第三章 懐旧(二)

「暑いー。暑いー。暑いー」


「煩いなぁ。そんなこと言われなくても分かってるよ」


 ずっと「暑い」と言いっ放しの俺に、弓削は額の汗を拭いながら文句を言った。だが、分かってると言うが、多少汗をかいているものの、俺よりは涼しそうに見えるのだが。何かこずるい手でも使ってるんじゃないか? こいつならありうる。


「あるわけないだろ」


「………何で考えてること分かったんだよ」


「そりゃ分かるよ。神崎って思ってること顔に出すぎ。初めて会ったときもそうだった。『何だこいつ? もしかして、ちょっとアッチ系の人なんじゃ…?』って思ってるの、ありありと分かった。で、ちょっと腹が立った」


 そうなのだ。あの頃こいつが今以上に俺に対してだけ刺々しくしてたのは、初対面のときが原因らしい。


「ただ単に、汗かきにくいだけだよ」


「ふーん。新陳代謝悪いんだ。年?」


 思わず憎まれ口を叩くと、弓削はこちらを向いて人の悪い笑みを浮かべた。


「あの頃の神崎は、僕と二人でいる時とかほんとビビッてたからね。それも腹の立った要因」


「………しゃーねぇだろ。だっていきなり『憑いてる』だぜ、『憑いてる』。普通誰だってびびる」


 今思えば何であんなに、と思うぐらい俺は弓削に対して警戒していた。だから今それを言われれば、かなり恥ずかしい。当然こいつは分かって言ってるんだろう。


「特に幽霊の噂と、行方不明者の噂が流れた時。噂聞いたとたん、僕のほう見たでしょ」


 そーだよ。なんか知ってんじゃねーかなって思ったんだよ。悪いか。当時も弁明したが、決して疑ってたわけじゃない。



    * * * *



 神隠しが起こったと聞いたのは、俺と弓削と清信は同時だった。聞いた相手はやはり同級生。


「一年下の森下、って奴らしい」


 最初の情報がこうだった。


「へぇ」


「ふーん?」


 ……ちなみにこの関心のなさそうなのが、順に清信と弓削の反応。


 そして俺は…………その同級生に対しては返事一つせず、弓削を注視した。もしかしたら何か知ってんじゃないかな? という考えと共に。ほんの、軽い気持ちだった。


 だけど。


 目が合った時の反応は決して軽くはなかった。


 完全なまでの、感情を窺わせない無表情。何も受け入れないというようにきゅっと固く結ばれた唇。こちらを向いている瞳は何の感情も表さず、全てを跳ね返す鏡のようだった。なまじ顔が整っているだけそれは…………


 まるでそれは、人形のようで。


 まるでそれは、生きていないかのようで。


 まるでそれは、この世のものではないかのようで。


 正直…………恐ろしかった。人がこんな顔をすることは見たことがなかったから。


 目が合ったのはほんの数瞬。その次の瞬間には、


「と、いうか、その森下って誰だよ。そんな知らない名前出されても全然実感わかないし」


 と、清信が言った言葉に笑って頷いていた。


 うちの学校は比較的人数も多いほうだったので、学年が違うものはおろか、同じ学年でも知らない奴は結構いた。だから清信の言葉も冷たいと取るのはちょっと酷だろう。実際俺も実感が湧かなかった。感覚としては結構信用度の高い怪談程度か。あくまでも他人事でしかなかったのだ。それはきっと他の同級生にしても同じことだろう。


 それがいきなり実感を伴った事件となったのは、夏休みの直前、七月中旬のことだった。坂田が、行方不明になった。


 いままで怪談としてしか認識していなかったことが、いきなり実感を伴って目の前に突きつけられた。教室に一つだけある、誰も座らない席。


 怪談ではなくなった。


 他人事ではなくなった。


 次は自分かもしれなくなった。


 そんな無言の恐怖が教室を塗りつぶしていった。日に日に重くなる空気。何かの拍子に唐突に凍りつく空気。恐怖というよりはその空気に真っ先に耐えられなくなったのは俺だった。坂田とは互いに嫌いあっているものの、決して知らない中ではなかったからかもしれない。


 耐えられなかった俺が頼ったのは弓削だった。


 たまたま清信が席を外している間に神隠しのことを切り出した。


「なぁ、神隠しについてどう思う?」


「別に? 僕、坂田君のことよく知らないし」


 そう、冷淡な返事が返ってきた。他の同級生には見せない、酷薄なまでに冷め切った一面。どうでもいいかのように突き放してしまう一面。


「じゃなくてさ………えーっと……本物?」


 そう、何と聞けばいいかも分からずに適当に言葉を選んだら、弓削に馬鹿にした目で一瞥された。


「元々神隠しっていうのは、本物はあまり多くないらしい。実際は今ほど戸籍がしっかりしていなかった時分に起きた誘拐事件が多いと聞いたことがある。もし行方不明者が出ても今ほどきちんと探さず、神隠しとして処分した例が多い」


 淡々と一般的なことを語る、決して今回のことには触れない。


「じゃなくてさー………」


「どうしてそんなことを僕に聞く?」


 刃物のように鋭い視線と、切りつけるような口調でそう尋ねた。


「そんなことを聞いてどうしようというんだい? そうだよ。この神隠しは本物だ。本当の怪奇現象だ。だったら君はどうしようというんだい? 君に、何ができるっていうんだい?」


 一見冷静なような口調で、しかしその裏側では感情が押さえつけられているようだった。その押さえられた激しい感情が、じりじりと伝わってくる。


「確かに俺は何もできないけどさ、お前だったらできるんじゃねーの? だって、見えるんだろ?」


 それを聞いて弓削は暗い、皮肉るような嘲笑を口元にだけ浮かべた。それを見て俺は地雷を踏んでしまったことを悟った。


「見えるさ。見えるのと、解決できるのは違う。それに…………今まで散々怖がってきた僕にそんなこと頼むのかい? もしかしたら僕が犯人かもしれないよ?」


 弓削は自分でそう言った。異端なのだと、畏怖すべきものなのだと、敬遠するべきものなのだと。口元だけに刻まれ、決して目元を和ませない笑み。だが、その目は既に無表情でいられなくなっているようだった。感情に揺らめく。それは、嘲りのようで、怒りのようで、諦めのようで、恐れのようで、悲しみのようで……。


「図々しいんじゃない? 今更頼ろうなんてさ。疑って、怖がって、恐れて、畏れて、距離を置けばいいんじゃないか。僕が犯人だって信じてればいいんじゃないか」


 揺らめく色が、必要以上に饒舌になるのが虚勢だと知らせていた。


 立て板に水のように言い募る弓削の言葉を遮って、俺はこれだけは口にした。


「それは、ないと思う」


 俺が言い切ったことで、弓削は酷く驚いたようだった。何か言いかけ、口が半開きのまま固まっている。今までの皮肉な口調が全くあってないような、存外幼い表情をしていて、その表情にはきょとんという言葉がよくあった。


「何で…………?」


 そう問い返されて、今度は俺が困惑した。だって勘だったんだもん。感情の揺らめきが見て取れたからそうじゃないかと思っただけ。どこか、傷ついたような、迷子になってしまったような色が見えたからそう思っただけ。決定的な証拠なんてないし、理論的な思考もない。


「……なんとなく。だって、お前なんか見えるみたいだし裏表ある性格してるけど、他は普通だし。っつーか……悪かった」


「はい?」


「最初聞いたときすっごく唐突だったから大げさに驚いちまったし、そのあともなんか苦手だったから何かと避けてたりしたけど、別にお前が嫌いなわけでも怖いわけでもないから。ほんと、ごめん。今回も何か無理矢理聞いちゃって」


 俺は目を伏せて弓削から視線をそらした。どんな反応を示すか分からない弓削をそれ以上見たくなかった。馬鹿にされるか無視されるかどっちだ?


「……後悔しない?」


「え?」


「本当に帰ってきて欲しい?」


「え? まぁ、うん」


 坂田は嫌いだし、死ねと罵ったことも一度や二度ではきかないけれども、本当に死んでほしいわけではない。帰ってくるか来ないかだったら、帰ってくるほうが絶対いい。


「分かった」


 弓削はそれだけ言うと、鞄を持って教室から出て行こうとした。


「な、何が分かったんだよ?」


 むしろ今のどこで怒ったの?


「神崎がすっごいイイヒトだってことがさ。それに免じて今回僕が手を出すよ。けど、神崎と僕は大切なものを失うことになる。それでも恨まないでね。今夜、二時、正門で。遅れんなよ」


 それだけ言い残して、弓削は早々に清信を待つことなく教室を後にした。



    * * * *



「やっと着いたか」


 ようやく寺の前に着いた時には汗で着物がびしゃびしゃになっていた。今すぐ水でも浴びて着替えたい。


「そーいえば、神崎が救いようもなくお人よしだって気付いたのもあの時だったけ?」


 あの時、弓削は俺が呆れるほどイイヒトだと気付いたらしい。


 そして俺はあの時、知るということの重さを知ることになった。



    * * * *

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