26 竹千代(家康)の母於大の願い いざ三河野寺原へ
「信長殿、竹千代の母、於大にございます」
信元の妹は深く頭を垂れた。
竹千代が三才の時だ。当時三河は今川の支配下にあった。
於大は離縁された後、実家である緒川城に戻っていたのである。母と子は分かれ別れになって、九年が経過していた。
兄の緒川城主水野信元が口添えする。
「わが妹於大は、信長殿に尋ねたきことがございます」
ぼくは頷いて、於大を見つめた。
於大は頭を上げると、ぼくの周りにいる仲間に目をやった。
ぼくは笑みを浮かべる。
「ここにおる者たちは、われの分身も同然。安心して話してくだされ」
「信長殿は、三河をどう扱われるおつもりですか」
「どう、扱う……」
ぼくは彼女の問いを繰り返す。
「例えば……、私は竹千代と一緒に暮らせますか」
ぼくは大きな吐息をついた。そしてゆっくりと答える。
「それは、当然のことでありましょう」
「分かりました。信長殿、三河の松平家の武将たちは、すべてが今川に服従している者たちだけではありませぬ。竹千代を主君として三河の再興を望む者もあります。私は兄と共に、竹千代の三河を盛り立てていくつもりです」
ぼくは笑みを浮かべた。
「竹千代殿は利発な少年と聞き及んでおります。将来天下を取る人物かもしれません」
「そのようなことが……」
於大は声を出して笑った。
「於大殿、われは三河と共に、戦のない世を作りたいと思っております。三河は竹千代殿を主君として、自立なされよ。われ信長は全面的に支援いたしますゆえ」
於大はぼくの顔を見て、大きく頷いた。
「そこで、信長殿」信元が真顔で話しかける。
「今、三河に深入りするのは、好ましくないのではありませぬか」
ぼくは腕を組んで天井を見上げる。信元の具申は的を射ている。ぼくも兵の引き際を考えている。
「信元殿に、何か妙案がおありか」
「明日の戦いの後、和議を申しこまれては、いかがかと」
「和議の内容は?」
「三河守護の居城西尾城を、吉良義昭さまに返還されること。それを確認したうえで、織田軍撤兵するということで」
「皆の者、どう思う}
ぼくは仲間に問いかける。
「その条件を、今川方が飲むかどうか、一抹の不安があります」
信定(牛一・ウシ)が静かな口調で答えた。
「於大殿にお願いがござる」ぼくは於大に顔を向ける。
「奥三河の武将に、反乱を起こすように促していただきたい。勿論和議においては、反乱を起こした城主に対し、お咎めなしの沙汰も含めます」
「分かりました。私の息のかかった武将がおりますゆえ、文をしたためましょう」
「サル、ハチよ、二名で手分けして、この任務に当たれ」
翌朝陽が昇らぬうちに、義昭軍、信元連合軍千二百が刈谷城を出た。南下してくる鳴海城軍を阻止するためである。
ぼくは刈谷城門前に二千の兵を揃えた。今回の戦には、五百の鉄砲隊を加えている。できるだけ早く戦いを終息させるためである。
騎乗した藤吉郎、小六がぼくの前にやってきた。
「殿、われらは、これより奥三河に出立いたします」
利家が大声を上げる。
ぼくは二人に檄を飛ばす。
「心してかかれ」
奥三河の豪族、菅沼、松平両名に対する於大からの使者である。菅沼には藤吉郎、松平には小六が当たる。この二名には、それぞれ五名の馬廻衆と二名の素っ破(忍者)を従わせた。
ぼくは矢作川を目指して軍を進める。
陽が天空にさしかかったころ、赤い母衣(ほろ)を背負った兵が馬をとばしてくる。物見の伝令である。彼はぼくの前で下馬すると、血走った目で見上げる。母衣には矢が数本突き刺さっており、骨組みの竹がむき出しになっている。
「殿、今川軍が、矢作川に向かって進軍しております。その軍勢、約三千。総大将は、松井忠次とのことでございます]
ぼくは下馬し、信定に絵地図を用意させる。
「どの辺であるか」
母衣衆は地図の一点を指さす。
「ここで、ございます。今は、矢作川までおよそ一時間の所まで来ているかと」
「敵は鉄砲を用意しておるか」
「はい。確かではありませぬが、百丁ほどと思われます」
「ご苦労であった。休むがよい」
「殿、矢作川まで、われらの軍は二時間ほどかかります。松井忠次の軍は先に川を渡るやもしれません」
「渡ってくるとすると、戦場は、ここ野寺原になる……。渡ってこなければ、川を挟んでにらみ合いになる」
「明らかに、われらにとって野寺原で戦うが有利でございます」帰蝶が言った。
「今川軍に川を渡らせなければなりませぬ」
「われらの軍を、四軍に分けましょうか」
そう言って、信定はぼくの顔を伺う。
「四軍? どのように分ける」
「一軍はおとりの軍、二軍は歩兵部隊、三軍、四軍は鉄砲隊」
「ウシよ、話を続けよ」
「一軍は、騎兵三百。先に矢作川に向かわせます。二軍千は、その後に続きます。三軍、四軍はそれぞれ鉄砲隊二百五十、歩兵百。二軍の両脇を固めて、隠密に進軍させます」
「チョウ、イヌ、どうだ?」
「よろしかろう、と」
帰蝶が同意した。利家も頷く。
「殿、われに、一軍の任務を命じてくだされ。今川が川を渡っていなきときは、必ずや、野寺原におびき出してみせます」
利家が大声を出した。ぼくは笑みを浮かべて頷く。
「侍大将を集めよ。命を伝える」
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