第六章 車窓に流れる細雪(四)

「余所者が、いきなり自分の家にやってきて空気を悪くし、何故だか自分と同じように扱われている。不愉快でないはずがない。しかも僕には霊感があった。それがこの場合は凄く災いしたんだ」


 そう言われて初めて、弓削が霊感があることを思い出した。今まで全くそのことに触れてなかったということは、隠してきていたのだろうか。


「やっぱり神社の神主を継ぐわけだから、霊感はないといけない。その点、榊原仁は秀才だった。僕があった時には色んなものが見えてるみたいだったし、小さい頃からかなり努力してたみたい。だけど………生まれつき見えていたわけではなくて、鍛錬の結果見えるようになったらしい。僕は………どういうわけか、物心つくころからずっと見えてる。おかしいよね。血は向こうのほうが濃いはずなのに」


 だから……恐らく榊原仁は、弓削のことが憎くて、憎くて、憎くて、憎くて…………怖かったろう。もしかしたら、自分と弓削を同等に扱おうとしている母は、弓削を跡継ぎにするかもしれない。はたから見れば滑稽なほどの勘違いでしかないその思いは、本人に取ったらこの上なく切実だっただろう。


「また榊原仁の弟、榊原稔みのるがぼんやりしてて兄貴にやたらなついてるくせに天才肌でね。とは言っても、見えるというよりは依り代としてかな。神楽が、恐ろしく上手いんだ。百年来の名手とか称えられていた。でも本人は舞っている時の事は覚えてない。一種の幻覚状態に陥るのかな。だから辛く当たろうにも当たれないからそれも鬱憤が溜まってたのかもしれない」


 すぐ下の弟は天才肌の神楽の舞い手で、家に入ってきた余所者は自分より霊感が強い。そうした中で、跡継ぎとしてどれだけ重圧にさらされてきたかは想像しきれない。


「家にいたら仁から物理的にも霊的にも攻撃を受ける有様だったから…………だからこそ今祓い屋やってられるんだと思うんだけど、家にはできる限り遅く帰るようにしてた。あっちこっち寄り道して。その頃だったな。絵を描きたいって思ったのは」


 さっきほどではないものの、心持ち表情が緩んで口調が活気付いた。やっぱり好きなことを話す時は楽しそうだ。


「近所の寺の奥に、一軒の廃屋があったんだ。本当は廃屋じゃなかったんだけど、そうとしか見えないからね。中には寺の境内だからか、仏壇って言うか……えーっと何ていうんだっけ? 仏像が置いてあるとこ。それがあってね。そこで、絵を描いている人がいた。若い女の人でそこに行けばいつでも絵を描いていた。それで生計を立てていたのか、そうでないのか、今でもそれは分からないけど。僕が行っても、歓迎するでも追い返すでもなくただ絵を描き続けていた。口数の少ない人で、話しかけても答えるときと答えない時があったけど、僕がそこに行けば「いらっしゃい」と、帰るときは「さよなら」とだけは言う人だった。全くもって変わった人だけど、その二言だけが僕がそこに言ってもいい理由になった。そのうち……見よう見まねで学校で使った藁半紙の裏に絵を描いたことがあって……それから彼女の気が向いたときにだけ、教えてもらえるようになった。絵を描いてる時には、家のごたごただとか、仁の嫌がらせだとかのことは忘れて没頭できるから、そこに行くのが日課になった」


 汽車が速度を落とし、ゆっくりと駅に滑り込む。ガタンと微かな揺れがあって停車し、扉が開く。数人が下車し、それより多い人数が、外の冷たい空気と共に乗り込んで来た。乗り込んだ人の外套の肩には薄っすらと雪が積もっていた。


「それが尋常小学校を卒業するときの冬ふっといなくなった。どこかに越していったのかもしれない。流行病で亡くなったのかもしれない。けれど、また大切な『場所』がなくなってしまったことだけは確かだった。今思えば意外だけど、かなり落ち込んで、やけくそになってた時期がある。その時期に事件が起きた。………僕が、仁に殺されかかった」


 その言葉にぎょっとして思わず


「大丈夫だったのか?!」


 と、間抜けなことを尋ねてしまった。


「大丈夫だったから今こうして生きてるんだよ。……珍しく、話をしてたんだ。二月にある旧正月の祭りの準備を二人でしてるときだった。二人っきりでね。『神を見たことがあるか』って話だった。まぁ神様にも色々いるからね。片手で足りるほどだけど、本当に珍しく話が弾んだ。お盆の時期に家をこっそり訪ねる祖霊や、春を運び空を駆ける神、収穫に時期に田を見に来る山の神………………。僕が見た神には、榊之原神社の祭神である龍神もいた。昔、僕が榊之原神社に引き取られてから一度あった日照りの年、稔が雨乞いの神楽を舞ったために、山の合間から龍神が空に上り、雲をかき集めて雨を降らす様を見た。僕が見たどんな神よりも神々しく、壮大で美しかった」


 その時のことを思い出すように汽車の天井を見上げた。俺もそれにつられて何も見えないに決まっているのに天井を見る。洋灯ランプが汽車の揺れに合わせて、緩慢に揺れていた。


「知らなかったんだ。榊之原神社の龍神が、神社の神主とその後を継ぐものの前にしか姿を見せないってことを」


「それって……」


 あんまりにも都合が悪い。


「かっとなった仁に突き落とされて、打ち所が悪くて一週間ほど生死の間をさまよったらしい。その間に弓削の家にも僕のことが知らされた。本当だったら息子の不祥事が事の始まりだから強く言えないけど、僕が殺されかけたってんなら話が別だ。って、祖父が怒鳴り込みに来たらしい。それで話し合った結果、僕はとりあえず三年間東京の弓削の家で過ごすことになった。それが中学校に通った三年間。その時だね、戸籍が移動したのは。やっぱり祖父が榊原の戸籍に入れてもらってないのに腹を立てて勝手に弓削の戸籍に入れられた。僕は母の姓でよかったんだけどね。祖父がそれで気がすむならまぁいっかなって」


 それっきり、弓削は目線を下に落としたまま沈黙した。話は終わりということらしい。脳が飽和状態で何て言っていいかわからない。そんな中で言葉になったのはかなり本筋から逸れたことだった。


「何ていうか、お前自分のことなのによくそんな冷静に見られるな」


 俺の声に弓削はふっと顔を上げて、話し始めてから初めて俺と視線を合わせた。やたら心もとなそうな顔をしていたので失敗だったかと、焦った。


「昔からそうなんだ。母が死んだのは悲しいし、父や仁のことは恨んでるし、祖父や祖母には感謝してる。でもその一方で冷静に状況を見ている自分が他にいる。感情的になる自分の他に冷めて斜に構えた自分がいる。ずっとおかしな状況下で育ってきたから、精神的に変になってるのかな? だから絵が描けないのかな?」


 諦めと焦燥感とをないまぜにしたような奇妙に情けない表情をしている。


「絵、描けないのか?」


 そんな事は初めて聞いたので、驚いて今聞いたことをそのまま口走ってしまった。だってだって、さっきだって筆乾してたのしまってたじゃんか。でも、そう言われてみれば、春から夏にかけての頃より今のほうが用もないのに店に邪魔をしに来ていた気がする。


「……………最近、絵が描けないんだ。ずっと仁に見つからないようにって気を張ってたからかもしれないけど、昔のこと思い出す。描いても描いても苦しくって。描こうとしても上手くいかなくって……融資してくれるとまで言った、神崎には悪いけど……」


「ちょっと待て」


 珍しく、というより初めて、弓削が弱音を俺の前で吐いてきたので、驚いて声が上ずってしまった。それでも弓削の泣き言なんてこれ以上聞きたくないので口を挟むことにした。


「簡単に諦めてんな。大体、絵は逃避して描くもんじゃねぇんだよ。絵でも音楽でも芸術なら特にそうだ。この際だからちゃんと覚えとけ。絵で本当に大成しようと思ったら、きっと血を吐くはめになるほど苦しいぞ。その世界で大成できるのは逃げも隠れもせず絵を想い、絵のことだけ考え、絵に打ち込み、思いの丈を絵にぶつけられる人間だけだ。それがどんなに苦しい道でも、絵を描くのが好きだと思える人間だけだ」


 うわー、俺、偉そうなこと言っているよ……。でも、一度喋りだしたら後戻りもできないわけで。


「お前、好きなんだろ? 絵を好きなだけ描ける場所を与える代わりに、大嫌いな榊原のところに行けって言われたら、悪態をつきながらも行くほど好きなんだろ?」


 俺が勢い込んで言うもんだから、弓削も戸惑っていたが、それでもはっきりと頷いた。絵が、絵を描くのが好きだと。不当な非難にさらされ続けた日々の中で、弓削を支えたのは絵と、絵に打ち込む直視できないほど眩しい情熱だったはずだ。それを嫌いになれようはずもない。


「だったら、諦めんな。描くのに邪魔になるならどければいい。お前は自分がついてなかったのは時代の流れのせいだって諦めてる節があるけど、そんなこともないってことも気がついてんだろ?」


 これは、人の心の弱さが作り出した歪みだ。


 親の決めた婚約をついに受け入れることができず、凝り固まった自尊心のために身動きが取れなくなった義母。


 自分の居場所を作れず、外にそれを求めた父。


 立場が揺らぐ恐怖が故に邪魔者を排斥しようとした榊原仁。


 自分自身の考えを持てず、兄に追従するしかない榊原稔。


 そして、その場所を逃げ出してきた弓削。


 酷いことを言ってるという自覚はある。だけどこいつだって気付いているのだから、ただ認めたくないだけなのだから、背中を押してやる役がいる。なんだか俺じゃあ力不足の観が否めないが、ここには俺しかいないんだから仕方がない。


「ここで逃げたら、一生逃げ続けることになる。絵を描けないでいることになる」


 俺の言葉の途中から俯いていた弓削の肩が、微かに揺れ始めた。ありゃ? と思いながら注視すると、手を顔に当ててますます揺れが酷くなっている。


「………………大丈夫か?」


 言い過ぎたか? と思い、尋ねると


「あー、まさか神崎に諭される日が来るとは思わなかった。おかしすぎて、涙出てきたじゃん。どうしてくれるんだよ」


 という言葉が返ってくる。袖でごしごして目元を擦るが、とても笑いすぎて涙が……という状況とは見えない量の水滴が顔についていた。


「お前ねぇ、人が真剣に言ってんのに失礼だぞ」


「ねぇ、僕が始めて神崎と話した時『憑いてる』って言ったの覚えてる?」


「ん? あぁ、あれね」


 転校してきた初日、こいつは俺にいきなり『いっぱい憑いてるねぇ』とかぬかしてきたのだ。……正直当時はかなり怖かった。


「あれ、試してみたかったからなんだ。今まで見た中で一番馬鹿正直そうで、一番人の良さそうな神崎だったらどうするかなって。悪くて言いふらす、良くて二度とかかわりを持たないように避けるって踏んでたのに、結局今でもつきあいがある」


 そう言って小さく微笑み、窓の外を見た。景色が後方へと流れ去り、刻々と弓削の故郷へ向かいつつある。


「忠告、ありがとう。仕方ないから、ケリをつけにいくよ。今後も追い回されちゃたまんないからね」


 ようやく本調子を取り戻した弓削はそう言った。


 ずっと続いているカタンカタンという音が、最初よりはほんの少し軽く聞こえるような気がした。





      「第六章 車窓に流れる細雪」了

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