第二幕 美濃攻略戦から上洛まで
第五章 美濃攻略前哨戦
60 西美濃に侵攻する(1)
生暖かい風が吹いてくる。
川面が陽の光を浴びて輝いている。
馬の嘶き、水しぶきを蹴る蹄の音が響き渡る。
桶狭間の戦いを終えて、わずか六日後の六月二日、ぼくは再び戦場に立っていた。
尾張中嶋郡から木曽川を渡り、さらに長良川を渡り、ぼくは千の兵を率いて、西美濃に侵攻したのだ。
青々とした草地が広がり、その彼方に揖斐川が見える。
兵は疲労していた。しかも小数だ。
東尾張の鳴海城には城主に佐久間信盛を据え、兵七百を配置している。沓掛城には簗田政綱を城主に抜擢し、千二百の兵を配置している。今川からの攻撃に備えるためだ。
それに鉄砲の弾と火薬が不足していた。桶狭間の激戦で、多くを使い果たしてしまっていたのだ。
それでもなお、西美濃に侵攻せざるをえなかった。
美濃に不穏の動きあり、という情報が伝えられたのだ。尾張は今川との戦いで兵も装備も疲弊していると見た斎藤義龍が、北尾張に侵攻してくるという情報である。柴田勝家、丹羽長秀ら武闘派が、先手攻撃を主張した。
手をこまねいていたら、美濃の大軍が北尾張に大挙して押し寄せてくるであろう、と主張したのだ。
正直言って、ぼくは、美濃とは戦いたくなかった。
西美濃は、ぼくにとってあまりいい思い出がない。義父斎藤道三を失い、惨敗したことのある場所で、縁起が悪い土地柄だからだ。それに西美濃勢の強さは身に沁みている。
一方で、もう一つ気になる情報があった。カナデからの情報である。義龍が病で伏せているというのだ。この情報には、触手が動く。嘘か誠か試してみたくなるではないか。
そこで五人の仲間に相談した。
帰蝶が真っ先に反対した。西美濃には、多岐、池田両軍が控えており、おそらくこの両軍と戦いになるであろう。気になるのは北方の大垣城の行動が読めないことだという。
木下藤吉郎と蜂須賀小六は、西美濃に出兵し、相手の出方を窺ったらどうかと進言した。本田信定(牛一)と前田利家は、意見を言わなかったが、気乗り薄のようであった。
「出向いて、相手の出方を見よう。西美濃八郡を焼き払い、一歩も引かぬことを見せてやろう。義龍がどう出るか、見てみたいではないか。チョウよ、いつでも如何なるときでも、撤退する覚悟でまいる。心配いたすでない」
ぼくはそう言い切った。
ぼくのこの決断に、帰蝶は反対しなかった。
揖斐川の向こうに、敵軍の旗印が見えた。河幅は二百メートルほど、一挙にわたって来れる距離である。
「殿、丸茂、池田の両軍でございます」
丹羽長秀がぼくの脇に馬を寄せて言った。
「五郎左(長秀の通称)、兵の数はいかほどか」
「おそらく、両軍併せて、千四、五百ほどかと」
「大垣城の城主は、長井甲斐守であったな」
「はぁ」
「甲斐守は、いかほどの兵を調達できるのか」
「おそらく、千ほどかと」
「三軍併せると、二千五百か。五郎左、敵地でのこの差は、分が悪いのではないか」
「大垣城が、出向いてくるとは、限りませんぬ」
ウム……。まずいではないか。帰蝶の心配が現実になるやもしれぬ。
「五郎左、大垣城方面に、物見の母衣を出すのだ」
ぼくは馬を駆って、敵軍の見える位置まで行った。
柴田勝家がぼくを追ってきた。
「権六、どう見る」
「目の前の敵には勝てます。今、大垣城方面に、物見の母衣を出しました。殿には、大垣から、目の前の敵に援軍が来るとお思いですか」
「岐阜城の義龍が健在なら、必ずくる。もし、そうでなければ、出てくることは、あるまい」
美濃軍が揖斐川を渡って進軍してきた。
「権六、長良川を背にして、陣立てするのだ。歩兵は決して前に出てはならぬ。騎馬兵が、まず向かい討つ。歩兵はその後ろで、長槍を立て、その背後から弓矢を射るのだ」
「はっ」
「権六、機会を待て。大垣城が動かぬときは、一挙に、敵を叩き潰す。陣立てせよ。急げ」
「はっ」
美濃軍は、二軍に分かれて進軍してきた。
美濃の軍は、わが軍と同じ長槍部隊である。そもそも、この長槍を考案したのは、斎藤道三なのだ。ぼくは、それを真似ただけなのである。
わが軍は、美濃の軍を引き付けた。敵軍歩兵と我が軍騎馬兵との、長槍の叩き合いが始まった。一時間ほどの肉弾戦が続いたのち。騎馬兵を左右に分け、移動させた。その隙間を狙って、弓矢を一斉に美濃軍に射かける。
母衣武者が馬を駆ってきた。母衣にいくつものの矢が突き刺さっている。
母衣武者は、ぼくの前に転げ落ちた。
「殿、大垣城から、大軍がこちらに向かっております」
「五郎左、撤退にかかれ。全軍、撤退だ」
ぼくは大声を上げた。
歩兵が川の中に退いていく。
騎馬兵が美濃軍を両サイドから、牽制する。
退きながら、一斉に弓矢を放つ。
北方から、揖斐川を渡って、歩兵の大軍が現れた。
「急げ」
ぼくは絶叫する。
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