第七章 闇の案内人(二)

 弓削は印を結び真言を唱えるために口を開こうとした。


 しかし、結局その口からは何もは唱えられなかった。澄んだ鈴の音は何重にも重なり合うようにいっそ煩いぐらい響き渡り、水面の波は既に気のせいでは済まされないほどの高さになっている。そして、滝壺から大きな泡が立ち始めた。ただでさえ上から落ちて来る水のため、細かい泡で白く濁った水面に大きな水泡がゴボリ、ゴボリと浮かんでくる。まるで、なにかが水面下に潜んでいるように。


 滝壺の部分の水面が盛り上がった。水を押し上げて何かが、出てくる。思わず、最後の一枚をはがす手を止めて、それを見つめてしまった。ザバッと大きな音と共に姿を現したのは……異形のものだった。


 巨大な双頭の龍。龍は龍でもここの祭神は白銀の美しい龍だと聞く。しかしその姿は落ち着きがなく、口を開いたときに見える鮮やかな赤い口内が獰猛な印象を与えた。……どちらかというと神々しいというよりは禍々しい感じがする。


「何を……何を呼び出したんだ?」


 弓削が、厳しい表情で呻くように呟いた。が、しかし、向こう側でもこのことは予想外だったらしく、答えられずにいる。


「これは………神じゃなくて妖怪だろ。どうしてくれるんだよ。人質救出のほかに妖怪退治まで含まれたら流石に割に合わないとか以前に、手に負えないよ」


「えっと……ごめんな、何か大変なことに巻き込んじまったみたいで」


「状況理解してくれたなら、引く?」


 思わず口ごもる。うー……そりゃ、弓削ならそういうのは分かってたけどね。もともとこいつも京都には来たくなかったわけだしね。でも……。


「神崎って諦め悪いんだから……。大事な大事な史香さんのためにね。まったく」


 弓削は救いようがない、笑うしかない、というようにやれやれと苦笑した。


「牛鍋一回食い放題で手を打とう」


「いくらでも食え」


 はぁ、と深く溜息をついてマントの中に手を入れてなにやらごそごそと漁っている。


「神崎、見ようによったら、いい機会だ。龍に意識がいってる間に、史香さん助けてきな。それで………本殿から人を呼んできたほうがいいかもしれない」


「分かった」


 最後の一枚の札を引き剥がして立ち上がった。


 弓削が術を紡ぎ始め、全員の注意がそっちにいくと同時に俺は祭壇の上を走り出した。とりあえず、状況は全っ然掴めてないけど、当初の目的どおり今のうちに史香さんを返してもらうこととする。が、


「えっ」


 後数歩というところでいきなり、祭壇が揺れ、同時に傾きだした。足が床を捉えそこない、顔からこけそうになり慌てて手をついた。傾くだけじゃ飽き足らず、崩れようとしだす。弓削の術が間に合わず、龍の尾が祭壇を襲ったらしい。


 揺れる祭壇の上に無理矢理立ち上がる。仁と稔も既に床に這い蹲っており、俺には全然注意を払っていなかったので、これ幸いに手を伸ばす。激しい揺れに妨げられながら伸ばした手が、史香さんに触れた。


 もう一度、床から衝撃が伝わり、身体が宙へと投げ出される。咄嗟に触れていた肩を引き寄せ、ぎゅっと強く抱きしめる。


 水面に叩きつけられ、冷たい水の中に沈む。一瞬平衡が分からなくなったものの、必死で顔を水の外に出した。先程は憎かった池の深さが幸いになり、肩を強く打つだけですんだ。


 腕の中で史香さんが背中を丸めてけほけほと咳き込んでいた。意識は取り戻したらしい。苦しそうに肩を上下させてむせている。黒い長い髪が、濡れてうなじに張り付いていた。


「大丈夫ですか?」


 水が気管に入ったらしい。背中をさすっていると、ようやく咳が収まった。


「え? 神崎さん?」


 咳のしすぎで上気した顔でこちらを見上げてくる。


「どうも、お久しぶりです」


 ……いや、違うだろ、俺。


「とりあえず、あっちから離れましょう。立てます?」


「……はい」


 あっち、つまり崩れた祭壇と龍を見て一瞬固まっていた。きっと心中かなり混乱しているだろう。俺だって、史香さんいなかったら、この状況に何か一言叫んでいただろう。


 足元の怪しい史香さんを支えて、岸に向かう。その途中一度、弓削は無事かと振り返った。そしたらちょうど弓削が崩れた祭壇の跡から這い出してきているところだった。他にも二人分人影が見えるってことは全員無事か。………あんな派手な崩壊に巻き込まれて全員無事とは……何て悪運の強い奴らだ、と思いながらほっと息をつく。


「し……死ぬかと思った」


 やっとの思いで出てきた弓削は肩で息をしながらそう呟いた。


「おい、これ、どうするつもりなんだ?」


 弓削が榊原兄弟に向かって怒鳴っている。


「呼び出しておいて責任を持てないものを呼び出すなよ」


 それは既に怒鳴り声というよりはぼやきに近い。


「封印……するしかないか」


「だろうね。ま、僕には関係ないから帰らせてもらうけどね」


「それで済むと思っているのか」


「だって僕はちゃんと止めたじゃん。きかなかった君らが悪いんだよ」


「…………一時休戦してやる」


 仁は苦虫を噛み潰したような不機嫌な表情でそう持ちかけ、無言で頷く弓削もこの上なく不機嫌をあらわにしている。……こんな殺気立った休戦協定なんてあるもんか。


「稔、宝物殿から封印具取って来い」


「はい」


 稔が走り去るのを見届けて、弓削が仁に目は合わせないまま問いかける。


「本殿のほうに知らせに行くって言ったら……止めるかな?」


 その問いに、仁は逆に質問で返した。こんなところだけ弓削とよく似た人の悪い笑みと共に。


「自信がないって?」


 それに弓削はあからさまにムッとした様子で、


「今回だけはわがままに付き合ってあげるよ」


 と、返していた。


「その封印具とやらがあれば、簡単に封印できるんだろうね?」


「十中八九な。少なくとも文献上は全て成功していたはずだ」


「どこまであてになるのやら」


「信じるしかなかろう。だから、やるべきは足止めだけだ。ここだけで止めて見せろ」


「元を辿ればそっちのせいなんだから、僕は手伝いしかしないよ」


 弓削はそう言いながらじゃらりと音を立てて長い数珠を取り出した。三重に手に巻きつけてその手で印を結ぶ。数個複雑な印を結んでから、口を開いた。双頭の龍の片方の頭が弓削に迫る。


「オン・ノウマクサマンダ・バザラダンカン」


 朗々と真言が響き渡り、弓削に周囲に火の粉が散った。すっとのびた手が迫り来る龍を指差す。龍の目の前で炎が起こった。龍は唸り声を上げて、後方へ首を引き、それを弓削の方へと振り下ろす。弓削は間一髪でそれを避け、そのまま狙いをつけられないように水を蹴って走る。


「いきなり不動明王か」


「この龍、ちょっとやそっとじゃ止められないよ」


 それに仁は頷き、その場にかがんで水中から何かを拾った。


「高天原にかみづます 皇親神漏岐すめらがむつかむろぎ 神漏美かむろみみこと以ちて、八百万神等を神集へに集へ賜ひ」


 大祓の詞を唱える仁の声はほんの少し弓削のそれに似ていた。


 仁は唱えながら水中から拾った榊の葉を龍に向かって振り切る。榊の葉についた雫が龍にかかり、悲鳴が上がった。聖水のような効果ができているらしい。


 なかなか忙しい攻防を横目に見ながら、俺はようやく水からあがることができた。


「どこか痛いとことかありませんか?」


 岸にたどり着くのに思いの他時間がかかってしまった。史香さん思ったより早く歩けなかったのだ。やはり丸一日眠らされていただけでも、人間の身体というものは上手く機能しなくなるらしい。


「いえ、大丈夫です。それより………ここってどこなんですか?」


「えーっと……京都の榊之原神社ってところです。聞いたこと……ありませんよね。説明は後でいいですか? ここも危なそうだから本殿のほうまで逃げたほうがよさそうだ」


 何せ池の中で戦いは激化の一途を辿っている。既に俺の手の出せる範囲外だ。


「いいんですか? 置いていっても」


「いいんです。弓削に任せとけば大丈夫。俺達はむしろいるだけ足手まとい」


 史香さんの疑問に俺はきっぱりと答えた。微かにほっとしたような表情を浮かべる。怖いから手を出したくはないけれど、放っていくのも罪悪感がある。そんな気持ちでいたのだろう。足手まといだと言われれば、逃げてもいいような気がしてくる。ある意味誤魔化しでしかないけれど、この場合はしかたがない。そしてきっぱりと言い切るのは自分に言い聞かすためでもあった。史香さんがいなかったら、放っておかなかった。だって、嫌がる弓削を無理矢理引っ張り込んだのは俺なんだし。


 そんなことを考えながら池に視線を移す。敵は頭が二つある龍なので二対二と言えば聞こえがいいが、実際は一つ一つの攻撃の威力の差がありすぎる。どこまでもつか……。


 眉間に皺を寄せてその様子を見ていると、横で小さなくしゃみの音が聞こえた。そうだった、とりあえず俺にできることをしないとな。


「それじゃ行きましょう。ちょっと距離があるけど、本当に大丈夫ですか?」


「大丈夫です」


 そう言い切ってから、またもくしゃみをしていた。これは早く暖まらないと風邪ひくな。着物を貸してあげたいのは山々なのだが、俺の着ているものも軒並み濡れているので、もう火に当たって身体ごと乾かすしかない。


「あっちです」


 とりあえず史香さんだけでも安全なとこに連れて行かないと。池に背を向けたその時、


「神崎!」


 弓削の叫び声が聞こえた。咄嗟に振り返れば、目前にはさっきまで弓削と仁が相手にしていたはずの龍がいて。でも、待てよ。池の中にも龍の頭は二つあって………。


 状況を理解する前に、身体は勝手に動いて史香さんを突き飛ばし、そのまま地面に伏せていた。それで、第一撃目は避けきった。


 双頭――頭は二つじゃなくて、三つだったのだ。


 隠れていた三つ目の頭に誰も気がつけなかった。


「くそー、反則だろこりゃ」


 龍は一撃目が外れたことにより、一瞬勢いに流されていたが、すぐに体勢を立て直す。醜い口を大きく開けて、再び襲い掛かってきた。そばに倒れている史香さんを見て取り、避けきれないと悟って、腰に袋ごと差していた刀を抜く。御神刀のほうだ。自分の前にその刀を縦に差し出し、わざと龍に噛ませた。つっかえ棒にするつもりだ。しかし、龍の力は思ったよりも強く、刀を支えきれなくなる。手を離しても刀がつっかえ棒になってはくれるが、そうしたら首ごと振って攻撃してくるのは間違いないだろう。


「史香さん、逃げろ!」


 彼女が逃げてくれればあるいは……という希望もあったが、恐怖で竦んでいる彼女にそれを求めるのも酷な話で。


「神崎、手ぇ離せっ」


 池の方から、弓削の声と札が飛んでくるのが見えた。それに龍が一瞬意識を奪われる。その間に刀を無理矢理取り戻し、袋から出して、抜く。抜刀の勢いを借りて、龍に斬りかかる。しかし、その刃は硬質な音と共に龍の鱗に止められた。


「馬鹿、龍に刀が効くわけないだろ。素直に手を離せばよかったのに」


 驚いていたら挙句の果て罵倒された。「うるせぇ、知るわけねぇだろ」とでも言い返したかったのだが、こちらもそんな余裕はない。俺には霊感なんてものはないのに、龍と差しで戦わなくてはならなくなった。こんなときに限って、御神刀は例の力を発揮してはくれない。刀を正眼に構え、近づかないように威嚇する。何か、打開策はないか?


 視界の端にこっちにまた札を投げようとした弓削が、自分の周囲への注意をおろそかにしたせいで、水中から伸びてきた尾に、水面に叩きつけられるのが見えた。


「弓削!」


 思わず、構えを崩して声を上げてしまう。その隙を龍が見逃すはずもなかった。勢いづいて迫り来る龍に向かって、崩れた体勢のまま刀を突き出した。その刀が微かに口角を抉り、血が地面に落ちた。


 ああ、そうじゃん。鱗がないところ狙えばいいんじゃん。焦っていたがためになかなか気付かなかった、単純な答えに俺は内心苦笑した。学校で体育だけは得意だった身を、舐めないでもらいたい。


 四度目の攻撃に、ようやく早さに慣れはじめた目は、龍の攻撃の軌道を正確に読み取る。狙いは大きく開いた、口。下顎に力の限り、体重を乗せた刀を刺し込む。


 龍はうめき声上げて、まるでそうすれば刀が抜けるといわんばかりに首を激しく振る。それに引っ張られそうになって、刀を手放した。


「兄さん!」


 後ろから宝物殿に何かを取りに行っていた稔が駆け込んできた。手には一定間隔にやたらと難しい漢字が書いてある板のついた、長く白い紐だった。


「持ち佐須良さすらひ失いてむ此《か)く佐須良ひ失ひてば 罪と云ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ神 国つ神 八百万神等共に 聞こし食(め)せと申す」


 仁が朗々と祝詞を唱え、最後の言葉と同時に稔が空高く紐を放り投げる。紐は空中で丸く繋がり、龍の三つの頭をまとめて縛り上げてしまう。こうして悪霊や妖怪を鎮めてしまうのを封印というらしい。が、紐が小さくすぼまり完全に括ってしまっても、一向に龍の動きは鎮まらない。


「………失敗したことはないんじゃなかったっけ?」


 弓削がじとっと湿った声で仁に尋ねる。


「文献上はといったはずだ」


「この詭弁家め。けど、ここまで弱ればなんとかいけるか……祓うよ」


「……頼んだ」


 弓削は目を細め、すっと上で一纏めにされた龍の頭を睨み、右手を上げた。


「臨」


 剣印を結び、鋭く横に凪ぐ。


「兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」


 全部で縦に四線、横に五線を宙に描き、九字を切った。


 龍の動きが完全に止まり、紐の締め付けがきつくなる。龍の原色に近かった色が褪せ、砂のように形が崩れだした。龍の原型がなくなり、封印具が水中に沈んでようやく全員が肩の力を抜くことができた。



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