第七章 闇の案内人(四)
禊を済ませ(といってもただの水浴びとしか思えなかった……)夜になるのを待って、神域とやらに出発した。文献とやらにあるとおり、真っ白い一重の着物を着て、明かりはたった一つの提灯だけで。結局行くとなったのは、弓削と実質神主の榊原仁、それから最後まで行くと言って引かなかった俺だった。ちなみに仁はすっごく迷惑そうな顔をしていた。……なんかよく考えたら坂田にちょっと似てんな。
腿の辺りまで水に浸かりながら、滝の前で稔が準備整えるのを待っていた。水飛沫が全身を濡らす。
「それでは……開きます」
稔はその言葉と同時に、水の中から注連縄を引き上げた。史香さんと二人でそうやって持っていると、まるで鳥居のようだった。
まずは弓削、それから仁、最後に俺がその下を通る。
「……気をつけてくださいね」
「あぁ、行ってきます」
そう、手を振ってから、二人の後に続いて滝の中へ入った。さほど大きな滝ではないものの、上から来る重圧と痛みは生半可なものではなかった。呼吸さえ詰まる中やっとの思いで潜り抜けると、滝の裏側には洞窟が続いている。階段状に登っていく道を、前に行く二人に置いて行かれないようについていく。
この、神域に入るためには守らなければいけない決まりがいくつかある。
一、どんな者でも徒歩であること。もっともこれは弓削によるとそもそも歩き以外で行ける行程ではないらしい。
二、必ず、二人の人間と特別な注連縄で作った鳥居を通らなければならない。しかも、鳥居を支えるうちの一人は相応の霊力をもたなければならない。
三、必ず、滝の真下を通らなければならない。これは禊の効果もあるらしいが……俺が風邪ひいたら十中八九これのせいだな。
四、滝を通った後は決して声を出してはならない。ただし神から話しかけられた場合はこの限りではない。
以上四つ。だがこれだけ七面倒くさい決まりを守ったとしても、本当に神と邂逅できることは滅多にないそうで。弓削もかなり低い可能性にかけている。
洞窟を抜けて地上に出た先は鬱蒼とした森の中で、遥か下のほうに神社の明かりが見える。葉をほとんど落とした木々の寒々とした枝の隙間から、細い細い月が見えた。女の人の細い爪の先の白い部分や、細く整えた眉に少し似ている気がする。弓削に言ったらじじくさいと言われそうだが、あれを眉月と名付ける日本人の感性は、実はかなり好きだ。
そんなか細い月明かりでは足元は照らされないので、頼るのは手に持った小さな提灯だけだ。足を運ぶたびに揺れ動く小さな光が酷く心もとない。何の気なしに提灯を動かした先にあった木のうろが、人の顔のように見えて声を上げそうになった。
こういう時に思い知るのだ。例えあらゆることが科学で証明されるように言われる今でも、
そうして改めて前を歩く弓削を見る。そんな闇を見通し、闇の中で立ち尽くすしかない俺を、人々を何度も救ってきた彼を見る。本人は陰陽師なんてもう撤廃されたものだというけれども、それでも彼は他の人には見通すことのできない闇の案内人なのだ。
時折、地面から張り出した大きな木の根に躓きながら、森の深くまで入っていく。歩いているうちに、だんだん体温が上がってきて、単衣という十二月とは思えない格好が気にならなくなってくる。こんな場所で言葉も交わさずに歩いているためか不思議なものでだんだん、現実感と時間の感覚がなくなってきた。どこか現実感のない現状に夢かと疑い、そのたびに木の根に躓いて痛い思いをして現実を確認する。
すでに何分歩いたのか、何時間歩いたのか分からなくなってきた頃、唐突に視界を遮っていた木がなくなった。湖に出たのだ。風がないので一切波立たない水面は、眉月をくっきりと映している。そこが神域であるという証拠に、湖の中央にはどうやって立てたのか、石の大きな鳥居が立っていた。その向こうに、水面から突き出した、大きな岩がある。
三人そろって、水際まで行って立ち止まる。ここまででいいのだろうか? それともあの鳥居のところまで行かなければならないのだろうか?
そういう疑問を持って弓削の方を見ると、弓削は迷うことなく、水面に一歩踏み出した。また、水の中に入らなきゃいけないのかと思ってげんなりしたが、弓削が二歩目を踏み出すのを見て、目を見開いた。二歩目を出す時に、一歩目が全く水中に沈んでいなかったのだ。叫びたいものの声を出すわけにはいかず、空気の足りない金魚のように口をパクパクしていたら、弓削はすたすたといった調子で、水面にゆったりとした波紋を描きながら歩いていってしまう。
横で仁も俺と同じように驚いていた。……いや、多分俺のほうが間抜けな顔してたと思うけどさ。
不意に弓削が振り返ってきた。そして俺達が立ち止まっているのを見て声を出さずに笑い、見ろというように自分が歩いていった水面を指差した。すぐ水際まで行って、しゃがみこんで見るとなんと道があった。水面からほんの一寸ほど沈んだところに地面がある。しかしそれはまるで橋のように、いやそれ以上に細く、人が一人やっと通れるほどの幅しかない。
俺より先に気付いた仁はさっさと歩いていって、弓削のすぐ後ろまで追いついた。俺もそれに続く。水面を歩くような不思議な感覚はちょっと病みつきになりそうだった。
鳥居のすぐ前まで行って立ち止まる。その部分は少し幅が広く、弓削と仁が並んで立っていた。鳥居を振り仰ぐが、首が痛くなるほど上を見ないと全体は見えないほど大きかった。ほとんど人が来ないのを証明するように、鳥居にかけられた注連縄は、朽ちて今にも切れそうだった。
神はまだ、現れない。
仁は焦っているように、落ち着かない。一方、弓削はというと少し首を傾げてから、いきなり暴挙に出た。
唐突にきちっと折り目正しく礼を二回し、柏手をそれも二回も打ったのだ。声を出してはいけないという空間で。いや、確かに音を出してはいけないという決まりはなかったけどさ、それってどうなの? 弓削の隣に立つ仁は、はたから見てれば滑稽なほどうろたえている。
礼が二回の後に柏手が二回。つまり神社の参拝をする時のお約束の行動を取ったのだ。
ドキドキしながら何が起こるかと見守る。それは仁も、行動を取った弓削でさえ同じらしく、じっと鳥居の向こう側を見つめている。
視界がふっとぼやけ、疲労で重くなっている身体にふわりと奇妙な浮遊感を感じた。
最初に現れたのは「声」だった。
「遅かったな」
そう響くのは、年を経たように酷くしわがれた声。弓削と仁が勢いよく振り返り、驚いたように俺を見る。な、何?
「神隠しがはじまってから、二ヶ月か。思ったより時間がかかった」
また同じ言葉を何の感慨もなさそうに抑揚なく繰り返す声が、どうやら俺の口から出ているらしいのに気付いた。
「……ふざけるな」
仁が憎しみだけで人が殺せそうな顔で睨んでくる。ふざけてない、ふざけてない。怒る仁に弁解したいのは山々なのだが、声は出なくて。
「待て、本物だよ」
「まさか……」
仁を止めた弓削がじっとこちらを見つめ、静かに口を開いた。
「どういう、意味ですか?」
「そのままの意味だ。吾は、もう少し早くそなた等が来ると思っていた」
仁の声は緊張のためか畏怖のためか、はたまたできれば口にしたくなかった質問をするためか微かに震えていた。
「…………ここ最近続いていた神隠しは、竜神様が関わっておいでなのですか?」
「左様。関わりも何も、吾が全てやったことだ」
「何故、そんなことを……?」
「質問ばかりしていないで、自分で考えればよかろう」
素っ気無く返されて、仁は唇を噛んだ。それが分からないから聞きに来たというのに。
神様はこちらに何かを考えさせようとしているらしく、仁が何か言うのを待っている。俺は状況についていけないため、傍観者の気分でそれを見ていた。
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