2 目覚めたら戦国時代 犬千代登場
天井が高い。目覚めたとき、ぼくは真っ先にそう感じた。そして板敷きの部屋は、おそろしく広い。
光の方角に首を回した。開け放たれた襖障子から、爽やかな風が流れてくる。
自分が幻覚の中にいるのか、現実の中にいるのかわからなかった。ただ、風を感じることができた。長い悪夢を見ていた。その悪夢の前のことまで、心は及ばなかった。
掻巻布団のまま上半身を起こした。
ぼくは裸の体に白絹の着物を着ている。股間に手を伸ばす。パンツを穿いていない。長い布が股間から伸びている。
廊下に輝く朝日を浴びて、幼き少年が片膝で、廊下に控えている。
悪夢の恐怖の中で怯えているぼくには、その少年は天使のように見えた。
「信長さま、お目覚めですか」
ぼくは目を凝らしてその少年を見つめた。
「いかがですか。昨夜はずっとうなされておりました」
「わたしは、どうしたのだ」
「昨日、大浜からの帰陣のおり、雷にうたれたそうです。近習の者がここにお連れしたのでございます」
ぼくは、どうして、こんな格好をしているのだ。ぼくは臥所に大の字になった。
「ここは、どこだ」
「那古野城二の丸の寝所でございます」
「おまえは……」
「前田犬千代でございます。小姓見習いで、信長さまの身のまわりのお世話をしております」
「犬千代?」
「子細は、六天魔王さまからうかがっております。何なりとお申し付けくださりませ」
六天魔王…。あれは悪夢ではなかったのか。
「今は何年だ」
「天文十六年でございます」
ぼくは頭に手をやった。髪の毛が茶筅のように逆立っている。顔を撫でる。長い。これは、ぼくの顔ではない。
ぼくは立ち上がった。
「鏡はあるか」
「鏡とは……」
「顔を写す、こういうものだ」
ぼくは両手で丸をつくった。
「はあ」
犬千代は立ち上がった。
「これは、何だ」
ぼくは股間から垂れ下がっている布を指さした。
「ふんどしでございます」
「パンツはないのか」
「パンツなるものは、ありませぬ」
「イヌよ、わたしはバックを持っていただろう。どうした」
「魔王さまからお預かりしております」
「早くよこせ。確認したいことがあるのだ」
なんか、話し言葉が自分でないみたい。
犬千代がショルダーバックと鏡を持ってきた。
ぼくはひったくるようにして、ショルダーバックを取ると、中から年表を出した。ページを捲る。
天文十六年、西暦1547年。初陣の年ではないか。
「先ほど、大浜と言ったな。それは初陣のことか」
「はい。昨日のことでございます」
「勝利したのであろう」
「惨敗でございます」犬千代は顔色を変えずに、淡々と答える。
「信長さまは、数百人の兵を失い、それらを見捨てて逃げ帰ってきたのでございます」
ウム……。史実とは違うではないか。
「イヌよ、このバックは目立ちすぎる。これを入れるものを持ってまいれ」
「網袋で、よろしいでしょうか」
「何でもいい。すぐ持ってまいれ」
犬千代が立ち去った後、ぼくは金属製の板鏡を覗いた。そこに写っていた顔は、見慣れたぼくの顔ではなかった。馬ずらだった。細面の顔に両眼が吊り上がっている。これが信長の顔。ぼくは頬を力強く捻った。痛い。
仏と六天魔王のことは、ただの悪夢ではなかったのか。
ぼくの魂が戦国の信長の体に送り込まれたのは、現実だったのか。
「信長さま、平手政秀さまがお見えになりました」
政秀なら知っている。信長の後見人、二番家老だ。
犬千代は手にしていた網袋をぼくに手渡した。麻縄で編んだ粗末な入れ物だった。
「これは、何に使うものだ」
「打ち取った首を入れるものでございます。この袋には、二つ入ります」
足音が聞こえてくる。
ぼくはショルダーバックを網袋に入れると、掻巻布団に潜りこんだ。
「若さま、ご無事でなによりでした」
耳元で声がした。
網袋を抱えてぼくは目を開けた。目の前に大きな日焼けした顔があった。
「若さま、初陣は、失ったものも多く、得たものも、多かったですな」
政秀の顔は笑っている。
「巷では、信長は亡くなったと噂がたっております」
「疲れておる。もう少し休むから、一人にしてくれ」
「大殿が、美濃攻めから帰陣し、古渡城に戻られております」
「そうか。分かった」
「今回の大浜攻めの件、ご報告しなければなりません」
ぼくは布団の中で凍り付いた。史実によれば、宿老たちの反対を押し切って、大浜攻めを決行したのは、ぼく、すなわち信長なのだ。
父信秀が黙っているはずがない。
「若さまが行かなければ、大殿が出向いてまいりますぞ」
「ウー、分かった。身支度を整えるゆえ、下がっておれ」
「ははぁ、隣の部屋でお待ちしております」
政秀が立ち去ったのを確認すると、ぼくは立ち上がった。
「イヌよ、参れ」
犬千代が廊下から顔を出した。彼に網袋を手渡す。
「これを、預かっていてくれ。いいか、無くすなよ。命の次に大事なものだ」
「心得ております」
「着替えをするから、準備いたせ」
ぼくの心臓は波打ち、心は混乱したままだ。
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