25 今川との駆け引き 三河野寺原の戦い
その年弘治元年十一月二十六日。織田信光が近臣坂井孫六郎によって暗殺されたという知らせが、家老佐久間信盛からもたされた。孫四郎が信光の北の方と密通していたのが原因だという。
やがて、その暗殺を企てたのはぼく信長である、という噂が立ち始めた。信光が亡くなって一番利益を得たのはぼくだからである。なんとも不愉快な事件である。ぼくは断じてそのような企てを実行してはいない。
ぼくは信盛に事の始末を早急につけることを命じた。
後日信盛が来て、孫四郎を処断した旨の報告をした。ぼくはこの事の顛末について深く追求することはしなかった。裏で孫四郎を操っていたのは信盛かもしれないと思ったからだ。
翌年弘治二年、1556年は、信長にとって多難な年になる。ぼくが信長の体に
入ってから九年目の年だ。信長は二十三歳になっていた。
夜睡眠中に、信長はぼくの中で暴れまくる。ぼくの心は熟睡することはなかった。この事を、六天魔王は知っているのだろうか。
ただ萱津の戦いの以後、ぼくの心を破って外に出てくることがなかったのは幸いだった。
三月になって、今川とのトラブルが発生する。
今川の勢力下にある三河の守護吉良義昭が信長側に接近、寝返ったのである。吉良家は足利家につぐ名門である。尾張の守護斯波の手前上無視する訳にはいかないからだ。
だが、尾張の政情はまだ不安定であった。北には上四郡岩倉織田家、南には弟信行、さらに美濃の動きも暗雲立ち込めている。
(蛇足であるが、吉良といえば、吉良上野介。赤穂浪士の仇役であることは歴史好きだったら誰でも知っている)
帰蝶と藤吉郎は、今川に介入し三河に楔を打ち込んでおくべきだと進言する。三河は今川に従属しているとは言え、松平頭首竹千代(徳川家康)の所領である。竹千代は今は十二歳になっている。きっとぼくのことを覚えているに違いない。将来今川との全面対決になった時、竹千代との関係は重要である。
義昭は今川の侵攻に会い、居城である西条城を奪われた。
ぼくは二千の兵を率いて三河に出兵した。緒川城主信長の盟主である緒川城主の支城刈谷城に入り、そこで義昭、信元と合流した。ぼくにとって信元は村木砦の戦い以降、最も信頼のできる人物であった。
「信長殿、今川は松井忠次に命じ軍を進めておる」軍議の席で義昭が言った。
「明日にでも、荒川城まで出向いてくるやもしれぬ」
「それに、北から鳴海城が、兵を向けてきています」
信元が付け足した。
ぼくは絵図面の荒川城を指さした。
「守護さまの西条城を奪い返すためには、まず手前の荒川城を落とす必要があります。鳴海城の攻撃に多くの兵を割くわけにはいきませぬ。ここは中入り戦術で行こうと思います」
中入りとは、敵と対峙している隙に別動隊を敵のふところに潜り込ませることである。敵とは鳴海城軍であり、敵のふところというのは荒川城である。
鳴海城からの攻撃の防備に当たるのは義昭、信元連合軍、荒川城攻撃は信長軍とすることに決め、その段取りを整えて軍議を終えた。
ぼくは帰蝶ら五人の仲間を集めた。
「今川との争いは、一日でも早く終わらせたい。皆の意見を聞かせてくれ」
「荒川城を落とすのは、簡単ではありません。長引けば、尾張内部で不穏な動きが起きるやもしれません」
信定(ウシ)が口火を切った。ぼくは頷く。
信長公記には、義昭の今川離反、信長の荒川城攻撃のことは記されていない。ただ翌年の4月、信長と今川義元がそれぞれの守護、斯波義銀、吉良義昭を擁して会見したと記されている。今度の戦いは不発に終わった可能性がある。翌年には義昭は今川傘下に戻っているのだから。
「三河は、今川方で一致しているわけでは、ありませぬ。奥三河に楔を打ち込んでおきましょう」藤吉郎(サル)が笑顔で言う。彼はいつも陽気で楽観的だ。
「菅沼と松平は、われらと呼応するやもしれません」
「凋落できるのか」
「やってみる価値はあります」
「やってみる価値は十分ありますぞ。信長殿」
信元が若き女性と姿を現した。
「この者は、われの妹、於大でござる」
於大の方、竹千代の実母……。ぼくは思わず呟いた。
竹千代三才の時である。信元が織田と同盟を結んだため、今川に守護されている竹千代の父広忠が於大を離縁していたのだ。
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