31 信長、母土田御前の嘆願により信行を許す……



「との……」

 声に導かれて、ぼくは目を覚ました。

 帰蝶が覗き込んでいる。


「ここは……」

「那古野城近くの陣屋でございます」

 ぼくは体を起こした。

「殿は、わたしが不在の時に、いつも発作をおこしますな。癲癇は二度目でございます」

 ぼくは空を見つめたまま何度も瞬きした。心が爛れている。心も体も酷く打ちのめされたのだ。

「殿、殿の肩に刺さった矢には、毒が塗り込まれておりませんでした。命拾いをされましたな」



「何があった?」

「なにもありませぬ。殿が大声で恫喝したので、柴田の軍勢が震えあがっただけのことのようです」

「帰蝶」

「はい」

「誰も話していなかったのか、六天魔王のことを」

「はい」


 六天魔王の祟りを恐れて、すべての者が口を噤んだのか。それとも、すべての者の記憶から自らのことを、六天魔王は忘却させてしまったのか。


 利家と信定(牛一・ウシ)が陣屋に入ってきた。

 二人に帰蝶は笑みを浮かべて頷いた。

「殿、戦況を報告しますが、よろしいですか」

 利家が訊いた。ぼくは頷く。

「柴田軍は、末盛城に逃げ込み、籠城いたしております。林軍につきましては、敵将林美作をはじめ主だった武将四百五十を討ち取ってございます。既に壊滅状態です。残兵は那古野城に逃げ込み籠城しております」


 ぼくは板張りの寝台から降りると、利家の耳に小声で囁いた。

「イヌよ、六天魔王を見たか?」

 利家は笑みを浮かべるとぼくを見詰めて頷いた。そうか仲間の利家だけに六天魔王は記憶を残したか。


「サルとハチを呼び寄せろ。当分、われに向かってくる敵はおるまい」

「那古野城と末盛城はどうされます」

「兵糧攻めにする。周りを取り囲み、一兵たりとも逃がすでない。鉄砲をそれぞれ二百丁配置し、威嚇射撃を繰り返すのだ」


 ぼくは陣屋を出て、遠くに見える那古野城を眺めた。

「イヌ、ウシよ、那古野と末盛の城下を焼き払え。みせしめだ」



 それから一週間、ぼくは清州城の寝間で傷の養生をして過ごした。


「殿」

 廊下で帰蝶が片膝を立ててぼくを見詰めている。ぼくは体を反転させて帰蝶に視線を送った。

「土田御前さまが、お見えです。殿にお話があるとのことです」

「ウム……」

 ぼくは腕を組んだ。今は会いたくなかった。どうせ、可愛い信行の命乞いにきたのであろう。母だろうが、誰であろうが、信行の免罪はするまいと心に決めていた。


 ぼくは無言のまま天井を見つめていた。

「どうなされますか。追い返しますか」

「ウム……」


「殿、お会いになって、信行は断じて許さぬと申されたらどうです。それが、戦国の世のならいだと」

 帰蝶の心のうちはよくわかる。ぼくが母親に会えば、心が和らぎ信行を許すに違いないと思っているのだ。

 ぼくは立ち上がった。

「御前さまは、大広間に控えておられます」


 ぼくが大広間に入って行くと、母土田御前は立膝で頭を垂れていた。ぼくは無言で胡坐をかいた。

「信長殿、この度は、信行がそなたに不埒な行いをしてしまいました。母から心からお詫びいたします」

 ぼくは腕を組んで目を閉じていた。

「どうか、どうか、そなたの弟信行をお許しくだされ」


 ぼくは目を開けて、土田御前を見つめた。彼女は目を落としたまま、息を殺している。

 数分が経った。

 ぼくは重い口を開いた。

「信行は、われの命を取ろうとしたのですぞ。血を分けたわれの命を……」

 ぼくの唇は震え、両眼は涙で満ちた。


 土田御前は片膝を崩し、額を板の間に擦りつけた。

「なにとぞ、なにとぞ」


 ぼくは天井を見上げた。

 吐息が涙で濡れて、こぼれ落ちる。

 ぼくは大きな溜息をつくと、立ち上がった。


「母上、末盛城に戻ったら、信行に言って下され。再びわれに歯向かったときには、容赦しない、と」

 ぼくは廊下に出た。

 控えていた帰蝶と目が合った。彼の目は濡れていた。

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