30 信長絶対絶命 鬼柴田抜刀して襲いかかる 稲生の戦い
六月に入って、事態はさらに悪化していく。守山城で異変がおきたのだ。
重臣佐久間信盛の薦めで、弟信時を城主に据えたのだが、この信時が重臣の角田新伍によって切腹に追い込まれたのだ。男妾の坂井孫平次を重用し、角田新伍をないがしろにしたため逆恨みをかったのだという。なんとも情けない話である。
それを喜んだのが、弟織田信行である。
角田新伍が横領した守山城を味方に誘い込む。信長を恐れた角田新伍は、信行側と手を組み、公然と反旗を翻した。
さらに、信行は横領した篠木に砦を築き、庄内川の東側をわがものにする策に出る。ぼくは対抗し、名塚に砦を築かせ、佐久間盛重に防備を委ねた。
八月二十三日の夕暮れ、清州城に母衣武者によって信行挙兵の知らせがもたらされた。ぼくは直ちに利家、森可成、丹羽長秀を呼び寄せる。
その頃、信長は弟信行のほか尾張の内外に多くの敵を抱えていた。美濃には斎藤義龍、尾張の上四郡には岩倉城主織田信安、東には今川義元。多方面に兵を割いていた。美濃には小六を、上四郡には信定、今川には藤吉郎を配置している。今清州にいるのは、帰蝶と利家の二人である。
「末盛城からは、柴田勝家軍、那古野城からは、林美作軍が今日昼に出立しております。柴田軍千、林軍七百でございます。向かう先は、名塚砦でございましょう」利家は絵図を指さして言う。
「それに比べ、我が軍は七百」
「上四郡にいるウシ信定の軍五百を呼び寄せることにする。それは、われに任せよ」ぼくは絵図を指さした。
「我が軍は五条川を渡り、東に進み、庄内川を渡って、名塚に行く」
「肉弾戦になりますな」
森可成が言った。ぼくは頷く。
「可成、長秀、イヌ利家、軍備が整い次第、清州を出立する。少なくとも明日昼までには、名塚に着かねばならぬ。すぐさま取り掛かれ」
「はっ」
三人は立ち去った。
ぼくは大の字になって天井を見上げた。
帰蝶がぼくを見下ろしている。
「明日は、わたしも、一兵卒になるしかありませぬな」
「そなたは、われの事実上の後見人だからな。だが、この度はそなたに頼みたいことがある」ぼくは上半身を起こした。
「上四郡に向かい、ウシにことの次第を説明し、名塚に来るようにと、われの命令を伝えるのだ」
「分かりました。直ちに馬を仕立てて飛ばして参ります」
ぼくは再び大の字になって大欠伸をし、目を閉じた。
目を開けたときには、帰蝶の姿はなかった。
夜半過ぎに五条川を渡り、七百の兵は黙々と東に進む。庄内川に向かう途中で、雨になった。兵たちは麦藁合羽で雨をしのぎながら歩き続ける。
東の空が明るくなり始めた頃、ようやく庄内川の畔に辿りついた。雨は止んでいた。庄内川の水嵩が高まり、濁流になっていた。対岸に敵の姿は見えない。兵たちは河原で火を焚き、体と着物を乾かした。湯を沸かし携帯食を食べる。
ぼくは倒木に腰を落とし、物見の報告を待っていた。
兵たちはうたた寝をしている。空が明るくなり、陽の温もりが体を温める。
物見の兵が川を渡ってくる。まっすぐぼくの元に駆け寄る。
「柴田軍千が、東に布陣しております。南には林軍七百が布陣しております」
「わが軍に川を渡らせ、挟み打ちにする算段だな」
ぼくは呟いた。
「しかし、川を渡るしか、われらに方策はありませぬ」
長秀が言った。
ぼくは唇を噛みしめる。
可成が話を繋ぐ。
「われらが黙視していれば、敵は痺れを切らして名塚砦を攻めてまいりましょう」
敵が名塚砦をあえて攻めていないのは、われらをおびき寄せる餌にしているからだ。彼らの算段は目に見えている。だからと言って、名塚砦の将兵を目の前で見殺しにすることはできない。
ぼくは庄内川を渡ることを決意した。
名塚砦の裏側に向かって一斉に川を渡った。
ぼくは直ちに態勢を整わせ、間髪入れずに東側の柴田軍に攻撃を仕掛けた。 ぼくも長槍を構え、戦陣に加わる。
利家がぼくの前に立ち塞がった。
「殿は、四十の兵と共に、ここで戦況を見守ってくだされ。われらが、柴田軍勢を打ち砕いて見せます」
今までの戦いで、これほど苦境に立たされたことはない。戦略を読めないということは、苦戦を強いられるということだ。
やはり、柴田勝家は手強い。
血みどろのの肉弾戦が一時間ほど続いた。
「殿、佐々孫介が討たれました」
伝令が眼の前で大声を上げる。このままでは、押しつぶされてしまう。
ぼくの悪い予感は当たった。
柴田の軍勢が目前に迫ってくる。ぼくの周りには四十ほどの兵しかいない。
矢が唸りを響かせてぼくに向かって飛んできた。甲冑の袖を貫く。ぼくは馬上で態勢を崩し、転げ落ちた。
「敵の御大将、信長を討ち取ったぞ」
敵陣から大声が上がった。歓声が上がる。
ぼくは兵たちに両脇を抱えられ、後方に下がる。
それからのことは、よく覚えていない。ぼくはただひたすら無我夢中で逃げた。
気が付いた時には、ぼくは寺の本堂にいた。壁際に腰を落とし、壁に体を委ねている。
甲冑武者二人と足軽一人がぼくに寄り添っていた。
「殿、気付かれましたか。傷は浅いのでご安心くだされ」
足軽が語りかける。ぼくは唇を噛みしめて頷いた。
開かれた戸口の逆光の中から甲冑武者が姿を現した。
肩が大きく波打っている。顔を返り血を浴びて真っ赤に染まっている。そしてその両眼はぼくを見据えている。
「のぶながっ」
その武者は大声を上げた。
柴田勝家、敵の大将。鬼柴田だった。
ずかずかとぼくに向かって歩いてくる。
ぼくの傍にいた二人の甲冑武者は、抜刀して勝家に向かっていった。二人は同時に斬りかかっていったが、あっという間に崩れ落ちた。勝家はぼくを見据えたまま一歩ずつゆっくりと歩いてくる。
「信長殿、お命頂戴つかまつる」
ぼくの前で長槍を構えていた足軽が真っ二つにされ、床に転がる。
「覚悟っ」
勝家は太刀を上段に構えた。
背中が熱くなった。
背後から青白い炎が立ちのぼる。そしてぼくは炎に包まれた。
「小僧、振り向くではない」
地鳴りのごとき唸り声が耳を覆う。
六天魔王……。その声には聞き覚えがあった。
炎は大きく立ち上がり、本堂を覆っていく。
勝家は尻もちをついたまま、後ずさりしていく。
ぼくの体は大きな手で持ち上げられた。そしてゆっくりと勝家を追っていく。
勝家は本堂から姿を消した。ぼくは得体のしれない力に支えられて進んでいく。門前に立った。勝家が参道の階段を転げ落ちていくのが見えた。
ぼくは青白き炎に包まれて参道の上に立った。
眼下には、血まみれになった兵たちが茫然とぼくを見上げている。
「われは、六天魔王、織田信長であるっ」
地鳴りのごとき声が響き渡った。
勝家軍の兵たちは混乱に陥り、われ先と逃げ出した。
その時、ぼくはどのような姿をしていたのか分からない。
ぼくは口から泡を吹いた。そして何もかも分からなくなった。
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