刀と脇差を元康に贈った。

 実に楽しかった。

 これで、東からの攻撃の心配がなくなった。美濃攻略に専念できる。


 宴の後、ぼくは元康、数正を誘い、帰蝶、一益と共に茶室に入った。

 茶をたて、振る舞う。


「引き出物がもう一つござる」

 ぼくは茶碗を元康の前において、笑みを浮かべる。

「瀬名姫、竹千代、亀姫のことにござる。上之郷城を攻めなされ。周囲はすでに元康殿の勢力下、この城は孤立しております。城の城主は義元の妹の子、鵜殿長照でござる。城には長照の子、氏長、氏次もおるとのこと。この城を攻め落とし、鵜殿父子を生け捕りにするのでござる。それで人質交換をされたらいかがでござる」

「うん」

 元康も笑みを浮かべて頷く。


「生け捕りのためには、甲賀衆をお使いなされ。われは全面的に協力いたす。同盟最初の戦でござる」

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