第四章 彼岸花の海で(二)
「やはりこんなものは見たことがないなぁ」
家に帰ってから、特に夕飯を終えてからはずっと、その小物入れにじいさんと二人そろってかかりきりだった。
思った通り蓋は掛け金と蝶番の単純なもの。少なくとも掛け金は壊れていない。あっさりと外れたのだ。しかしそこからが全く開かないのだ。まるで本体と蓋がくっつけられているように、ミシリともいわないので蝶番の故障とも思えない。史香さんのばあさんの時代は開いていたわけだから、元々溶接されているわけではない。可能性として考えられるのは、素人が後になって糊でくっつけたという線だが、はみ出したあとがないのでそれも違う。
じいさんと二人がかりで古今東西の資料を漁っても、与吉に電話してもそんな例はないらしい。
俺もじいさんも同じくらい負けず嫌いなのだが、先に音を上げたのはじいさんだった。眼鏡を外し、疲れた目を擦りながら時計を見上げた。
「もう二時回ってるじゃないか。儂は先に寝させてもらう。お前も明日も普通に店があるんだからほどほどにな」
そう言い残して、自室へと帰っていった。熱中していたとはいえこんなにつき合わせたのは悪かったな……と半分寝ている頭で反省する。
しかし……ここまで調べても何も分からないというのは少々おかしい。俺はともかくじいさんは既にこの道ウン十年の専門家で、原因不明の故障の修理という場面にも何回か立ち会っていると聞いている。そのじいさんですら何も分からない。もしかしたら物理的な要因ではなく、むしろ……………弓削の専門の方なのでは……?
「眠い…………」
流石にかなり眠くなってきた。そのせいで気弱な方に思考が進んでしまったのだろう。いかん、いかん。眠気覚ましのためパンッと頬を張る。
それでもしばしばする目を擦ったとたん、風もないのに照明が消えた。いきなり真っ暗になったため目が慣れず、全く見えない。
「何でいきなり消えんだよ」
手探りで行燈の位置を確かめ、マッチを探す。ようやく袋から火打石を出したとたん、今度は信じられないような明るさが目の前に現れた。痛みすら感じる光に思わず目を閉じ、手で瞼の上から目を押さえる。とてもじゃないけど夜とは思えない、むしろ夏の真昼の太陽を思わせる光。
「何なんだよ……」
目を押さえたままそう呻くしかない。
ようやく目の痛みが治まり、光に慣れてきたので目を開く。
最初に目に飛び込んできたのは真紅の彼岸花だった。
周囲に壁も障子もない。地面は畳でなく土で、上はうろこ雲の浮いた空だ。その状況に呆気にとらわれつつ立ち上がる。
俺は……見渡す限り一面の、彼岸花の花畑にいた。
ここまでくると。もう絶句するしかない。
本当に彼岸花が咲き乱れる以外何もないのだ。地平線までの花畑。一種異様な気配を漂わす、
その彼岸花以外何もない空間かと思われたが、視界の端に何かを見つけた。かなり離れたところを、大勢の人が列を成して歩いている。顔までは見えない。ただ重々しい雰囲気で。誰もが黒い着物を着て歩いているのが見て取れた。先頭は、大きな黒い箱を担いでいる。
あれは恐らく……。
棺。
葬列。
彼岸花を掻き分けて進む、葬列。
そのどこか無機的で、生気を感じさせない雰囲気に圧されて、知らず知らずのうちに一歩下がる。何かが足に当たった。
「やべ」
それは例の小物入れだった。慌てて拾い上げ、傷がついてないか確かめようとしたら、何の妨げもなく蓋が開いた。中は彼岸花を思わせるような真紅の絹張りで、蓋の裏側には鏡が付いている。
「もし……」
今まで誰もいなかったはずの後ろから呼びかける声がした。
「はい?」
あの葬列の人間と同じように黒い喪服を着た女の人。血を思わせるように真っ赤な唇と、下品にならないぎりぎりの線まで抜かれた襟から覗く白い
きわめて純粋かつ呑気に『美人だなぁ』という感想と共に、観察を続ける。結い上げられた髪から解け落ちた後れ毛や、黒い喪服と対照的な白く細い指先など、ツボを心得ているかのような艶かしさがあった。
散々観察した末、結論を出す。『すっげー美人だけど、史香さんの方が好み』
「なんでしょうか?」
「お願い、来て」
声は意外と幼かった。彼女は唇の端を持ち上げて微笑みの形を作り、子供のような無邪気さで俺の手を引いた。存外その力は強く、ぐいぐいと引っ張られる。
やがて、振り向いても葬列が見えなくなった辺りで、ようやく彼女は手を離した。俺から少し離れたところで向かい合う。
「ねぇ、お願いがあるの」
口元は飽くまでも微笑みの形を保ち、しかしそれは決して笑みではありえない。目が、ぎらぎらと不穏に輝いているから。
「だから、何なんだよ?」
気味が悪くなってきて、つい乱暴な口調になる。
「それを、頂戴?」
それ、と指差したのは史香さんの小物入れだった。
どこか舌足らずな喋り方と姿よりは幼い声を聞くと、頭の芯のほうがじんと淡く痺れる感じがした。
「駄目」
即答する。史香さんのだ。譲れるわけがない。
彼女は言い切った俺の様子に、不審げに眉を顰める。しかしすぐに気を取り直したように微笑みの残骸を顔に貼り付けた。
「飴、あげる」
手首に下げていた巾着袋から一粒の飴玉と思しき透明な粒を摘み上げた。その粒を手に、彼女は俺に近づく。また頭の芯が淡く痺れたような感じがする。まるで熱に浮かされているような覚束なさ。それでいてふわりとする心地よさ。そんなものが入り混じり、何故か身体が動かなくなる。本能が逃げなくてはと警鐘を鳴らしているのに、身体は一向にいうことを聞かない。
彼女の手が頬に触れる。変に冷たい感触に身震いするが、何故か振りほどけずにされるがままになる。細い指が、驚きのため半開きになった俺の口に飴玉を放り込もうとし……。
「この馬鹿」
俺はその言葉が聞こえると同時に横から蹴り飛ばされ、周囲に咲く彼岸花を折って地面に転がった。
「ってー……何しやがる」
「ふん。わざわざこんな夜中に間抜けな神崎クンを助けに来たんだよ」
見上げた先には、傲然と腕を組み俺を見下ろす弓削の姿があった。
「何でこう、きれーに術に嵌るかな?」
どうやら本気で怒ってるらしい。
「ごめん……っつーか好きではまってるわけじゃないんだけど」
一応しおらしく謝っておく。しかしいまいち納得がいかないので、余計なことを付け足してしまった。それを耳聡く聞きつけたらしく
「……史香ちゃんに『神崎がこの前美人のお姉さんに見惚れて、ときめいて、怪しい道に誘い込まれようとしてました』ってチクってやる」
などと、世にも恐ろしいことを言ってくる。
「っつーか見惚れてねーよ」
「どーだかねー。ま、問題は嘘か真かじゃなくて、史香ちゃんが信じるか信じないかでしょ」
「わーったから。俺が悪かった」
とりあえずもう一度謝り、さっきから俺をからかいつつも一度も彼女から目を逸らさない弓削の横顔を見て付け足した。
「えーっと…………ありがとな。助けに来てくれて」
状況は全く攫めないものの、とりあえず自分じゃ解決できないのが分かったから、素直にそう言っておいた。するとようやく弓削がこちらに向いて人の悪そうな笑みを浮かべた。
「報酬は弾んでね」
「……鬼」
こいつは……薄給の俺に何を求めてるんだ。もっとも弓削は定職にすら付いていないが。いまだに占いだけで生計を立てているのだろうか? それとも絵の方で稼ぐ算段はついたのだろうか?
俺が関係もないことをつらつらと考えていると、
「何で……」
彼女が低く呻くのが聞こえた。そしてそれと同時に冷ややかな風が彼女を中心に巻き起こる。その刺すような冷たさに、肌に感じる寒さだけでなく、背筋に冷たさを感じた。
「……これ着てな」
弓削が険しい顔をして彼女を見据えたまま俺に手に持っていったマントを投げてよこした。まだ季節には早いはずなのに何でこんな物を。
「一応特殊な織り方をされているから、邪気を寄せ付けない効果が多少ある」
そういえばお祓いとかするときは、真夏でもこのマント持ってたな、と納得しながらマントを大人しくはおった。……暑い。
「何で……皆、私からそれを取っていくのよ」
悲痛な叫びが響き渡ったとたん突風が巻き起こった。咄嗟に地面に伏せてやり過ごす。
風がやんで顔を上げると、赤い花びらが宙を舞っていた。その中で弓削は何もなかったように平然と立っている。
「返してよ。返してよ!」
「駄目ですよ」
弓削はいつになく冷ややかに宣告した。
「これは貴女の……綾辻明子さんの物じゃない。更級幸子さんの物です」
「……誰?」
あまりにも状況が飲み込めないので、思わず尋ねた。
「あれ? 聞いてない? この小物入れへの思い入れの理由」
「そりゃ聞いたけど」
「その、一目惚れされたのが更級幸子さん。史香ちゃんのおばあさん。で、元婚約者は綾辻明子さん」
「…………あぁ」
ようやく、昼間に聞いた話と人名が結びついた。
しかし……それじゃあこの綾辻さんが小物入れを欲しがる理由が分からない。これはだって史香さんのおばあさんの物なんだろ?
「神崎は気付かなかったかもしれないけど、あれは飽くまでも幸子さんが史香ちゃんにした『お話』なんだよ」
「どういうことだ? 嘘をついたっていうのか?」
「そうは言わないよ。ただ、片方の視点に偏ってるというだけの話だよ。確かに幸子さんの旦那さんは明子さんとの婚約は親が決めた婚約であり、綾辻家のほうに不利な政略結婚だったんだ。だから婚約の取りやめは、更級家のほうにしてみればそう大変なことではない。だけど、明子さんは……」
そこで弓削は言葉を切った。まるでそれ以上話すのは無粋だと言わんばかりに。俺もそうだろうと思ったので口をつぐんだ。
「どうして、どうして皆私から大切なものを奪っていくの? その小物入れだって……本当は私が貰うはずだったのに。どうしてただの庶民の女なんかが」
激した言葉自体が、激した想い自体が刃物のように鋭く襲い掛かってくる。それはまるで形のある刃物のように、周辺の彼岸花を散らした。赤い花が宙に舞う。首から切られた花が舞い、無残にばらばらにされた花びらが舞う。それはまるで鮮血が飛び散るようにも見えて。俺はそれにぞっとし、身を低くしてマントを頭から被り、その攻撃に備える。弓削は正面から印を結んで構えた。
「
腹式発声のよく通る声で弓削は経でも唱えるように言った。すると激しく吹き荒れていた風がやみ、音がなくなった。
「いや、やめて。消さないで!」
明子は弓削に怯えたように目を向けて叫んでいた。足元から、透けてきている。
「消えてください。貴女は、消えなくてはいけない」
甘い様子など微塵も見せない弓削に俺は息を呑んだ。こんな姿はめったに見たことがない。いつもは宥めすかすようにして成仏させているのに。
「いやーっ!!」
長く尾に引く叫び声が響き渡り、視界が暗転した。
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