3 古渡城の父信秀に会いにいく



 政秀に言われるままに、ぼくは敷居際に頭を擦りつけた。

「父上、今朝、吉良大浜より那古野に帰陣いたしました。駿河の陣を焼き払い、戦いましたが、多くの兵を失いました。申し訳ありませぬ」

 政秀に言われた言葉を暗唱して震え声で言う。


 父信秀は何も答えない。

 上目使いに信秀を見上げる。彼は腕を組んで丸い眼を向けている。ぼくは額を敷居に擦りつけた。

「このたびの負け戦、わたしの責任でございます」

 政秀の声がした。

「政秀、おまえは、何も言うな」


「倅よ、いくさというものは、勝つときもあり、負けるときもある。大事なのは、負けたときに、どう考えるかだ」

 ぼくは上目使いに信秀を見上げた。鋭い眼光がぼくの心を射抜く。

「おまえが、見捨ててきた兵たちはどうなったか知っておるか」

「いえ」

「敵将が、我らの兵を清め、埋葬していると聞く。倅よ、兵を捨てて逃げてきた将と、敵兵の亡骸に敬意を示す将とを比べ、兵たちはどちらを信頼すると思うか」

「ははー」

 ぼくは額を敷居に擦りつけた。


 ああ、嫌だ。信長の失敗を、どうしてぼくが尻ぬぐいしなければならないのだ。信秀は鋭い眼光のまま、ぼくを睨みつけているに違いない。今。顔を上げれば、不満げなぼくの表情を見抜かれてしまうに違いない。

「倅よ、敵将に文を書いて、謝意を示すのだ。いいか、二度と敵に借りを作ってはならぬ」

「肝に銘じます」

 ぼくはそう言い放って呻き声を上げた。


 ぼくの言葉は、この時代の言葉に翻訳されている。今まで、肝に銘じるなんて言葉、使ったことがない。


「昨日、雷にうたれたと聞く。体のほうは大丈夫か」

 ぼくは顔を上げた。信秀は穏やかな顔になっている。

「このとおり、元気でございます」

「いいか、倅よ、死んではならぬぞ。おまえは、尾張を平定し、京に上らねばならぬ。それこそ、肝に銘じておけ」

「ははー」

 ぼくは平服した。

 顔を上げて信秀を見た。彼は優しく微笑んでいた。なんか。凄くいい親父だ。だが、父信秀は、五年後の天文十六年に病死してしまうのだ。



 ようやく緊張した時間から解放され、ぼくは上段の間の表廊下を歩いていった。

「信長殿」

 開け放たれた部屋から声がした。

 長袴姿の中年の男が立っている。

「何者だ」

 政秀に小声で訊く。

「大殿の弟君、信光さまです」


「兄者はいかがされておったか、信長殿」

 ぼくは黙っていた。

 信光の後ろに、険し気な表情の女と顔立ちが端正な若者が立っているのが見えたからだ。

「政秀。目がおかしい。よく見えぬ。誰がいるのだ」

 もう一度小声で訊く。

「母君土田御前さまと、弟君の信行さまです」


「何事ですか、叔父上」

「兄者のご機嫌はいかがであったか」

「すこぶる、上機嫌でした」

「そうか。それは、よかった。兄者はそなたの初陣を心配されていましたからな」


 信光との関係は、これからどうなっていくのだろう。思い出せない。

 母は信長を嫌っているのは知っている。弟信行を溺愛しているのだ。そして、信長、すなわちぼくはあの若者の行く末がどうなるか知っているのだ。気持ちが暗くなる。


 ぼくは三人に深く頭を下げると、ゆっくりと廊下を進んだ。

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